闇夜の中、トリシアはごくりと喉を鳴らした。車両から飛び降りるだなんて……!
(無茶苦茶よ!)
作戦を提案したハルのほうを見遣るが、彼は不機嫌そうな顔のまま、風を受けているだけだ。
(……ラグかルキア様を助け出せればなんとかなる……!)
暗示のように自身に言い聞かせ、呼吸を整える。
横のハルを見上げる。
「いいわ……! 行きましょう!」
「…………」
ハルは目を細めると、ばさりと外套を振るった。薄く開いた唇から牙がうかがえる。
肉体に変化が起こるというトリッパーの特徴だ。
「行くぞ!」
合図と共にトリシアは彼の体にしがみついた。刹那、ふわりと空中に浮かぶ。
ぐん! と、突然上空に引っ張り上げられた。がくん、と今度は肉体に負荷がかかる。
風が顔に当たって痛い。
瞼を開くと、そこはすでに空の中だった。はるか下に列車が見える。
「重い……」
低い声で文句を言うハルは、ばさりと外套を鳴らした。
(う、浮いてる……! 本当に!)
信じられないことだ。魔術だって人体浮遊はできないというのに!
これがトリッパーの……異能種の能力!
驚愕するトリシアを抱えたハルが前方を見遣る。
「機関室はあそこか。確かに外からしか行けねぇな……。
あのセイオンの坊主と、ちびっこ軍人は……なるほど、あそこか」
ハルが、とんっ、と軽く宙を蹴った。すると急降下!
(ひゃあああああああああああー!)
内心で悲鳴をあげてしがみつくトリシアのことなど気にせず、機関室目掛けて一気に降下する。
衝撃がくる! と身構えていたのに、それはなかった。直前でハルが方向を変えてトリシアを大事に抱え込むと右手で車両の天井を貫いたのだ。
機関室へと無遠慮に侵入したハルは、驚く盗賊たちを見据え、爛々と輝く金色の瞳を向けた。
「いけ!」
命じた声に応じて、空中から黒い霧が発生し、周囲を包む。あっという間の出来事に全員が唖然とする。
霧は一度室内に広まると、急速に収束して幾羽ものコウモリへと変じていた。
ハルが軽く手を振ると、コウモリたちは盗賊たちに一斉に襲い掛かる。
「わああ!」
「ちょっ、なんだこれ!」
「切っても切っても……!」
霧でできたコウモリに剣は効かない。
混乱して剣を振り回す男たちの間をハルがづかづかと進んでいく。そして男たちに足を引っ掛けて転ばせていく。
転倒した男たち目掛けてコウモリが大群で寄ってくるのでたまったものではないだろう。
「ふん。大人しくなったな」
完全に気絶してしまった盗賊たちを見遣り、ハルは鼻を鳴らす。
呆然としているトリシアを一瞥し、ハルが忌々しそうに口を開いた。
「なにしてる。さっさとそいつらを縛り上げろ!」
「あ、はい!」
「チッ」
舌打ちするハルは嘆息し、額を手でおさえた。そういえば……顔色が悪い?
「あの、ミスター、顔色が……」
心配してそっと手を近づけると彼はハッとして顔を赤らめるとすぐさま後退した。
「寄るな! それより早くこいつらを縛り上げろ!」
「あ、は、はい!」
トリシアはてきぱきと持って来たロープで男たちを縛り上げていく。なるべくきつく、ほどけないようにと祈りながら。専門的な縛り方はわからないので、できるだけ力を入れてきつくした。
機関室はこれで取り戻した。
ハルはあれこれと室内を眺めていたが、引き戸を開けてから敵を待ち構えるような体勢をとった。
「ミスター、何を……」
「入り口が狭いほうが大人数を相手にするほうは利にかなってるんだ。
それより、魔術機関はどうだ?」
機関室にある、動力源である魔術機関をトリシアは見遣った。魔術の知識は少ししかない。けれども、この列車の乗務員として最低限の情報は憶えている。
魔術機関の魔術式はぼんやりと淡く光り輝き、陣の構成をありありとトリシアに見せていた。それはいつも見るものとは違う構成術式!
「進路は変更されています」
「おまえは、直せそうか?」
「無茶をおっしゃらないでください! 私はただの添乗員ですよ!」
「チッ。まあそうだろうな」
わかりきっていたのだろうが、確認のために訊いたようだ。ムッとするトリシアに構わず、ハルは車両の連結部分を眺める。
「……機関室だけ連結がもろに見えるんだな」
「そりゃ、乗客の皆さんはここには立ち入り禁止ですし」
「レトロだな。僕の世界の列車も大差ない」
小さく呟いたハルは一瞬渋い表情をするが、すぐに改める。
「仲間がすぐに来る。おまえは霧にまぎれてちび軍人を助けに行け。セイオンの坊主でもいい」
「一人でですかっ!?」
無理だ無理!
仰天するトリシアの言葉をハルは無視した。
「あいつらさえなんとかすれば、乗客は助けられるだろ。ったく……なんでことしなきゃいけねーんだよ」
ありえねぇ……。
「おい! あそこにいたぞ!」
声が聞こえてきて、トリシアは反論する間もなく黒い霧に包まれた。心構えも何もありはしない。
連結場所がある引き戸を目指し、なるべく壁にそって歩く。
黒い霧の中では叫び声や混乱した動きが伝わってくる。この騒ぎに乗じてなんとか機関室を脱出したトリシアははっ、としてこちらにまだ向かって来る男たちの姿に身を屈めた。
こんな狭い場所では逃げるところもない。仕方なく、車両の横に張り付いて進むことにした。
(まさかこんなことまでする羽目になるなんて……!)
大昔、えんとつ掃除を手伝っていたことが役立つなんて!
教会で暮らしていた時、こづかいを稼ぐためにえんとつ掃除の手伝いをよくしていたトリシアは、車両のくぼみに足をかけて、窓から見られないように進む。
風圧がすごい。これでも速度は緩やかになっているので、振り落とされないで済む。
手で掴む場所が少ないため、爪を立てるようにして、ゆっくりと足を横に動かした。少しでも失敗すれば、落下して打撲……で済めばいいが……。
連結部分まで到着し、やっと一息ついた。
(ここからどうすれば……ルキア様もラグも、捕まってるのは二等食堂車なのに……)
いくらなんでも遠すぎる。
考えていると、ぐらり、と列車が揺れた。何かを破壊する音だ。
(えっ、なに? なんなの?)
驚愕してその場でうかがっていると、どごん、と鈍い音がして一つの車両がバラバラに砕けた。
「っ!」
あまりのことに声を失っていると、それは闇夜でそう見えただけで、本当は車両の天井部分が斬り裂かれたのだとわかった。
だが天井部分だけではない。車両の上半分が被害に遭っている。
(な、なにあれ……)
顔を覗かせ、風に逆らって目を凝らす。
すると、突っ立っている人物が見えた。
長身で、黒い外套が激しい風に揺れている。その下の、肌にぴったりとしたシャツ。少しぶかぶかしたズボンと、軍靴に近い編み上げのブーツ姿の男は……。
(! ラグ!?)
彼の肌を覆っていた黒い封印包帯がはずれ、風にさらわれるようにばたばたと暴れていた。
虚ろな瞳のラグはうっすらと笑う。
高笑いをするラグは右手に大剣を持っている。あんな大きな剣を外套の下に隠していたとは驚きだ。
片刃の剣は斬首のために秀でたような形をしている。ゾッとするトリシアは急いで駆け出した。
車両と車両に体を滑り込ませて、引き戸を開ける。向かう先にはきっと乗り込んできた敵もいることだろう。だがあの様子では……。
(下手したら、死人が出てるんじゃ……)
無我夢中で向かうトリシアは、引き戸を開けた。
天井のない車両。そこに立っている長身の青年。隅に固まっている同僚や他の乗客たちは、畏怖の目で彼を見ている。
床に転がっているものは、盗賊たちのようだった。彼らは皆、うめき声をあげている。その中には『雲わた』のメンバーもいる。
暗い瞳で立っているラグが見据えているのは、同じくただ一人だけ立っているルキアだった。
長い髪をはためかせ、ルキアは右手の人差し指と中指だけを立てて攻撃態勢に入っている。
「ルキア様!」
声を大きくして叫ぶと、彼は肩越しにこちらを見遣った。同様にラグもこちらにちらりと視線を遣ってくる。
「……トリシア、無事だったのですか。安心しました」
軽く微笑むルキアは、視線をラグに戻した。ラグもまた、ルキアに注意を戻す。
「盗賊たちがラグを痛めつけた際に、彼の封印具を破損させてしまったようなのです。そこから動かないように、トリシア」
剣を構えるラグに素早くルキアが指先を向けた。
「『走れ、疾風』」
短い詠唱と共に、細長い風の刃がラグを襲う。乱暴に剣を振り回すラグだったが、鋭い一撃に剣を弾かれてしまった。
(す、すごいルキア様!)
戦い慣れをしているルキアはラグとの距離を縮めようとはしない。近距離戦闘に持ち込まれると不利だとわかっているのだろう。
逆にラグは距離を詰めようと間合いをはかっている。揺れる包帯は、まるで彼に縛りついている鎖を連想させた。
ドアにもたれながらトリシアはごくりと喉を鳴らした。その時だ。大きく車体が傾いだ。
(あっ、わ、ああ!)
よろめきつつトリシアはドアにしがみついた。きっと機関室で何かがあったのだ。
(……ミスター!?)
振り返り、戻るべきかを考える。
だが自分が向かっても足手まといにしかならないだろう。
しかし、と思って視線を戻す。ざっくりとなくなっている天井を見上げると星が見えた。
(これ……ラグがやったのかしら……)
状況からしてそうだろうが……人間業ではない。一体どうやってこれほどの破壊力を出せたのだろう?
あの黒い包帯がきっと理由なのだろうが……封印するほどの何かをラグが抱えているということだ。
弾き飛ばされた剣の位置を目だけ動かして確認したラグは、静かに距離を開いていく。ルキアは動かない。
どちらも仕掛けるタイミングを待っているようだ。
「『くだれ、天上の業火』」
先に仕掛けたのはルキアだった。彼は素早く呪文を唱え、腕をぐるりと自分の周囲めがけてまわす。炎の輪が彼を包んだ。
「『踊れ、炎陣』」
ごうっ、とルキアを囲んでいた炎が火柱のようになり、一気に燃える勢いを増す。そしてラグの足元からも同じ火柱があがった。
驚いて身を固くするラグが周囲を見遣る。戸惑いを隠せない彼は低く唸った。
「もう大丈夫ですよ、トリシア」
声をかけられて見入っていたトリシアが驚愕する。見れば、ルキアの周りの火柱は消えうせていた。
彼はその場で肩越しにこちらを見遣り、微笑んだ。
「あのまま燃え続ければラグは酸欠になって意識がとびますから、このまま放置しておきましょう。
盗賊たちを縛り上げるのを手伝ってくれますか?」
「え? あ、は、はい」
呆然としたままそう答えると、ルキアがくるりとこちらに体全部を振り返らせた。この場に不似合いな、可愛らしい動きだった。
「大丈夫。自分がついていますよ、トリシア」
その言葉に、苦笑いがつい、口元に浮かんでしまう。
無事に盗賊たちは捕まえられ、次の駅で軍に引き渡すことになった。手引きをしたのは『雲わた』のメンバーだったことが判明。
列車はトラブルも起きたが、なんとか奪還できた。
次の駅では二等食堂車を切り離し、修理に出すことになった。二等食堂車は帝都に着くまではないことになり、二等客室に泊まっている客たちは一等食堂車で食事をすることとなった。
ラグは意識を失い、その後ルキアがなにやらしていたおかげか、傷だらけではあったが元気になった。
ハルのほうは車掌のジャックに散々感謝されていたが、あまり他人と関わりたくないのか、不機嫌そうに鼻を鳴らして自室へと戻ってしまう。
一連の出来事を思い起こし、トリシアは溜息をつくしかなかった。
(今回の旅は、一筋縄ではいかなさそう……)