Barkarole! メモリア26

 玄関ホールに立つ彼は帰宅するなり、「3日ほど帝都いますよ」と明るく言ってくれた。さすがにおかしく思ったが、トリシアは緩んでしまう頬を摩りながら目を伏せた。
「あの、なにか問題を起こしたんですか?」
「謹慎だと思ってます?」
「う」
 トリシアの率直な態度に、ルキアがくすくすと笑う。
「違いますよ。少し余裕ができただけです」
「?」
 意味がよくわからないが、何か目的があるのだろう。
 にこにこと笑顔のままのルキアを不気味に思い、トリシアはおずおずと口を開く。
「なにか、あったんでしょう?」
「いいえ?」
「で、では、なにをそんなに嬉しそうにしてるんですか?」
「なんでですかね」
 柔らかい声音ではあるが、ルキアはどこか困っているようだ。だが彼は、ふいにまたくすりと笑った。……なんだろう、本当に意味がわからない。
 彼ほどではないが、トリシアとて人間なのだ。すべてを察することはできない。
「あなたに会えて、なんだかちょっと、感動で胸がいっぱいなのです」
「えっ、感動?」
 感動、だろうか? ただの出迎えだ。こんなのは、結婚前から繰り返してきたことだし、今更だろう。
「あなたで満たされたいな」
 にっこりと笑顔で際どいことを言われた気がする。トリシアは、いや、と首を緩く振った。
(考えちゃだめよ。ルキア様は、きっと深く考えずに発言してるはず……)
 この無自覚さでは、危険だ。あらゆる意味で。
 誰もいないところならばいいが、人前で今のような発言は控えてもらうべきだ。言うべきだ。忠告すべきだ。
「いいですか、ルキア様! 人前で今みたいな発言はやめてください!」
 腰に両手を当てて、言い聞かせるように、上からかぶさるようにこちらを見下ろしてくるトリシアに、ルキアは「はい」と素直に頷いてにっこり笑う。
 思わず、体が細かく震えた。
「わかってないでしょう! 絶対にわかってないわ!」
「わかっていますよ」
「わ、わかってません! なんでそんなにこにこしてるんですか!」
「しょんぼりすればいいんですか?」
「そっ、そういう問題でもありません!」
「うーん。トリシアの望むようにしてあげたいのですが」
 とん、と彼はかかとをあげて彼女の唇に自分のそれを重ねる。
「んっ!?」
「ちょっと乱暴にしますよ」
 少し離れてからそう呟いたルキアは薄く笑う。そして再び唇を重ねて、首の後ろに手を回してくる。彼のほうへと引き寄せる。深くなる口付けにトリシアは顔を真っ赤にしていく。
「ん、んー! んんーっっ!」
「……歯を食いしばってないで、ほら、あーん」
「なっ、ん、」
 ぐっ、と深くなったそれにトリシアは目を白黒させる。
 しばらくしてやっと解放され、胸を激しく上下させて、怒りを爆発させた。
「ルキア様のバカー!」
「ただいまのキス、です」
 いたずらっぽく笑う彼は、それでもまったく悪びれていなかった。



 無理やり着替えさせられて、ルキアはぼんやりと自室の書斎で嘆願書に目を通していた。
 だらしなく体の力を抜いているルキアは、ふぅんとぼやいた。
 助けを求める人は大勢いる。その人たちすべてを助けられるなどルキアは無理なことは考えていない。
 駐屯している軍でもなんとかなりそうなら、そちらに任せることもできるが……少々目に余るようなら自分が赴くことにしている。
 山のように積まれている手紙の中に、洒落たものもちらほら混じっている。晩餐やパーティへの招待状だ。
 ルキアはそれらを手で払って机から落とす。邪魔だ。
 ――――と。
「あー! もう! 何してるんですか!」
 ドアを開けて入ってきたトリシアが目ざとく見つけてきて眉を吊り上げる。
 床に散らばった手紙をささっと拾い上げて埃を払う。
「いけませんよ、招待状なのに」
「ですが、行けないものにいちいち構っていられませんよ」
 平然と言うルキアは妻がなぜこれほど怒るのかわからない。
「はぁ……。そうやって今まで無視してきたんですか?」
「そうですよ。行ったところで、どうせ暇ですから」
「ルキア様はいいかもしれませんけど……」
 口ごもるトリシアを、ルキアは不思議そうに見遣る。そして、イスからゆっくり降りて、彼女の前に立った。
 結婚して二週間少し。身長差は埋まらない。ルキアは小柄な背丈のまま、トリシアを見上げている。
「言ってください」
「…………」
 顔をしかめるトリシアの手を掴む。有無を言わせずルキアは彼女の目をまっすぐに射抜く。
「トリシア」
「う……」
「キスよりすごいことしますよ」
「わ、わかりました!」
 観念したトリシアが、手に持つ手紙を一瞥し、渋々と口を開いた。
「私は参加を余儀なくされるんです。傍にルキア様がいないと、肩身の狭い思いをすることだってあるんです」
「では、行かなければいいのです」
「そ、そうはいきません。私が参加しないことで、ルキア様のことを悪く言われるのは嫌です」
 ぶすっとして言うトリシアに、ルキアは驚いてしまう。
 ふんわりと微笑んで、ルキアは彼女の頬を撫でた。
「優しいですね、トリシアは。いいんですよ、自分の評判など悪くなっても」
「そうはいきません!」
「……では、こうしましょう」
 ルキアは彼女の手から手紙を奪い取る。
「どうしてもというものだけ参加します。自分も一緒に」
「え?」
「一人で行くなと言っているのです」
「で、でも」
「でも、ではありません。トリシア、自分とあなたはなんなのですか?」
「ふ、夫婦、です」
「そうです。では夫が妻を助けるのに努力を惜しんではいけないと思うのです。相互に努力が必要なものでしょう、夫婦というのは。
 互いの関係を維持し続けるには、愛情だけでは無理だと聞き及んでいます」
 ぽかんとするトリシアは、おずおずとルキアを見てくる。
「愛情が冷めたら、ど、どうします?」
「自分はないと思いますけどね。でも、トリシアが自分に飽きることはあると思いますよ」
 あっさりと言うルキアに彼女は戸惑ったように瞳を揺らす。それはそうだろう。浮気する可能性があると指摘されたわけだ。
「浮気なんてしません!」
「それはそうでしょう。あなたは頑固者ですからね。それに」
 ルキアは妖艶に微笑む。トリシアが困ったように目を逸らした。
「あなたが自分を愛しているのを、自分は知っていますからね」
「ぶっ!」
 噴き出す彼女にルキアはあははと小さく笑ってみせる。
「ごほっ、げほっ! な、なにを言うんですか、あなたは!」
「おや。いけませんか? 事実だと思うのですが」
「そ、そういうことを言っているんじゃありませんっ、きゃあ!」
 机の上に軽々と押し倒されて、トリシアは動きを止める。ルキアは彼女の頭を挟むように両手をついて、見下ろした。
「相変わらず、トリシアは隙が多いですね。出かけている間、本当に心配でたまりませんよ」
「ひぃっ!」
「ふふっ。首が弱いのは相変わらずですね」
「ぎゃああ! いやあああ!」
 ばたばたと真っ赤になって暴れるトリシアは、夫の顔を押しのけようとしたが、寸前で手を止める。
 美しすぎる彼の顔に傷をつけたくない。そう思ってしまったらもう負けだった。
 首に彼の吐息がかかる。くすくすと笑う様子も伝わってきた。


 時間は少し遡る。帝都駅でルキアを出迎えたのはオスカーだった。彼はこめかみに青筋を浮かべつつ、自前の馬車にルキアを招き入れた。
「奥方は元気か?」
 ルキアは馬車の向かい側の席に座るオスカーに、ちらりと視線を向ける。
 帝都に戻ると必ず一度は王宮に行かなければならない。『ヤト』にはそれが義務付けられている。
 ちょうど行くというオスカーがルキアを誘いに来たのは、彼が帝都に戻って次の日だった。
 真っ白な帝国軍の軍服の上に、左右非対称の漆黒の外套。ルキアは長い髪を一つに括って背中に垂らしている。
 美貌の少年は約二週間前に結婚したばかりだというのに、新婚早々に妻を放置してあちこちに顔を出しているという噂が飛び交っていた。
 実際、それは事実だ。ルキアはトリシアと結婚したものの、新婚旅行なども行かずにさっさと嘆願書を寄越した先に出向いてしまっている。
「元気ですよ。どうもみな、自分の顔を見るたびに妻の安否を尋ねますね? なぜですか」
 不愉快丸出しの口調に、オスカーは苦笑する。
(ほんっと、こいつ変わったよな。こんな露骨なこと、するようなガキじゃなかったってのに)
「そりゃ、おまえが奥方を放って地方に出向いてるって噂があるからな」
「……仲良くしておりますが」
「なかよく?」
 突然の単語にオスカーは不審そうな表情になる。ルキアが視線だけこちらに定め、続けた。
「ええ。夫婦の営みはしております」
「ぶっ!」
 思わず、噴き出す。
 いや? えーっと。
(意味わかって言ってんのか? 訊いたら訊いたで、とんでもない答えが返ってきそうで怖いんだが……。だが待てよ。こいつのことだから、実は違う意味で使っててもおかしくない)
 ルキアを凝視するオスカーは、ごくりと喉を鳴らしてから口を開いた。
「……お、おまえ、わざとか?」
「は?」
「いや、牽制か?」
「牽制? あぁ、そうですね。そういう意味でいいですよ」
 そういう意味って、どういうことだ?
 半眼になるオスカーは、末恐ろしい気持ちでルキアを見遣る。いつからこの子供はこんなになってしまったのだろう?
(女のことになると見境がなくなるヤツじゃなかったってのに)
「おまえなぁ、そんなに肩入れすると、あとで痛い目みるぞ」
「……なにがですか」
(うわぁ、睨むなよ。おまえが睨むとすげぇ迫力なんだぞ!)
 手に汗がじわりと浮かぶ。
「そもそも、おまえは知らないだろうがお嬢ちゃんは早速苦労してるみたいだぞ?」
 ぴくりとルキアが反応し、目を細める。睨むのとは違い、今度はゾゾッと背中に悪寒が走る怖さがある。
「へえ、苦労ですか」
「ああ。一週間くらいは断ってたみたいだが、もう断る理由がなくてあれこれ茶会や夜会に招待されてるんだぞ?」
「べつに行かなくても問題はないはずですが」
「あのなぁ、おまえみたいに世間体を気にしないような子じゃないだろ!」
 不思議そうな顔をしているルキアに説明しても無駄だ。オスカーはそう割り切る。
「とりあえず、王宮に顔を出したら、そのあとはうちの屋敷に来い。教えてやる」
「……わかりました」

 ルキアが自宅に戻ったのは昼をまわって15時になったところだった。
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