医療室として使われている車両の、簡素な、ベッドを占拠しているのは傷だらけのラグだった。
ジャックの許可を得て様子を見に来たトリシアは彼のひどい惨状に胸が痛くなった。
あちこちを殴ったり、蹴られたりしたのだろう。医者も打撲だと言っていたし。
(それでも、軽度で済んでいるって言ってたから、ラグって……頑丈なのかしら)
顔をうかがう。彼は静かに眠っているが、殴られた顔にはあざができている。
(うわ……ひどい……)
そう思って顔を近づけると、ぱかっ、とラグの瞼が開いた。
ペリドット色の瞳がこちらを凝視して、思わずトリシアは反射的に視線を逸らした。
(えっ、ちょ、なにやっているのよ私!)
無理やり顔をラグのほうに戻す。べつにやましいことは考えていないのだから、堂々としていればいいのだ。
「お、おはようございます、ラグ殿」
うわっ、最悪!
(なにやってるの、私!)
いくらなんでもこれはない。
ラグは数度瞬きをして、それからちょっとムッとする。
「口調、今は二人だ」
「え? あ、あぁ、そうね」
慌てて直す。やたら口調にこだわるのは、何か理由でもあるのだろうか?
起き上がろうとしたラグをトリシアはぎょっとして慌てて止めた。
「ダメよ! ラグは怪我人なんだから!」
「!?」
彼は不審そうにこちらを見て、それから自身を見下ろしてなにやら納得したようだ。
「そっか……。たくさん殴られたから……」
「でも軽度の打撲で済んでるみたいよ」
「…………トリシア、盗賊たちはどうなった?」
「今は空いている三等客室の一つに、全員を縛って拘束してるわ」
「オレを雇わないか?」
「は?」
「いや、賃金はいらない。そいつらの見張り、オレがやる」
トリシアは目を丸くする。あれだけ痛めつけられたり、消耗したりしているのに、ルキアもラグも寸分も休もうとしない。おかしい、絶対に。
(二人とも、どこか麻痺してるんじゃないの?)
「それは車掌に訊いてみないとわからないわ。でも……ありがたい申し出だとは、個人的に思う」
「この列車に、今は護衛の傭兵はいない」
「ええ」
頷く。
ラグは腫れた頬のままでにっこり笑う。痛むはずなのに……。
「みんなを守る。オレ、帝都に着くまで頑張る」
……まだ決定ではないのだが……。
起きた途端に元気に宣言してくるラグは、きっと頑として警護を誰にも譲らないだろう。
わかっているだけに、トリシアは頭を抱えたくなってきた。
(自分が怪我人だってこと、わかってないでしょう、絶対に)
*
ラグは帝都に到着するまでの間、『ブルー・パール号』に雇われることになった。
彼の提示した賃金があまりにも低かったのでジャックが慌てたほどだ。
「だって帝都までって、あと少しだ。気にしなくていいんだけど」
「そういうわけにはいきませんよ!」
正式に傭兵を雇うとなると、申請を通さなければならない。ラグは『渡り鳥』の傭兵だし、腕はあるので無料で彼をこき使うのはジャックとしては御免だったのだろう。
ラグの回復は目を瞠るものがあり、彼は次の日には元気に歩き出し、三等客室の部屋の前に陣取ってしまった。
廊下に座り込み、剣を抱えてドアを見張る。単純そうに見えるが、中にいる者たちの様子を常にうかがっていなければならないので精神は疲弊するだろう。
ジャックは頭が痛そうだった。
「ルキア様まで護衛をすると言い出したから、ラグに一任することにしたんだ……。どっちもどっちだから困る」
「車掌……お疲れ様です」
同情する、本気で。
正式にラグを雇わなければルキアがしゃしゃり出てくるのは明らかだ。
ジャックはトリシアを見遣り、ぽんと肩を叩いた。
「じゃ、ラグに食事とか持っていくのはトリシアにしてもらう」
「……なんでそうなるんですか?」
「ルキア様がちょろちょろ動いているからだ」
拳を握って力説するジャックは、うぅ、と唸って額に手をやる。
魔力を消耗したルキアは本来なら眠らなければならない。それに護衛が一人というのも困る。
いざという時にルキアに動いてもらわなければならない時に戦力にならないのではまずい。
けれどルキアは頑固に眠ろうとしないのだ。
「……ルキア様は、私の言うこともききませんよ?」
「そうだろうけど、一応釘はさしておけるだろ」
「はぁ……」
誰が言っても彼は言うことをきかないと思う……。
そう思いつつ、トリシアは通常の仕事に戻った。朝食、昼食、夕食の時間になったらラグに食事を運ぶのが追加されただけで、たいしたことはない……はずだ。
だが、前途多難の予感を抱えてトリシアは早速朝食を運んでいた。
と。
いきなりルキアにばったりと出くわした。
ここは三等客室に通じる廊下だ。まさか……。
「おはようございます、トリシア」
「ルキア様……」
「はい?」
「どこへ行くのですか?」
「自分も護衛の手伝いに」
「ダメです」
即答して、目の前でぴしゃりと車両通路のドアを閉める。ドアの窓越しにルキアがぎょっとして硬直しているのが見えた。
彼は慌ててドアを開けた。
「なにをするんですか、トリシア!」
「眠ってください。さ、お部屋に戻って」
「いえ、ですが自分だけ眠っているというのも……」
「ルキア様は大事な戦力なんですから」
と言いつつ、再びドアを閉める。ルキアは困ったように苦笑して、仕方なさそうにきびすを返して一等車両へと戻っていく。
(ふー……。イズル駅に着くまでこれが続くわけね……)
やれやれと肩を落とし、キャビネットを押して進むと、廊下に座り込んでいるラグを発見する。
彼はじっとドアを見つめていて、大事そうに大太刀を外套で包み込むように抱えていた。
盗賊たちにも食事は与えられるけど、一日に一食だけで、トリシアの担当ではない。
ラグはこちらを見て、笑顔になる。
(あれ? ごはんが嬉しいのかしら?)
おなかが空いてるのかなとうかがうトリシアがキャビネットを止めて彼に声をかけた。
「食べやすいようにって、サンドイッチなんだけど」
「ありがとう。でもキャビネットでくることないぞ」
「いや、飲み物とか、色々いるでしょ?」
「水さえあればいいし、水筒を後で持ってきて欲しい。食事もサンドイッチだけでいい」
目を瞠るトリシアに、彼は平然と言う。
「それじゃ、体力がもたないんじゃ……」
「鍛えてる。心配するな」
立ち上がったラグはこちらに近づき、キャビネットの上の皿からサンドイッチを一つとった。
淹れてきたコーヒーも、あまり歓迎はされていないようでトリシアはなんだかがっかりしてしまう。
ラグは自分が座っていた場所を指差す。
「なるべくあそこから動きたくない」
「どうして?」
「集中していないと、中の様子がわからない。あそこが一番いいんだ」
睨むようにドアを見ていたのは、そういうことらしい。
(なんか……ミスターに匹敵しそうよね、ラグって)
異能ではないのか、もはや。
「気配を探りやすいから助かる」
ラグはもぐもぐとサンドイッチを頬張りながら言う。
さすがにハルのように匂いや音だけで判別することはできないのだろう。当たり前だ。
けれどトリシアはラグが車両の上部を吹っ飛ばしたのを目撃している。この華奢な身体のどこからあれほどの腕力を出したのだろう?
(セイオンの人たちって、みんなこんな感じなのかしら……)
陽気、というか……。
「ごちそうさま!」
いつの間にかラグが全部たいらげていた。コーヒーの入ったカップを持ち上げて、ぐぐっと飲み干す。ああ、いい豆を使っているのに。
「なんだこれ。美味しい」
不思議そうな顔をしてトリシアを見てくるラグは無邪気で、トリシアは顔を引きつらせて頬を赤くした。
「あ、あとで水筒持ってくるから」
「え? あ、うん」
「じゃあ!」
慌てて逃げ出すようにキャビネットを押して去るトリシアは内心びっくりしていたのだ。
なぜラグ相手に緊張しなければならないのか、わからなくて。
*
警備のために、部屋のドアの前に座り込んでいるラグの元を訪ねて来たのは、眠っているはずのルキアだった。
「こんばんは」
そう言って彼はラグの横にちょこんと座り込む。小柄な少女そっくりな彼を横目で見て、ラグは驚いた。
「ルキア、寝てなくていいのか?」
「寝ていると落ち着かないんです」
はっきりとそう言うルキアは、それでも眠そうだ。
ルキアの視線が動き、ぴたりとラグに定められる。その強い瞳に気圧されそうになった。
(ルキアって、なんかすごいな)
頭が悪いので、そんな感想しか浮かばない。
そもそも一介の傭兵と違って、ルキアは正規の軍人なのだ。立場がかなり違う。それでも仲良くやれるのは、ルキアがわけ隔てなく接してくれるからだろう。
「ラグこそ、大丈夫なんですか? いくらの軽度の打撲とはいえ、怪我人なのですから無理はしないように」
「大丈夫! オレ、頑丈なのも自慢だから。ルキアこそ、無理はするな」
笑顔で言うと、ルキアも微笑してくる。
「ラグ、その封印布のことですが」
ぎくっとして凍りつくラグは、触れられたくないことだったので顔を逸らした。
「修復はしておきました。とはいえ、自分にできるのはこれくらいなのですが」
「……え?」
あの盗賊騒動の時、ラグは盗賊たちに散々殴られた。そのせいで包帯が緩み、あんな事態になったのだ。
ラグは顔をルキアのほうに向けて、眉をさげた。
「ルキアのおかげでオレ、助かった。お礼言うのはオレのほう」
情けない。こんなことにも気づかないなんて。
しょんぼりとしてしまうが、ルキアは気にした様子はなかった。
両腕に巻きついた黒い包帯を見遣り、ラグは顔を下げる。その耳に、ルキアの声が響く。
「自分にして欲しいこと、言ってましたよね?」
「…………」
「それは、その封印布と関係のあることですか?」
「ああ」
頷くと、ルキアがふっと微笑んだ気配がした。
「わかりました。では、自分にできることなら協力しましょう」
「…………ルキアは、いいやつだな」
そっと囁く。本当に、いいヤツだ。
貴族のくせに全然それを気取らない。軍人なのに、傭兵のラグを馬鹿にしない。見たこともない人間だった。
「いいやつ、ですかね? 自分は『ヤト』ではよく冷酷だとか、残酷だとか、散々に言われていますよ」
不思議そうに答えるルキアの言葉にびっくりしたのはラグのほうだ。
「ルキアが残酷!? そんなはず、ないじゃないか!」
「そうですか。ですが……軍務で大勢の人間を殺すこともありますよ」
さらりと告げてくるルキアのセリフにラグは硬直してしまう。
まじまじとルキアを見た。可愛らしい外見をしているが、彼は軍人の『お偉いさん』なのだ。
(ルキアって、変わってるな)
自分を善人だと言わないところが特に。
「でも、オレにとってはいいやつだ」
「そうですか。それはどうもありがとうございます」
嫌味ではなく、微笑むルキアは素直に言ってくる。本当にいいヤツだ。
「ルキアじゃ、どうにもならないか?」
唐突の尋ねた言葉にルキアは目を丸くするが、困ったように笑ってしまう。
「自分は魔術師ですが、魔術にも色々あるのです」
「うん。そうだろうな」
剣士であるラグにもそれはわかる。剣だって、色々な種類がある。それと同じで、使い手によって得物は違うものになるはずだ。
「ラグが悩んでいることを解決できそうにありません」
はっきり言われると、やはり落胆してしまった。「そうか」と呟いた声はかなり小さい。
そうか。ルキアが残酷と言われる意味がわかってしまった。
(ルキアは、嘘を言わないんだ……)
それはとても残酷だ。
「こういうのに詳しい人を紹介して欲しい」
「そうですね……。では、魔法院にいる者よりも、ラグの悩みに応えてくれそうな人を紹介します」
「魔法院じゃ、ダメなのか?」
魔術師たちの集まる場所。そこでもダメなのか?
ラグは肩を落とし、床に視線をさげる。救いがあると思って弾丸ライナーに乗り込んだというのに。
「無理でしょう」
ルキアは残酷に真実を告げてくる。
彼は小さく微笑した。
「ラグがその魔封具を強化したいというのなら、手伝えますよ」