Barkarole! メモリア16

 食堂で、用意された紅茶に口をつける。少し熱いが、それでも美味しい。すごく高級というわけではない。この紅茶は、庭で作っている草を炒ったものらしい。
「ルキア様、大丈夫かな」
 ぽつんと洩らしたトリシアを、クッキーを持ってきたルキアの母親が聞いてくすりと笑った。
「大丈夫よ。まあ、でもバカだとは思うけど」
「ば、バカ、ですか」
「ええ。あのバカっぷりは、トリシアさんも、知ってるんじゃない? 短絡的だしね」
「そう、ですか?」
「そうよ」
 楽しそうに紅茶のカップを口元に運ぶ。彼女は、手元で揺れる水面を見つめた。
「あの子は虚偽で飾ることを知らない、というよりは、できないのよね。できないことのほうが多いことを、自分でわかっているから」
「? なんでもできそうな感じでしたけど」
「できる分野しか見せないのよ。できない部分は、やっぱり男の子だから、かっこ悪くて見せたくないんでしょうね」
 やれやれと苦笑する彼女の言葉に、トリシアは俯いてしまう。やはり十年以上も家族をしているのだ。彼のことを、自分より知っているのは当然だろう。
「あの、お義母様は、ルキア様の……幼いころは、よく知っているんですよね」
「知ってるけど、その当時の絵はないわよ」
「えっ」
「あの子、全部燃やしちゃったの」
 燃やした?
 驚きに顔をあげるトリシアに、少しだけ紅茶を飲んでから、言う。
「欠落者、って本人から聞いたと思うけど……あの子ね、とにかく泣かないのよね。絵も、全部笑ってる姿で、私はそれでもいいと思ってたんだけど、軍に所属した時に全部燃やされちゃったわ」
「え……」
「同じ表情で不気味ですよね、って笑って言ってたけど、嘘をつけない性格だからたぶん……本心は隠してたんでしょうね」
「…………」
「軍属になっていきなりでしょ? びっくりしたわよね。それまでも、かなり破天荒なことをする子だなと思ってたんだけど、あれはさすがに驚いちゃって」
「全部、ですか?」
「いいえ。あの子が描かれてるものだけね。だから、そこに理由があるんでしょう」
「……ルキア様が、わざと燃やしたんですね。理由があって」
「まあね。あの子は、基本的に単純なのよ。世間じゃ、天才だなんだって言われてるけど、なにも変わってないわ」
「…………」
「嘘がつけなくて、不器用で、泣けなくて。あぁ、でも少し変わったわね」
「変わった?」
「あなたの前ではうまく誤魔化してるみたいだけど、かっこ悪くなったわよね〜」
「えと、だらしないところは変わってませんけど……」
「見せてた部分はそのままなのよ。ただ、見せてない部分で変化はあったわね」
 人差し指を立てるその姿に、トリシアはうーんと唸ってしまう。
 なにせ、自分はルキアのことをほとんど知らないのだ。比較がそもそも間違っている。
「いやー、いちいち可愛いでしょ? あなたの反応を見て考え込んだりするし」
「えっ? そ、そんなことありました?」
「あの子、鈍感だからすごくそこは気を遣うようにしてるみたいなのよね。さっきも、見送らなくていいって言ったでしょ、最初」
「あ、あぁそういえば」
「でも、あなたを観察して、途中で変えたのよ。基本的に、効率を重視するからああいうところで譲るとは思ってなかったんだけど」
「観察、ですか?」
「ふふっ。あなたが気づかないようにけっこう見てるわね。その後、あれこれ考え込んでるみたいで、ちょっと笑っちゃったわ」
「そ、そんなことしなくていいのにっ」
 恥ずかしくて、赤面してしまう。
「いいのよ。はっきり言えない気持ちはわかるから。でも、ルキアは『察する』ことが難しいから、どうしてもって時はちゃんと言ったほうがいいわよ」
「は、はい」
「……でも、本当にあなたみたいな相手を見つけてくれて、良かった」
 囁きのような、どこか涙を堪えたような声にトリシアは何も言えなくなる。
 ルキアの母親であるメリダは、息子よりも数段劣るが美貌の夫人だ。彼女は変わり者夫婦で通っているが、変わっているというのは「貴族として」だけであり、庶民としてはごく平凡である。
「でも、私は貴族でもないし、孤児でしたし」
 いくら仕事をこなしていたとはいえ、階級社会である帝国では、大きなハンデになる事情だ。
 その大きなハンデをどうにかしようとして、トリシアはがむしゃらに働いていたのだ。あの、『弾丸ライナー』で。
「ルキアは、どう?」
「え? どう、とは?」
 質問の意味がわからずに、トリシアはきょとんと見つめる。
「あの子は、とにかく人気がすごいから」
「……そ、そうですね。すごい綺麗な人ですし、気後れしますね。正直、なんで私なのかわからないんです。ルキア様も、わからないって言ってましたし」
「そう。じゃあ、少しずつわかっていけばいいんじゃないかしら? そういう種類の『恋』もあるわ」
 恋という言葉にトリシアは硬直してしまう。あの出来事が脳裏に浮かんで、咄嗟に顔を隠そうと俯いてしまった。
 鮮明に思い出せるのは、見上げていた時に見ていた彼の顔だけだ。
(そ、そっか。そうだよね。私、私、ルキア様と結ばれたんだ)
 改めて認識すると、まるであの時に感じた鈍痛が戻ってくるような、そんな感覚がした。一気に青ざめるトリシアに、メリダは心配そうにする。
「大丈夫? 顔色が悪いわ」
「あ、ちょ、ちょっと部屋に戻ります。休みます」
 ふらふらと立ち上がったトリシアは、メリダの視線を振り切って食堂をあとにした。
 廊下を歩きながら、外を窓から覗く。ルキアはいつ頃に戻ってくるのだろう。もちろん、軍務が終わったら帰ってくるだろうが、そのまま遠征に出ることも考えられる。
 不安で、心配だ。
 その時、「大丈夫ですよ」とルキアの囁き声を思い出す。あまりに生々しいので、ぎょっとしてしまった。ああそうか。
(何度も、言われたっけ)
 大丈夫、か。ちょっと前までは、なんでそんなに自信があるのかと、憤ったものだ。けれども、ルキアの中には確信があるからそれを口にしているのだ。
「大丈夫、か……」
 大丈夫なんて言葉、大嫌いだった。トリシアは、自分が劣等感の塊だと認識しているからだ。
 幼い頃からトリシアは生きることに精一杯だった。貧民街の西地区の教会で暮らしていたトリシアは、少ない食事と、与えられる寒い寝床に文句をつけたことはない。
 それがその頃の「当たり前」で、貴族の暮らしなど羨んだことはない。貴族は遠い存在で、安全圏にいる。自分とは違う。
 13歳になって、職業登録をおこない、働いて……死ぬまでの人生設計を考えるのが、当たり前になった。
 高望みはしない。分不相応という言葉があるのだ。自分には、どうやったって、手に入れることが無理なものがある。
 それなのに。
(ルキア様があっさりとくれるから……)
 あたたかい家族も。あたたかい寝床も、安心できる居場所も。
 手に入らないなら、最初から諦めていたほうがいいと思っていたものだ。
 大丈夫ですよと、トリシアの手を引いてくれる。それがどうしても、心地よすぎるのだ。
 トリシアが「優しい」と言うと、ルキアはきまって否定する。「自分は優しくない」と。
(私には、ルキア様の一面しか見えていない)
 全部知りたいなんていうのは、わがままだろう。それに、人間は多面性を含んだ生物だ。気軽に理解はできない。
(……そっか。私、ルキア様の前向きなところ、大嫌いだった気がする)
 無邪気で、空気を読まない彼の、あまりにも眩しいもの――――。
(私には、ないものを……ルキア様は全部持ってる……)
 トリシアは足を止めてしまう。ふいに目をあげると、ルキアの部屋のドアが見えた。そっと近づいて、ドアを押すと簡単に開いた。
 ここで暮らすようになってから、この部屋はトリシアの部屋でもある。カーテンに手を伸ばし、そっと……手を引っ込める。
 なんで私を選んだの。
 毎回、毎日思うことだ。胸を張ることなんて、できない。
 ルキアが残酷だと、彼の仲間たちは言っていた。……そうかもしれない。
 椅子に座って頭を机にそっと置き、大きく溜息をつく。
(ルキア様といると、甘い夢に浸っている気分になる……怖い)
 だからだろうか。生々しい感触を思い出すたびに、ルキアの……見たこともない表情を思い出す。
 現実なのだと、夢から醒める。
 夢ではないと、彼がはっきりとトリシアに思い知らしたのだ。
(ひどい……)
 額を机に向け、はぁ、とまた息を吐く。これではもう、逃げられない。いいや、逃げるつもりはなかった。だけど、もう。
(『夢だった』ことにはできない)
 心まで、彼に縛られる。彼に捧げたくなる。だから、私のものになって、私だけを見て、そんな気持ちが……芽生えてしまう。
「うぅ」
 唸り声をあげる。ルキアは言っていたではないか。
 体も、心も、あなたにあげますと。
 命だけはあげられないけど。
(貪欲になる……。ひどいわ、ルキア様……)
 ルキアは文字通り、体をトリシアに捧げた。彼はあっさりとトリシアに応じたからだ。
 涙がこみあげてきた。どういうものなのか、どういう気持ちから涙が出てきたのかわからない。
 ただ、ルキアが無性に憎い。そして、ひどく愛おしい。
 苦しかった。ルキアとの恋は、苦しいものになる。辛い道になることも、わかった。
「恋って……ほんと、難しくてよくわからない」
 苦笑して顔をあげる。涙を拭ってから、トリシアはふいに机の上にある手紙に目を遣った。封筒には、自分の名前が書いてある。
「これ……?」
 封筒を開き、手紙に目を通す。流麗な文字が連なり、そして……トリシアは驚愕に目を開いた。
「どういう、こと……?」
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