Barkarole! メモリア24

 かつ、ん……と、盤上の駒が倒された。人差し指で倒したのは、まだ若い男だ。いや、若く見える……だけなのかもしれない。
 金色の髪の麗しい男は、くすりと笑った。
「ファルシオン少尉を囮にした成果はあったのかい?」
「はっ」
 膝を折ってこうべを垂れているギュスターヴ=シャーウッド……『ヤト』の最年長者である大佐は頷く。
「そう。なら良かった。少しは懲りたかな、やつらも」
 帝国は一枚岩ではない。内部にも、現皇帝に歯向かう連中は多い。
「クスッ。懲りるわけないかぁ。じゃあそろそろ、あそこを潰す準備をしようかな」
 愉快そうに笑う彼に、ギュスターヴは膝を折ったままだ。顔をあげることは許されていないからだ。
「フレデリック殿下は、お気づきだと思いますよ」
「そうだろうねぇ。我が子ながら、どうしてあんなになっちゃったんだろう。シャルルはまだ可愛げがある」
「…………」
「そういえば、ファルシオン少尉は結婚するんだってね。おめでとうと伝えておいてくれないかな?」
「……それは承服しかねます」
「だよね〜? 立場上、君が頷くわけないもんね」
 おどける男は、盤上の駒の一つを持ち上げる。
「しかし優秀すぎるね、ファルシオン少尉は。でもまぁ、結婚を許してあげたんだから、まだ帝国に尽くしてくれるんだろうし」
「陛下……」
 恩義を感じてどうこうなるような男ではないことを、ギュスターヴは知っている。ルキアは、帝国軍人である、というだけで自分の命をあっさりと放り出すような子供なのだ。
「アハハ。いいよ、わかってるって。あの子はそういうタイプじゃないもんね。いやぁ、でも面白かった。
 随分とファルシオン少尉は他国に高く評価されてるんだねぇ」
「軍の現在の広告塔ですから、ファルシオン少尉は」
「今度は平民の孤児を奥さんにするってか。ますます評判あがるんじゃない? いいねぇ」
 摘んでいる駒をぶらぶらと揺らす。皇帝であるこの男は、けれどもどうでもいいと言わんばかりの態度をしている。
 ルキアがあれだけ目立っているのも、矢面に立たされているのも……皇帝としてはどうでもよいことなのだろう。たかが一市民だ。
「ギュスターヴ、今の『ヤト』はなかなか優秀だから、気に入っているよ?」
「はっ。光栄であります」
「前の彼らは、どう動くかなぁ。そのへんも、ちょっと楽しみだよねぇ」
「……陛下」
 苦い声でそう言ってくるギュスターヴに、男はにこりと微笑んだ。

***

 あれから一週間は経過した。ルキアからは多くを語られないので、シェリルがどうなってしまったのか、トリシアにはわからなかった。
 けれども。
 緊張で、トリシアは何度も何度も呼吸を繰り返す。浅く、深く。
 予定を繰り上げて、トリシアとルキアの挙式がおこなわれることとなったのは、三日前のことだった。
 もちろん、出席してもらう予定だった人たちへの招待状は、そこで無駄となったわけだが。
(どうしてこんな急に……)
 いくらなんでも性急すぎるのではないだろうかと思ったが、ルキアにどうやら次の軍令が下ったらしいのだ。
 オスカーのおかげでなんとか準備はすすみ、トリシアの希望通りのささやかな挙式をすることになった。お披露目は、またの機会ということになる。
(でも、お披露目のお話をしていた時、ルキア様、すごい顔してたのよね……)
 普段、あの笑顔を崩さないルキアが、ひどく冷たい顔でオスカーを眺めていたのを思い出す。
(綺麗なドレスだなぁ)
 着せてもらった純白のドレスを見下ろし、ひどく落ち着かなくなる。細かい刺繍もされていて、かなり凝っている。
 不似合いではないだろうか。そもそも自分には勿体無さ過ぎる。
 不安に視線を床に落としていると、ノックがして顔をあげた。
 この施設の係員だ。どうやらそろそろ時間らしい。
 立ち上がったトリシアは、履きなれないヒールの足を、踏み出す。
 自分は今から、ルキア=ファルシオンの正真正銘の妻になるのだ。

 扉を開けて踏み込む。ぱちぱちと、拍手で迎えられた。緊張で顔が真っ赤になってしまう。
 恐ろしいことに、ちらりとルキアの同僚たちの姿が見えた。忙しいはずなのに、参加してくれたのだろうか?
 ほかにも、見たことのない老人や男もいる。トリシアの前の職場での同僚たちも、どうやらスケジュールが空いていた者たちは来てくれたらしい。
 あまりにも異色すぎる面々にさらに緊張しつつ、トリシアはまっすぐに奥を見る。
 いつもの軍服ではなく、白い礼装をしているルキアが微笑んで待っていてくれる。あそこで、誓いの言葉を交わすのだ。
 ごくりと喉を鳴らして、右足を踏み出す。
 見つめる相手はルキアだけでいい。彼のことだけ考えればいい。
 一歩一歩と、近づいていく。彼が右手を差し伸べてくれる。思わず、手を伸ばす。
 その手が触れた瞬間、一段上のそこへと導かれる。
「いらっしゃい、トリシア」
 あまりにもいつもと同じルキアだった。彼は微笑んで、見上げてくる。あまりにも美しい顔で、艶やかに。
 宣誓の儀式のために立っていた男が、トリシアたちに目配せをする。二人は前を向き、台座の上に両手を重ねて置く。
 大丈夫。練習をした、何度も、何度も。宣誓の言葉を間違えるわけはない。
 ぎゅ、とルキアの手を握ってしまう。ここは重ねるのが正しいのに、やってしまった!
 ハッとしてトリシアが慌てて力を抜こうとするが、ルキアが優しく握り返してくれた。
「では、宣誓の言葉を。夫、ルキア=ファルシオンより」
「はい」
 ルキアは瞼を閉じた。
「始まりの光と、終わりの闇の訪れに、彼女との絆が結ばれたことを誓います」
 端的な宣誓の言葉を終え、ルキアは自由な左手を挙げる。
 自分の番だ。
「始まりの光と、終わりの闇の訪れに、彼との絆が結ばれたことを……誓います!」
 トリシアは、握られていない右手を挙げた。
 さあ、まだだ。二人の唇が同時に開かれる。
「互いの見えぬ心を、この見えぬ絆で結ばれたことを我々は誓います」
「見届けました」
 男の頷きと言葉に、トリシアはほっと息を軽く吐いて瞼を開ける。
「宣誓の言葉は終わりました。それでは、」
 男の言葉が途切れ、あれっと思った時には唇が重ねられていた。握られた手を、ルキアが急に引っ張ってバランスを崩したからだ。
 キスをしていると認識した時には、終わっていた。彼が離れてにやっと笑う。
「すみません、我慢できなくて」
 いたずらっぽく言うルキアは、すぐににっこりと微笑んだ。いや、うん? キスは、予定通りするのだが……。
 室内で口笛が吹かれた。それを合図に、全員が呆れたような、でもなんだか笑っているような、微笑ましいような気配に包まれた。
 真っ赤になったトリシアの目をまっすぐ見つめて、彼は言う。
「はじめまして、奥さん。これから、よろしくお願いします」
「……はい。旦那さま」
 誰かが拍手をした。それに倣うように全員が手を叩く中、二人で出入り口の扉に向かう。
「ほら、トリシア!」
「ちょ、なんでそんなに元気なんですか」
 おたおたしてしまう自分が情けない。
 けれどもルキアは楽しそうに、本当に心の底から嬉しそうに言ったのだ。
「だって、こんなに綺麗な花嫁さんをみんなに見せ続けるの、嫌なんです」
 きれい?
 驚くトリシアは、ルキアに引っ張られるように歩き、あっという間に出口の扉の前に立ってしまう。扉に手をかけるルキアが、小さく笑った。
「覚悟してくださいね、奥さん?」

 ただのトリシアが、トリシア=ファルシオンになったのはこんな短いやり取りだった。
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