Barkarole! インベル1

 亜子が選んだのはマーテット=アスラーダの助手、という立場だった。
 マーテットに好意があるからではない。右も左もわからない世界で、皇子についていくよりはマシだと思ったのだ。
 馬車に乗せられて到着したのは、あの夜襲のあった建物だった。広大な庭園では同じような衣服……制服だろうか? それらを身にまとっている者が忙しなく行き交っていた。
 夜の静けさとは打って変わった騒がしさに、亜子は思わず耳を塞ぎたくなった。
 ここは魔法院。魔術や医術を学ぶ学校、らしい。
(まあ学校と言われても、そうなんだぁとしか言えないけど)
 制服と表現するにはおこがましい、私服の上に羽織った同一のマント。背中部分には、大きな校章が描かれているからそう思っただけにすぎない。
「早く降りろよ」
 飄々としたマーテットの言葉に我に返り、亜子はすぐさま馬車を降りた。御者はマーテットから賃金をもらうと、丁寧に頭をさげてその場から馬車と共に去っていった。
 マーテットが歩き出し、亜子はそれに倣ってついていく。彼は正面の入り口ではなく、夜襲のあった別の入り口から中に入った。
「あの」
 声をかけると、マーテットは「んお?」と振り返ってくる。眼鏡もついでに押し上げた。
「助手、ってなにをすれば……」
「おれっちの実験体!」
 瞳を輝かせる彼に、亜子は疲れたような眼差しを向けてしまう。仕方がないと思う、自分の態度は。
「それは承諾していませんし、殿下も許可しなかったはずですけど」
「……ちぇ。まあ、実験には少しつきあってくれればいーけどさ」
 唇を尖らせるマーテットは、『立入禁止』の先にある部屋に入っていく。そもそもなぜ彼は『立入禁止』の先に居たのだろう?
(ここに住んでるってわけじゃないと思うけど)
 恐る恐る足を室内に踏み入れた亜子は、改めて部屋を見回す。……なんだかたくさんの本が散らばり、実験器具があれこれ置いてあるが……何に使われているのかさっぱりわからない。
 一夜明けてここに移動したわけだが、緊張してしまう。またあの男が襲ってこないとも限らない。
(殿下のお屋敷にすれば良かったかな……。位置的に、下町から遠そうだったけど)
 遠慮したのは失敗だっただろうか……。
 思い悩んでいると、マーテットが目の前でコーヒーをいれてくれた。マグカップによく似たものに注がれたコーヒーを、亜子の眼前に突き出してくる。
「ほらよ。おれっちの特製だぜ!」
 自分も、ずずず、と音をたてて飲んでいることから、不審なものではないらしい。受け取った亜子は、恐る恐る口をつけた。
「あちっ!」
 びりっと舌先に痛みが走り、思わずマグカップを落としそうになる。困惑してコーヒーを凝視してしまう亜子は、持っているカップの熱さから今の自分の反応のおかしさに首を傾げそうになってしまう。
「???」
 もう一度、と試すとやはり痛い。
 もしや……なにか混入されていたのでは?
 顔をあげてマーテットを見遣ると、びくっとしてしまう。彼はこちらをじぃっと見ていたのだ。
(え、え?)
 戸惑う亜子につかつかと近寄り、顔を覗き込まれる。意外に端正な顔立ちの彼は、ふぅむと唸った。
「え、ちょ、あの?」
 ち、近いっ!
 焦る亜子からマグカップを奪い、彼は一口飲んでしまう。止める暇もなかった。
「うーん。やっぱりおれっちのと変わらないなぁ。猫舌なのか?」
「猫舌?」
「これくらいで熱いってことは、相当だと思うぜ」
 にやり、と笑うマーテットがマグカップを返してきた。受け取りつつ、亜子はコーヒーの波打つ表面に微かに映る自分を見つめた。
(味覚とかもおかしくなってるのかな。いや、でも……出された食事は変に感じたことはないけど)
 急に怖くなってくる。見知らぬ世界で、己の味覚さえも狂うなどとは思ってもみなかったことだからだ。
「アトの部屋はこっちね」
「は?」
 部屋?
 いつの間にか部屋を横切り、壁際まで歩いていたマーテットに亜子はびっくりして声をあげた。
 彼は隣に続いている小さなドアを開けて、ほらほら、とばかりに手招きしているではないか!
「…………」
 ここに暮らすのか?
 じりじりと近づくと、促されて隣室を覗く。うっ、となってしまう。そこは明らかに仮眠室だった。
「んん? ここじゃ不満なのか? 贅沢思考だなー、アトは」
「えっ? いや、そういうわけじゃ……。充分です。ありがとうございます」
 簡素だがベッドはあるし、生活をするのに不便はなさそうな……気がする。
 なんだろう。部屋の大きさはちょうどいい。だからだろうか? なにかを、思い出すような気持ちになる。
(なにかに似てる……)
 意識が掠れたようになるが、すぐに戻った。ぱち、と瞬きをした。
(? なに、今の)
 記憶混濁の影響だろうか?
 渋い表情の亜子の傍から、マーテットは言う。
「おれっちは気にしないけどぉ、あんまり顔に出すなよ。アトは平民なんだからな。この魔法院は貴族が多いから、いじめられるぞ〜」
 冗談半分のような口調だが、亜子は用心深くうなずく。きっと間違っていないだろうからだ。
「あの、マーテットさんはお医者さんなんですよね?」
「うん? そーだけど?」
「……なんでこんなところに居るんですか? 地下室ですよね、ここ」
「研究所がここだから、ここにいる。都合がいいからなー。それだけだよ。
 なになに? おれっちに興味津々?」
「いえ、そういうわけでは……」
 否定するが、亜子はマーテットが自分を観察していることに気づいてぎょっとした。彼はふざけた口調ではあるが、どうも亜子をじっと観察していたようだ。
「あ、の?」
「ん?」
「なんで、じろじろ見るんですか?」
「ナマモノは初めてだから、どうもねー」
 なまもの???
 表現の仕方に呆然としていると、マーテットはにやっと笑った。
「ああっ、色々実験したいのに! 殿下のところになんで現れたんだよ。おれっちのところに来れば、問題なかったのに〜」
「………………」
 心底、亜子はシャルルに感謝した。彼のところで良かった。
「じ、実験って、人体実験ですか?」
「想像してるようなものじゃないと思うぞ」
「…………」
「想像してるような、すごいのやってやってもいいけど?」
「いえ、遠慮します。っていうか、殿下は許可してないじゃないですか! 勝手になにかしたら、首を刎ねるぞって忠告されてたでしょう!」
「へへっへ! まさか本気にするなよ。するわけないだろ〜。そんなことしたら、それこそルッキーに殺される」
「る、ルッキー?」
 誰だろう? 知らない名前だ。
「おれっちの仲間! ていうか、同僚? うーん、なんだろ」
 腕組みして悩み始めるマーテットは、ふいに思考を切り替えてきびすを返した。どうやら相当気まぐれなようだ。
「アト! こっちこっち!」
 まるで子供だ。はしゃぐマーテットはまた手招きをしている。
「な、なんですか?」
 慌てて彼のほうに駆け寄ると、楽しそうに「じゃーん!」と両手を使って見せてくる。両の掌の中には、不気味な小動物が……いや、これは剥製だろう。それが横たわっていた。
「うっ」
 目を剥く亜子に彼は嬉々として見せてくる。
「キメラでもよくできたほうだろ?」
「…………」
「あり? なんで青くなってるんだ?」
「…………」
「おーい、アト? おい、おいおい? おーい。返事しろって。返事しないとなんかするぞー。ん? それっておれっちにとってはすげーチャンス? わっ!」
 意識がはっきりした亜子が慌てて突き飛ばそうとしてきたので、マーテットは避けてから掌の小さな剥製を隠すようにする。
「なにすんだよ。乱暴だなー。おまえ仮にも女だろー」
「そ、そそそそれはなんですか!」
「なにってキメラだろ。見たことねーのかー?」
「ありませんッ、そんな不気味なもの!」
 そこらにいる小動物と昆虫、爬虫類をごちゃ混ぜにしたような不気味な剥製など、知るわけがない!
 マーテットは目を細め、不満そうだ。「よくできてるのにー」とぶつくさ言っている。
「そ、そんな不気味な生物がいるんですか、この世界は」
 驚愕だった。とてもではないが、こんな気色の悪い生物がいる場所を歩けない。
 マーテットはそこで初めて、数度瞬きをしてから納得した。
「不気味、か。感覚はふつーだな」
「えっ」
「おれっちはよくできてると思うけど、まあだいたいの人間は気味悪がるよな」
 信じられない発言に棒立ちになっていると、マーテットはテーブルの上に広げてあったノートのようなものにがりがりとペンを走らせた。記載が終わったようで、彼は剥製を壁際の棚にある引き出しにおさめた。
「トリッパーの世界にキメラはいないってほんとかー?」
 視線を戻してくるマーテットは、背後のテーブルに腰をかけるような態度だ。完全に馬鹿にしている!
「んー? なんか怒ってるか?」
「お、おこっ、怒るというか……」
 戸惑いのほうが心の大部分を占めている。
 口ごもる亜子を眺め、マーテットはこの沈黙が続くのが面倒なのか腹部をおさえてうめいた。
「腹減ったなー。食堂いくかな」
「え?」
 どこまでも自由なマーテットは、一応とばかりに亜子に尋ねてくる。
「アトも一緒にいくか。この施設の中、まだわかんねーよな。ま、今後一生、縁のない場所だと思うけど」
「…………」
「なんだぁ? 腹減ってないのか?」
「いえ! 一緒に行きます」
「そっか。じゃ、行こう」
 またも唐突に部屋を横切るマーテットは、ドアノブに手をかけてから勢いよく開く。

[Pagetop]
inserted by FC2 system