Barkarole! メモリア27

 着飾った自分の姿を見て、トリシアは俯く。これほど豪華なドレスで身奇麗にしたところで、所詮は下町の平民であることには変わりない。
 生まれた時から貴族の娘になど敵うはずもない。わかっている。
 化粧も施し、麗しい姿に化けても……それでもまったく不安は消えない。むしろ大きくなる一方だ。
 鏡に手をつく。まるで自分ではないような姿だ。慣れてもいいだろうが、まだまだそんな気分にはなれない。
(……地味)
 嫌になる。どうしてルキアと結婚したのだろうか。
 今でも過ちと思ってしまうことが多々ある。彼が選んでくれたのさえ、偽りだと思ってしまう一瞬も。
 それほどにトリシアは自信がない。ここに居ることが苦痛になることさえある。
 ルキアも、ルキアの両親もとてもいい人だ。だが貴族……階級社会のここでは、平民のトリシアには味方がほとんどいない。だから、社交界の場に出るのもルキアの母親と一緒に行くことにしていた。
 醜聞を気にしないルキアは、社交界では悪し様に言われていて胸が痛んだ。
 なにもわかっていないくせに!
 声を大にして言いたくて、でもそれもできなくて。
 トリシアはいつも疲弊して戻ることが多く、落ち込み、そのたびにルキアが傍にいないことを憎らしく思ったほどだ。
(でも、今回は違う)
 ルキアは自ら気づいてくれた。トリシアの不安に。だから行きたくもない招待を受けたのだ。
 滞在の3日間に受けていた招待に、彼はあっさりと参加を承諾してくれた。
「トリシア、準備はできましたか?」
 ノックの後にその声が聞こえてきて、トリシアは慌てて部屋を出た。
「お、お待たせしました」
「いいえ。待っていませんよ」
 ふんわりと微笑むルキアは、いつもの軍服姿だ。だが会議用の、正装である。
 昨日見たというのに、やはりこの姿は慣れない。いつものだらしない格好のルキアのほうがよほど心臓にはやさしい。
「綺麗ですよ、トリシア」
「お、お世辞はいいですよ」
「自分は世辞など言いません」
「う……」
 そうだった。ルキアは嘘を言わないし、お世辞を言えるほど器用でもない。
 耳まで赤くなりながら、トリシアは細身のドレスを軽く引っ張る。
「あ、あの、でも、わざわざお化粧までしてもらうほどでは……」
 ルキアの母のはからいで、結婚式の時に世話になった者たちに化粧をしてもらったのだ。だから、これほどトリシアは麗しい。
「自分はいつものトリシアのままでいいと思うのですが、母が反対をしましたので。
 なにやら、敵地に赴くのだから武装くらいさせなさい、ということでしたが……トリシアは今から戦いにでも行くのですか?」
「そ、そうですね。表現はオーバーですけど、間違ってないと思いますよ」
 手を軽く握られて、リードされながらトリシアは玄関ホールに向かう。
 屋敷の前には馬車を待たせてある。ドアを通って外に出ると、辺りは真っ暗に近かった。
 今から敵陣に突っ込む。間違っていない。
 馬車に乗り込んで座っても、まったく気分は落ち着かなかった。ルキアとこうして舞踏会に行くのは初めてだ。
 目の前に座って馬車の揺れに身を任せているルキアは、疲れているのか瞼を閉じている。眠ってはいないだろうが、少しでも魔力を回復しようとしているのだろう。
(帰ってきたのは昨日。昨日は王宮に行って、今日はこうして舞踏会……。疲れるわよね、ルキア様は)
「トリシア」
 凝視していたことに我に返り、トリシアは「はひ?」と、わけのわからない返事をしてしまった。
 いつの間にか瞼を開けていたルキアが、こちらをうかがっている。
 真摯な眼差しにトリシアの頭はぼうっとしてしまう。彼は本当に魅力的だ。くらくらしてしまう頭を軽く振り、トリシアはなんとか意識をはっきりさせる。
「どうかしました?」
「なにかあったら、すぐに自分を呼ぶように」
「は?」
「なんでもありません。はぁ……」
「?」
 ルキアが溜息をつくなど、珍しい。調子でも悪いのだろうか? やはり今日の舞踏会はやめたほうが良かったのでは?
「あ、あの、ルキア様、舞踏会が嫌なら無理に参加しなくても……」
「あなたのダンスのパートナーがいないでしょう?」
「そ、それくらいべつに……。それに私は踊れませんから、壁に居ればいいんです」
「……」
 ルキアは軽く目を細めた。
「まぁ……それもいいでしょう。あなたは本当に、頑固というか」
「?」
「不安そうにこちらを見ているだけというのは、居心地が悪いです。大丈夫ですよ。自分が一緒なのですから」
 そう言われて、トリシアは顔を伏せる。
「正直、怖いです」
「……そうですか」
「今まではお義母様が一緒だったのでなんとか乗り切りましたけど」
 ぎゅ、と膝の上の拳を握る。力が入って、掌に爪が食い込んだ。
「貴族の方たちは、私のような平民生まれを良しとはしませんから」
「…………」
「でも、それよりも、ルキア様を悪く言われるのがすごく悔しくて。私は平民だから、言い返すこともできない」
 いくらファルシオンの家に嫁いだとはいえ、出自が孤児で平民なのだ。トリシアには貴族に文句を言うことはできない。
 ルキアは静かにトリシアの言葉を聞いていたが、ふ、と優しく微笑んだ。
「あなたが怒れないのなら、自分が怒りましょう」
「え?」
 言われたことに気づいて、トリシアは一瞬で青ざめる。
「だ、だめです! あなたが怒ったら、大変なことになります!」
「怒ったところなど、見たこともないでしょうに」
 くすくすと笑って言われて、トリシアはぱちぱちと瞬きをした。そうだ。ルキアは怒ったことがない。
「そ、そうですね。ルキア様は優しいですから、怒るなんて……」
「優しい?」
 不思議そうに繰り返され、トリシアは彼を見遣る。
 ルキアはトリシアをまっすぐ見つめていた。
「自分は、優しくなんてありませんよ。あなたのほうがよほど優しい。羨ましくなるほどにね」
「ルキア様?」
「少佐はいつも、冷酷だと言いますよ。自分もその意見には賛成します」
「そ、そんな! そんなことありません!」
 激しく否定すると、ルキアはふわっと微笑む。
「そう言われると、照れくさいですね。トリシアは自分を理想的に見すぎですよ」
「そ、そうでしょうか……」
「はい。随分と高く買われているようで、なんとなく恥ずかしいです」
 照れたように微笑まれて、トリシアは全身から力が抜けるのを感じる。わかっていて、やっているのか? いや、絶対にわかっていない。
 トリシアは決意を新たにする。ここから行く先では、挫けることはできない。



 舞踏会は華やかで、招かれたトリシアは萎縮してしまう。毎回こうなのだから、厄介だ。
 いつもはルキアの母親と同席するのだが、今日は違う。
 馬車から降りるトリシアの手をそっと取り、エスコートをして歩くルキアに、招待客たちがぎょっとしていたのだ。
 美貌の少年は、確かに目を引く。そしてルキアは正式な軍服を着ているのだ。目立たないはずがない。
「あら。ファルシオン夫人」
 派手な扇を持った、ふくよかな女性が近づいてくる。メーデン夫人だ。どこの集まりにも彼女はほとんどやって来る。トリシアもすっかり顔を覚えてしまった。
 彼女は扇で顔を隠しながら笑う。
「今日はめかし込んでいらっしゃるのね。小姓を連れてくるとは、気が利いて……え?」
 そこで異変に気づいたようだ。メーデン夫人はトリシアの手を取っている少年を見遣り、ぎょっとして硬直してしまった。
 ルキアはにっこりと微笑む。
「お久しぶりですね、メーデン夫人」
「ふぁ、ファルシオン少尉……!」
 一気に血の気が引いていくメーデン夫人は、視線を伏せた。がたがたと恐怖に震える彼女のこんな姿は、今まで一度も見たことがない。
「も、申し訳ありません。小姓と見間違うなど、どうかしていましたわね」
「そうですね」
 さらりと言うルキアにトリシアがぎょっとしてしまう。相変わらずルキアは場の空気を読まない。
 メーデン夫人は引きつった笑みを浮かべる。精一杯笑おうとしているのだが、それができないようだ。
「あ、相変わらずお美しいですわね。ほ、ほほほ」
 呆然とトリシアはメーデン夫人を見つめた。いつもトリシアをねちねちといじめてくる彼女とは、思えない。
 視線をルキアに遣って、トリシアは改めて夫がすごい人だと思い知る。
「こ、このような舞踏会にいらっしゃるとは、珍しいこともありますわね。今日はご夫妻でご参加なのかしら?」
 声まで引きつっている。いつもの自信に満ちた彼女はどこにいったのだろうか?
(どうしてメーデン夫人はルキア様を怖がっているのかしら?)
 恐れの理由がわからない。トリシアはルキアに目を向ける。彼は落ち着いた様子でメーデン夫人を見ていた。
「そうですね。たまには舞踏会に出てみようかと思いまして」
「そ、そう」
 引きつりながら言うメーデン夫人。そして周囲の視線にトリシアは不気味さを感じた。
 年若い娘たちは皆、華やかなドレスに身を包んでいるが、遠巻きにルキアに見惚れているのがうかがえた。
 だが反対に男や、その同伴の妻たちはルキアを畏怖するように見ていたのだ。この差はなんだろう?
「ところで」
 ゾッとするようなルキアの声音にトリシアは心臓がどくんと大きく高鳴った。
 もしや、彼はやはり不機嫌なのでは……?
「妻に面白いことをさせたようですね」
 放たれた一言に、トリシアは「え?」と呟く。そして思い至って真っ赤になった。
 知られてはいけないと隠していたのに!
 見れば、ルキアはいつの間にか笑みを消している。普段から笑顔を消さない彼にしては珍しい表情だ。
 恐ろしいほど美貌が際立ち、ぞくりと背筋を震わせる。
 メーデン夫人は完全に動きを止めて、息苦しそうに喘いでいる。
「同じことをしてください、と言いたいところですが……それでは子供の仕返しと同じです」
 ルキアがやれやれと肩をすくめた。
「かと言って、何もしないでいたらあなたたちは繰り返しますからね。暇な貴族など、害悪にしかなりません。
 大人しく、内輪だけで楽しんでいれば良かったのに」
「しょ、少尉……。わ、悪気があったわけでは……」
「あってもなくても、子供ではないのですからわかるでしょう? それこそ、年端もいかない子供の言い訳ですか?」
 ルキアの言うことはもっともで、トリシアは苦い表情になる。
「暇潰しは、他者の迷惑にならないことに徹していただきたいですね」
「…………」
「それとも、自分の妻は、迷惑をかけてもいい、憂さ晴らしに最適な人材ですか?」
「そ、んな……こと、は……」
 途切れ途切れの言葉に、メーデン夫人の身体の震えが伝わってくる。彼女とルキアは年齢の差もあるし、貴族としての階級の差も大きい。それなのに。
(どういうこと……?)
「怒らないとでも、思っていました?」
 挑発的なルキアの口調に、彼女は完全に黙りこくってしまう。会場の華やかさが、処刑台に早変わりしたかのようだ。
 メーデン夫人はすっかり顔色をなくし、細かく震えるだけとなっている。トリシアには、この異常さに戸惑うしかない。
 なぜ、これほどまでにルキアが恐れられているのか。
(どうして……?)
「残念ながら、あなたは自分が守る『帝国民』の一員です。害を成そうとは思っていませんよ」
 あっさりと微笑むルキアは、ふいにトリシアのほうを一瞥した。冷たい、底知れないような真っ赤なルビーの瞳だ。
「ただ、妻を玩具にするのはさすがに笑えません」
「…………」
「言い訳があるならどうぞ」
 促すが、メーデン夫人は言葉が喉に詰まったように出てこない様子で、唇をわななかせるばかりだ。
「妻をもてなせ、などと難しいことは言いません。上辺だけの付き合いほど、辛いものもないでしょう。あなたたちから差別意識は無くなりはしないでしょうし、無くせというのは酷な話です。
 だから――――後悔してください」
 囁きはまるで毒のようだった。静かに体に沁みこむ、あまい毒。
 メーデン夫人はぎこちなく会釈して、去っていく。トリシアは、ダンスの曲がまったく聞こえないほど自分が緊張していたことを、そこで初めて知った。
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