Barkarole!U 序章8

「殿下」
 いきなりの声に、菓子に夢中になっていた亜子はびっくりした。いつの間にかメイドが近づいてきていたのだ。
 彼女は控え目に頭をさげて告げる。
「そろそろ昼食のお時間になります」
「ではこの二人も同席させよ」
 えっ、とメイドの娘はこちらを見た。マーテットは興味がないような眼差しをしているし、亜子は明らかに異邦人丸出しの外見だ。どうすればいいのかと判断に困っているのだろう。
「たかが食事だ」
「しかし……アスラーダ様は良いとしても、そちらの方は……」
「貴族ではないから無理と言うか。余の命令が聞けぬと?」
 脅すような口調になるシャルルは明らかに不機嫌だ。困惑する亜子が立ち上がる。
「いえ、あの、殿下、お気遣いはありがたいですけど……あたし、帰ります。お話はまた今度で」
 これ以上いると、この気まずい空気に耐え切れなくなる。なんだろう、心の奥がざわつく。
 白い雪。白い掲示板に埋め尽くされた数字の群れ。けれどそこに目的のものは…………。
「ならおれっちもかーえろ。アト、宿まで送るぜ?」
 明るく笑うマーテットはそれでもなにかを狙っているような笑みを隠そうとはしない。純粋に亜子に興味があるのだろう。
 シャルルはこちらを観察するように見ていたが、仕方なさそうに目を細めた。
「では後日。アスラーダ、おまえはアガットを送ったあと、ここに戻れ」
「……あ、あの……殿下、おれっち研究があってですね?」
「そんなものは知らん」
(知らんって……殿下、なにげにひどい)
 亜子はマーテットと一緒にあずま屋をあとにする。
 用意されていた馬車に乗り込むと、向かい側の席にマーテットが座った。
「いやぁ〜……シャルル殿下ってあんまり人前に出てこない人なのに……ああいう人だったんだなー」
「え? そうなんですか?」
「そうそう。ま、催し物とかの皇族が顔を出すものには出てきてるけど、あまり楽しそうでもないし。オッスの旦那がよく警護を任されてるから話だけは聞いてたけど」
「オッスの旦那?」
「昨日会ったっしょ? オスカー=デライエ少佐。あ、そっか!」
 今さら気づいたようにマーテットは身を乗り出してくる。
「アトは『ヤト』のことも知らねーんだ!」
「やと?」
「つーか、なんにも知らないんだよなぁ……。おれっちが教えていいものなんかね」
 背もたれに深く腰掛けるマーテットはしばらくして、口を開いた。
「『バースト・ダウン』のことは聞いたのか?」
「はい」
「で、『帝国』がほぼ大陸全土を占領した。帝国は軍隊を所有してるんだが、皇帝直属部隊があるんだなー。それが『ヤト』。ま、それぞれのジャンルの中から選ばれた精鋭部隊ってこと」
「軍……? 戦争があるんですか、ここは」
 いや、亜子のいた世界にだって内紛や戦争はあった。なにを訊いているのだろう、自分は。
 だがマーテットは気にした様子はない。
「まだ小さな国は存在してるし、内紛もあるからな。帝国のあちこちに軍の駐屯地があるのは、内紛の抑止力にするためだ。
 ま、ちっちゃな国は帝国が相手じゃ分が悪いから、きっかけがないと手出ししてこねぇだろうなぁ」
「………………」
 マーテットの軍服に目が釘付けになる。
 彼の着ている衣服は……たぶん軍服だ。日本の昔の軍服によく似ているデザインだからだ。だが色は真っ白で、高潔さがある。……しわくちゃの白衣さえ上から羽織っていなければ、それなりに見られるだろうに。
「あなたも軍の人なんですね」
「そうそう。軍医」
 そういえば彼は医者だった。話し方や態度ですぐにそれを失念してしまう。
「『あなた』じゃなくていいって。マーテットって気軽に呼べよ、アト」
「いや……でも、あなた年上だし」
 いくらなんでもほぼ初対面の人間に気安く話しかけられるような性格はしていない。
「そんなこと気にすることねーって。アトはおれっちの実験体なんだし!」
「……承諾してません、そんなこと」
「べつにそんなたいしたことするわけじゃないんだけどなー」
「…………」
 実験体というもの自体が、遠慮したい単語だ。
 馬車が着いた場所は大きな広場だった。中央に噴水がある。その周囲には様々な衣服の人々が行き交っているが、亜子のような外見の者は見当たらなかった。
 まるっきり外国に来てしまった場違いな日本人だ。
「下町はこっちこっち」
 マーテットは白衣のポケットに両手を突っ込んで亜子を促す。亜子は彼に続いて歩き出した。
「本来なら、中央都庁のやつらの仕事なんだけど、殿下が出てきちゃってさー」
「殿下……が?」
「そうそう。やたらとアトのこと気にしてて、色々とオッスの旦那に指示を出したみたいなんだよなー」
 朝からあの部屋にいたのは……もしかしてその一環なのだろうか?
 亜子は心臓に悪いシャルルの美貌を思い出し、嘆息する。
「名前の登録も殿下がやっちゃったみたいだし」
「え? そうなんですか?」
「そうそう。余の屋敷に滞在させよの一点張りで、かなり周囲を困らせたみたいだぜー? ま、6日間は監視がつくから許可は出なかったみたいだけどな」
「監視……。あの、どこにいるんですか、その監視っていうのは」
「ああ、おれっちのこと」
 ポケットから片手を出して、マーテットは己を指差した。ぎょっとする亜子が足を止めると、彼も止まって振り返ってきた。
「あり? どした?」
「マーテットさんが、あたしの監視ですか?」
「まーねー。つっても、アトは西区からほとんど出れないから、監視する意味はねーんだけど」
「? どういうこと?」
「下町は四つの区画にわかれてて、一番治安がいいのが西区なんだが、トリッパーは職業を決めるまでの間、社会見学として西区内だけをうろつける。
 ま、夜間は危険だから無理だけどな。案内してくれるのは宿屋にいる専門家だな。一人でいいなら地図も渡されるぜ?」
 よくわからないが、他の区画は危険が増すということだろう。
 実際に行って見なければわからない。亜子はとりあえず大人しく頷いた。



 亜子が6日間の間泊まるという宿屋に案内された。そこはこじんまりとした二階建ての家だった。いや、食堂か?
 出てきたのは三十代くらいの夫婦だった。マーテットの姿にギョッとした彼らは深く頭をさげる。
「あーあー、いいっていいって。平民に頭さげられるのうんざりだし」
 面倒そうに手を振ってそう言うマーテットを亜子は見上げる。そういえば彼は「貴族」だと言っていた。
(……もしかしてこの世界は階級があるのかな……)
 皇族、貴族と出てきた。そして平民……。間違いなく亜子の読みは当たっているだろう。
「今日からここに厄介になるアガット=コナーだ。部屋は?」
「すでに中央都庁の役人様から準備を整えてもらっております」
 女のほうがかしこまったように震えながらそう告げた。
 マーテットはふぅんと呟き、家屋を見上げる。
「へー。トリッパーはいつもここで過ごしてるのかー」
 そう言った途端、亜子のほうを振り向いた。彼は亜子を促す。
 亜子は前へ出て、夫婦をおずおずと見た。
「アガット=コナーです。6日間、よろしくお願いします」
 礼儀だろうと思った。だから頭をさげる。だがその様子に夫婦は戸惑ったようだ。
(……まあいきなり他人を泊めろって言われて困らない人のほうがおかしいよね)
 内心苦笑してしまう。
 マーテットが亜子の肩を軽く叩いた。
「ま、おまえさんがここにいるのは隠匿されてるし、西区であんまりうろうろしなきゃ、変に目をつけられることもないさー。へっへへ」
「マーテットさん……」
「そんな心配そうな顔すんなよー。6日間終わったら、おれっちのとこ来てもいいんだしさ!」
 笑顔で言っているが……それはどういう意味なんだろう……。
(実験体的な意味だよね……絶対)
 これさえなければと思ってしまう。
 マーテットは軽く手を振ってさっさと去ってしまう。残された亜子は夫婦に倣って店内に入った。まだ店開きがされていないからか、店内には誰もいない。
 昼か夜にでもなればここも人で溢れて賑やかになるのだろう。綺麗に整頓されたテーブルやイスでその様子が想像できた。
「こっちだ」
 夫の男が二階への階段へとあがっていく。亜子も続いた。
 二階は屋根裏部屋のように狭く、明らかに人を泊めるのに適していない。確かに1階の天井はかなり高かったので、構造上はこうなるのが当然なのだろう。
「朝、昼、夜は飯を運んでくる。そこにローブがある。出かける時は必ず羽織るように。顔を隠せ。それと、西区から出るな。地図はこれだ」
 淡々と男は言い、亜子は受け取った地図をまじまじと眺めた。区切ってある円形の町。それがここなのだろう。中央広場も描いてあるが……。
「あの、中央広場には行っても大丈夫なんですか?」
「死にたいなら構わない」
 あっさりと言われて亜子が目を見開く。
「し、死ぬって……?」
「説明されただろ。トリッパーは命を狙われると」
 だから? だからローブで顔を隠せと言ったのだこの人は。
 亜子はごくりと喉を鳴らし、慎重に頷いた。
「一人で行くのは自殺行為だ。中央広場には酒場や宿屋が多い。そこには駅があるからだ。旅人が多くいるが、逆に傭兵ギルドの連中も多い」
「傭兵……?」
「金で動く平民の集団だ。だが中には、トリッパーを捕まえるのを主目的にしている連中もいる」
 それは聞いた。なんという名前の集団だったのだろうか、思い出せないが。
 亜子は深く頷き、わかりましたと言った。
「じゃあ西区だけにします。ありがとうございます。わからないことが多いので……あの、色々訊いても大丈夫ですか?」
 女が戸惑ったように夫を見るが、夫は無表情で言い放つ。
「俺たちじゃ、応えられない」
 そう言って、ドアをぴしゃんと閉められる。残された亜子は大きく息を吐いた。
 つまり……他人を頼れないということだ。ここには亜子を守ってくれる人はいないのだ。
(いきなり独立かぁ……)
 無茶苦茶だ。
 泣きそうになってしまう。故郷を懐かしいと思う気分は薄く、亜子はなにに対して戸惑っているのかもわからなかった。
 6日だ。それで何かを掴めなければ……。
 そう考えると緊張と怯えで体がぶるりと震えた。



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