簡素な衣服は亜子の年齢に合わせた娘用の衣服だ。スカートはくたびれ、ボタンも貧相。その上からローブを羽織る。ローブだけは頑丈にできていて、フードもついている。顔を隠すためだろう。
亜子は階段を降りて、カウンターで食事の用意をしている夫婦を見遣った。彼らは地図を持っている亜子を一瞥し、裏口を指差す。亜子は小さく会釈して、そちらから店外に出た。
(さて、と。夕方には戻ってこなくちゃ)
治安がいいとは聞いているが、夜になると亜子の姿は変わってしまう。用心したほうがいいだろう。
町中は閑散としており、道もむき出しの土だけだ。舗装されてはいないし、馬車が通ったあともない。足跡だけだ。
地図を見ながら歩きまわり、色々な店を覗く。日本では見かけない店も多い。それもそうだ。ここは異世界なのだから。
大きな宿舎もある。ぼんやりと見上げていると、通りかかった人がいたので尋ねてみた。
「ここはなんの宿ですか?」
「あんた旅人かい? そこは宿屋じゃないよ。
弾丸ライナーの乗務員たちの宿舎さ」
「弾丸ライナーって……えっと、列車の?」
「そうそう」
頷きながらその人は去っていったが、亜子は列車に興味が湧いた。
(そういえば宿の旦那さんが駅があるって言ってた。列車に乗って、色んなところの遺跡を回るんだ……)
そうしなければ地学者などなれない。亜子はきびすを返して歩き出す。
どんっ、と誰かにぶつかった。
「す、すみません!」
慌てて謝って頭をさげる。
見遣ると、相手は無表情でこちらを見下ろしていた。長身の若い男だ。年齢はマーテットより下、シャルルよりは上、という印象だ。
彼はしなやかで鍛えられた体躯をしており、褐色の肌をしていた。長い白い髪に、片目を覆うように眼帯をしている。身体全体を覆うようなローブ姿の青年は、亜子をちらりとだけ見てさっさと歩き出した。
むっとする亜子は、それでも気になる。
ここには白人しかいないはずだ。なぜ……?
(でも顔立ちは西洋人に近かった。肌の色だけ違うっていうか……)
しかも……またそこそこ美形だった。ここにはごろごろしているのだろうか……。
町を見て回るのは楽しかった。地学者になるなら、旅装が必要だということも服屋の店主から聞きだした。
「おやあ? もう13歳になってると思うが……登録がまだなのかね?」
「え? ええ」
慌てて誤魔化すが、店主は抜けた歯のある口で豪快に笑う。
「なるほど。かなり遠くから来たのか、タイミングを逃したのかね。そういう人もたまにいるから安心おしよ」
「は、はい」
「お嬢ちゃんはなにになるつもりなのかね?」
「地学者……が、いいかなと」
「遺跡探索者か! でも調査団がやってるのに、そこまで遺跡に行きたいものかね?」
「この目で確かめたいというか……」
もごもご言っていると、店主は亜子の顔を覗き込んでこようとする。慌てて亜子は身を引いた。顔を見られたらトリッパーだと気づかれてしまう!
「恥ずかしがり屋さんだねえ。田舎の村の出身なのかな」
「は、はい……」
「でも地学者か……うーん。じゃあ旅が大変なのは覚悟しなくちゃな。列車があるとはいっても、駅のない村や町までは徒歩や馬車で行くことになる。
間違っても荒野に徒歩で行こうなんて、馬鹿なことは考えないようにな!」
そういえばこの世界のほとんどは荒野に呑まれたと説明された。
(荒野って……あたしのイメージと違うのかな……)
荒れ果てた大地をぼんやりと思い浮かべていたが、なんだか違うような気もしてきた。
(知らないことが多すぎる。もっと勉強しなく……)
ちゃ、と続けようとして吐き気がこみ上げてきたのを感じた。
そういえば昔も、同じようにこうしてなにかを必死に学んでいた。受験のためだったのだろうか?
だがここには受験はない。亜子の前にある試練は、ひとまず『職業登録』だけだ。
*
疲れて宿屋に戻って夕食を部屋でとり、亜子は眠っていた。
一つだけある窓から月光が室内に入ってくる。と、その窓が開いた。
ぬっ、と現れた長い手が何かを握っている。それが寝台にいる亜子目掛けて素早く投げられた。
反射的に『音』で飛び起きた亜子は寝台を蹴って天井にはりついた。
窓から外を見る。そこには褐色の腕が見えている。
「だ、誰!」
騒ぎを起こすわけにはいかない。階下ではまだざわついている。客がたくさんいるのだろう。
亜子は腕がすっと引かれるのに怪訝に思って、窓に近づく。と、引っ込んでいた手がまた伸びてきた。喉を掴み、小さな窓から亜子の身体を引きずり出そうとしている。
「う、あ、あ……!」
痛い!
喉も痛いが、窓から無理やり引っ張り出されて亜子は宙を舞う。
(まずい!)
瞳と髪の色が瞬時に変わり、彼女はくるくると空中で回転し、猫のように見事に着地した。
ぜはっ、と息を吐き出すが、危機は去っていなかった。誰かが亜子を背後から羽交い絞めにして持ち上げたのだ。
「ぐ、ぅ……っ!」
あまりにも力が強いので抜け出せない!
意識が飛びそうになるのを堪えていたが、ふいに声が聞こえた。
「アスラーダ!」
その声が合図になったように、亜子の身体を縛り付けていた手が離れた。素早く背後の気配が距離をとる。
ローブを羽織った二人組が亜子の前に、立ち塞がるように躍り出てきた。
一人は純白と金糸のローブ。もう一人は黒い非対称の変わったものだった。
街灯のない夜道は暗く、見通せない。けれど金色の輝く亜子の瞳には見えていた。黒いローブに身を包んでいる長身の男の姿がある。
(あれは……!)
昼過ぎに町で見かけた褐色の肌の青年だった。ローブの下から見える肌といい……夜目がよくなっている亜子には彼の顔がよく「見えた」。
(なんで……)
視線を目の前へと移動させながら、今さらながらに喉を締め上げられていたことを思い出して咳をする。すると、白い外套のほうが屈んでみてきた。
「大丈夫か、アガット」
「その声……殿下?」
「おれっちもいるぜぇ?」
「じゃあ……そっちはマーテットさん?」
顔を隠しているシャルルとは違い、マーテットは隠れていない。隠す必要がないのだろう。
佇んでいる襲撃者を睨みつけ、シャルルが叫ぶ。
「逃がすな、アスラーダ!」
「んなむちゃなぁ!」
マーテットがシャルルの声に半泣きのような声をあげていたが、キッと前を睨むやぐっ、と拳を握った。
次の瞬間、開いた掌の指と指の間にはメスがずらりと挟まれている。
「『裂け、追尾せよ』」
短い詠唱のあと、メスを右手、左手、と勢いをつけて投げつける。
16本のメスが空中を鋭い勢いで飛ぶ。投げつけた勢いだけではない速度だ!
暗闇の中、月光さえもないこの曇り空の中で、宙を飛ぶ人物はメスを別の何かを投げつけて叩き落とす。だが折れたメス以外は空中で動きを変えて、襲撃者を再び狙った。
「殿下! もたねぇって!」
「わかっておる。時間稼ぎとしては充分だ」
薄く笑うシャルルの足元には魔法陣ができている。彼に似合う鮮やかな赤色の魔法陣が徐々に地面へと広がり、輪を連ねていく。
「『炎尾よ、焼き払え』」
シャルルの命じた言葉に従うように、魔法陣からどっ、と炎が飛び出して巨大な狐のような姿になる。そして大きく口を開けて襲撃者を食らい尽くそうとした。
襲撃者は再び武器を構える。
(食べられちゃう!)
思わず身を縮こまらせる亜子の目の前で、襲撃者は器用に跳躍し、方向転換をして攻撃を避けた。だがメスがその身体に突き刺さる。
襲撃者は慌ててメスを振り払い、地面に着地して軽やかに逃げていった。
呆然としていると、マーテットが頭ががしがしと掻きながら「あーあ」とぼやいた。
「逃げられちゃったっすねー、殿下」
「惜しいな」
「いや、惜しいけどぉ……殿下、ここが下町だって忘れてません?」
「む?」
眉をひそめるシャルルは周囲を見遣り、ああそうかと納得した。
「目立つ行為は控えるべきだったな」
「……遅いっスけどねぇ」
「良い良い。アガットが無事だったのだ。それでよかろうよ」
「……そういう問題でもねぇけど……ま、いっか。オッスの旦那にあと任せよ」
どうでもいいやという感じでマーテットは言い放つ。
シャルルはばさりとローブをひるがえし、亜子のほうを見てくる。フードに隠れている美貌が見えるたびにどきどきしてしまうのは、彼が綺麗すぎるからだろう。
王子様がこんなところに居ていいはずがない。彼は何をしに来たのだろう?
「無事だな、アガット」
「は、はい」
思わず頷く。
そもそもなぜ、自分がここに居ることがわかったのだろう?
そっと二人を見る。
シャルルは腕組みしてこちらを見下ろしていて、手を貸す気はないようだ。それもそうだ。彼は「王子様」なのだ。
自力で立ち上がった亜子は襲撃者が逃げた夜道を睨みつけるように凝視していた。
「しっかし、初日から狙われるって……アト、どっかで目ぇつけられたのか?」
「目をつけられるって……覚えがありません」
嘘だ。あの青年には自分がトリッパーだと見破られたのだ。
(気づかなかった……。あたし、もっと用心深くならなくちゃ……)
しかし亜子の言った言葉を信じたのかマーテットは頷く。
「まあそうだよなぁ……。てことは、情報が洩れてたのかな」
マーテットが首を捻った。
「アスラーダ、それは大問題だろう」
「うわっ、殿下がおれっちを怒るのは筋違いっしょ!」
「で、殿下。あたしは大丈夫でしたし……今後は気をつけますから」
慌てて二人の間に入り、仲裁をする亜子に、シャルルは不機嫌丸出しの顔をした。美形がこういう顔をするのはかなり怖い。
「…………………………」
長い沈黙をしたままこちらを凝視されて、亜子は居心地が悪くなる。
どうしようとマーテットに視線を遣るが、彼は彼でなにか考えているようで上の空だ。
……亜子は今起きたばかりの出来事を思い出して、ゾッと冷汗が出た。
(一歩間違えば……あたし、どうなってたんだろう)
殿下やマーテットさんが来なければ?
トリッパーを捕まえ、拷問して知識を吐き出させるという傭兵集団がいる、という言葉が頭の中を反芻する。そんな恐ろしいものに捕まるわけにはいかない。
今回は『偶然』助かった。だが次回もそういくとは思わないほうがいい。運任せなどありはしないと亜子は知っていた。そう、どんなに努力しても、結果に繋がらないことを知っ――――。
(?)
まただ。記憶が混雑する。
よせ、妙なことを考えるのは。今は目の前の問題を片付けなければならない。
「ここにはもういられねーな。居場所がバレてんじゃ、襲ってくださいっていってるようなもんだし」
「同意だ」
シャルルもマーテットに頷いた。亜子は二人の遣り取りを聞いて、どうするべきか悩む。
ここに居ても、たぶん大丈夫だろう。たった6日だ。それだけ凌げば、自分は自由になれる。地学者となって、どこへでも行ける。
(大勢で来られたらだけど……でも)
こうして耳を澄ませば遠くの音も聞こえる。食事を続けている人々の息遣いや笑い声も。
でも不安は、拭いきれない。
死ぬかと思ったのだ。その恐怖がまだ、亜子に躊躇わせる。
今後、何度かこういう目に遭うことだってあるだろう。そう予測はできるのに、いつも誰かが助けてくれると期待してしまう?
期待? いや。ちがう。
(そう、あたしは知ってる)
期待なんてできない。自分の力しか当てにならない時だってある。
拳を握り締めた。
努力したぶんだけ結果がかえってくるとは限らない。だけど、やるしかないのだ。
耳鳴りのように、誰かの声がした。ドアを開ける音。そして食器の音。返事をする声。それに対して当たり前のように返す声。
「っ!」
耳を塞いで亜子はその場にうずくまった。
どうしてだろう……。どうして自分はこんな目に遭っているのだろう? なにも自分じゃなくてもいいじゃないか。
涙が零れ、嗚咽が喉を通って出てくる。
その肩を強く叩かれた。
「アガット、みっともないぞ!」
言葉の暴力を受けたように亜子が硬直し、恐怖に歪んだ目でシャルルを見た。だが彼は毅然とした態度を崩さない。
「泣くほど怖かったのなら、言葉にしろ! 黙って震えていても、誰も助けてはくれん!」
「……え」
瞬きをすると、また涙が一筋流れた。それを乱暴に拭うシャルル。
「……やめてください、殿下」
小さくそれだけ言って、亜子は俯く。
「あたしは……あたしは、頑張ったって、だめなんです。だめだったんです。あんなに頑張ったのに、ダメだったんです……」
ぽろぽろと零れ落ちていく涙に亜子は困惑する。自分はなぜこんなことを言っているのかわからない。
「またあたしに強要するんですか……頑張れって。やれって!」
怒鳴るように言い放ち、亜子は顔をあげた。シャルルは小さく笑っている。
「? なんでわらって……?」
「怒鳴れるくらいなら、まだ立てるな?」
「は?」
「立て」
命令され、のろのろと亜子は立ち上がった。彼は満足そうに頷く。
「アスラーダ、アガット自身に選択させる。よいな?」
「……それ、すっげー難しいこと言ってるってわかってます?」
「わかっておる」
尊大なシャルルは亜子をまっすぐに見てきた。
「期間は短くなるが、試用期間ということでどうだ? 余の侍従になるか?」
「おれっちの助手になるって手もあるぜ?」
「それとも、ここで一人で頑張ってみるか?」
亜子は目を見開き、二人を凝視する。差し出された手はあまりにも誘惑に満ちて、そして波乱も含んでいた。
どの道もきっと険しい。だが……亜子は決意して口を開いた。