差し出された手の意味を、理解できなかった。
シェリルの言っていることも、言葉も、そのすべてが。
理解しがたく、そして、許すべきではないと――――わかってしまった。
「『特別』なんだ」
それは、人となにかを区切る言葉。
上にも、下にも、なにかを、区切る言葉。
「『選ばれた』んだ」
「いいえ」
即座に否定する。
「優劣など、ありません。たとえこの世界と秩序が、社会が、『分けられて』いても」
「『違うね』」
歌うように、どこか歪んだ光をたたえた瞳でシェリルはルキアを見て、囁く。
「あるんだよ、明確な優劣が! 現に、キミは誰からも『拒絶』されてしまう」
その言葉は理解できた。欠落者として存在する自分は、他者の機微に疎く、どうにも、コミュニケーションをうまくできないところがある。
だが、「それがどうした」?
誰かに理解されないのは寂しいし、辛いことだ。だが、完全に理解できるひとなど、いるわけがない。
ならば多くを他者に求めるのはただの残酷な仕打ちではないのか?
ルキアはシェリルの、差し出された手を一瞥してから冷ややかに言い放った。その言葉は…………。
ハッ、とルキアは瞼をあげる。薄暗い室内を見回す。カーテンの隙間から漏れる光は穏やかだが、まだ日中であることを示していた。
「…………」
複雑な表情を浮かべてから上半身を起こす。なんだか少し寒いなと思っていたら、なにも着ていない。
「……あ、あぁ」
そうか。そういえば、そうだ。
ベッドの下に散乱している衣服に手を伸ばして、引き上げてからのろのろと袖を通す。
思い出すと恥ずかしくて、耳まで真っ赤になってしまったが、なんとかすべて着終わってから一息つく。
隣ではトリシアが眠っている。
「…………」
眺めてから、ルキアは果たしてこの行為が正しかったのかと考えてしまう。もちろん、まだ婚約中なのだから、よくないことではある。
でも彼女は不安だった。いつもルキアの横に立つことに怯えていた。
言葉で「大丈夫」だと伝えても、理解はされない。ルキアの外見が異常なほど人間離れをしているせいだ。
彼女の胸中は、完全には理解できない。不安だということだけなんとなく感じて、どうすれば安心するだろうかと思案した。
自分が求めれば、彼女は戸惑うが嬉しそうだった。純粋に、誰かに必要とされることが嬉しいのかと思っていたのだが、違うようだった。
逃げろと言ったのに、裏切るみたいで嫌だと彼女が言った瞬間、火花が散るような錯覚に陥った。欲しい、と思った。
もしかしたら体を繋げることで、彼女は安心するかもしれない。その方法は間違っているかもしれないなとは感じたけれど。
(自分は、なんというか……まだ足りないんですけどね)
でも、トリシアは嬉しそうな微笑を浮かべて眠っている。なんてあどけない寝顔だろう。
ルキアは幼い体躯を見下ろして、小さく唸る。身長も彼女より低い。もちろん、キスには困らないけれども。
未発達な身体では、やはり物足りないと感じるようになった。
爆発的な魔力が、この未成熟な肉体ではもつかどうか、最近不安なのだ。
今まで大丈夫だったから、これからも大丈夫なんて保障はどこにもない。
(……もしも、肉体が崩壊したら……)
『ヤト』に所属しているルキアは、「血の呪縛」という術をかけられている。命令違反をすれば、すぐさま死に直結する恐ろしい魔術だ。
だから、死は覚悟していた。軍属になってから、ずっと覚悟していたものだ。死ぬのは戦場だろうと思っていたし、家族や民を守れるのは誇りだと思っている。
けれど。
(……努力をしないわけには、いきません)
生きる、努力を。
死ぬのは決まっていても、そこまでの道のりはまだ確定していない。
なにより。
ちらりと、眠るトリシアを見遣ってから苦笑した。額にかかる髪を人差し指で優しく避けてから、見つめる。
彼女はきっと、覚悟はしても、泣くだろう。
悲しみは、我慢するものではないし……。我慢して欲しくない。
(自分は、もっと強くあらねばならない。この身体では、だめだ)
一時的でもいい。この溢れる、満ちている魔力を消費しなければ。溜め込むばかりでは、きっと長くもたない。
「…………」
ふと、目を瞠る。
シーツに隠れているとはいえ、彼女は全裸だ。自分が脱がせたことを思い出して、ルキアは視線を泳がせる。
自分がこんなに即物的とは思わなかった。いや、単純だとは感じていたが。
「……本当に、逃げてくれて良かったんですけどね」
小さく笑って、隣で膝を抱える。
彼女の目覚めまで、待とう。目覚めた時、安心してもらえるように、微笑もう。
でも。
「やっぱり、恥ずかしいですね……」
小さく、ひとりごちた。
*
目覚めた時、ルキアが隣に座っていた。膝を抱えるような姿勢で、こちらを見ていた。
「お目覚めですか?」
優しい声。甘い囁きのようなそれに、トリシアは思わず。
「ぎゃああああああああ!」
悲鳴をあげたのだった。
遅めの朝食……とはいえ、もうすでにお昼もまわっているので遅い昼食となってしまったが、二人で食堂でとる。
トリシアは赤面したまま、俯いて食事をしていた。とてもではないが、ルキアの顔をまともに見ることができない。
「お、怒ってますか、トリシア?」
「怒ってませんっ!」
激しく言い放ち、それから頬を膨らませる。そうしていないと、頬が緩みそうだったからだ。
恥ずかしい。照れる。恥ずかしい。でも、でも嬉しい。
「あの、よければどこかへ出かけませんか? 行きたいところがあれば、付き合いますよ」
微笑みながら言ってくれるルキアに、涙が出そうになる。なんでこんなにこの人は、やさしい……。
「つ、疲れてるでしょうから、いいですよ。ここでのんびりするのも」
言いかけて、つい顔をあげてしまう。ばちっ、と目が合ってしまった。
ルキアはきょとんとしていたが、反射的にトリシアは思いっきり顔を逸らした。
「の、のんびりするのも悪くはない、ですよ?」
その時だ。
食堂にルキアの父親が入ってくる。
「ルキア、召集令状が届いたぞ」
「……今日は休みだったはずですけどね」
若干不機嫌になった声で呟き、ルキアは立ち上がって父のもとまで行き、封書を開けて書状に目を通す。そしてあっという間に燃やしてしまった。
「本部に出向きます。少佐が迎えに来るそうなので、父上たちは屋敷にいてください」
「ルキア様! 着替えを手伝いますっ」
トリシアも慌てて立ち上がる。彼は振り向いて「助かります」と笑った。
洗ってある、糊をきかせた開襟シャツをまずは取ってくる。そして大事におさめてある、外套を衣装箱から出す。今回は緊急召集らしいので、勲章はつけない。
軍服にブラシをかけて、汚れと埃を落としてから、ルキアの湯浴みが終わるのを待つ。彼はものの数分で浴室から出てくると、すぐさま着替えてから、椅子に腰掛ける。
背後にまわったトリシアが櫛を手に、ルキアの髪を結び始めた。ハーフアップにされた髪をしっかりと紐で括り、トリシアは「できました」と声をかける。
立ち上がったルキアに、左右非対称の外套を渡す。彼はそれを身に纏い、軽く、モノクルを押し上げた。白い手袋をつけながら、エントランスへ向かう。
「帰りは遅くなるかもしれません。待たずに寝てくださいね」
「は、はい」
「見送りはいいです」
やんわりと微笑むルキアに、トリシアが眉をさげてしまう。そこで彼の動きが止まった。
「いえ、撤回します。見送ってください」
「あ、は、はい!」
トリシアが頬を朱に染めて頷くのを確認し、彼は満足そうににっこりと笑ってくれる。
一緒にエントランスホールまで来ると、すでにオスカーの姿があった。傍には、ルキアの父の姿も。
軍靴の音を響かせて近づくと、オスカーが「お」と声を洩らす。
「おっまえ、ほんとまともな格好すると違和感あるなー」
どこか呆れたように言うオスカーは、ルキアが衣服や身なりに無頓着なのを知っている、数少ないルキアの同僚だ。
「お。髪型ちょっと変えたのか。って、うお!」
突然オスカーが仰け反る。
「少佐、無駄話をしている暇があったらすぐに向かいましょう。緊急ということですし」
「わ、わかったよ! 怖いから睨むな!」
「? 睨んでませんけど」
「睨んでんだよッ!」
むっきー! と怒るオスカーを、トリシアは見つめる。生憎と、トリシアはルキアの後方に立っていたため、彼がどんな顔をしていたかわからない。
(睨んでた? ルキア様が?)
彼はいつも温和な表情で、微笑んでいるイメージが強いので、想像するのが難しい。
オスカーはトリシアの存在に気づき、「ぉぉ」と、よくわからない呻き声を発した。トリシアは小さく会釈する。
オスカーとは一ヶ月と少し前から会っていない。久しぶりに顔を見たのだが、彼は前と違って多少は気さくなようだ。以前はルキアのことで、彼に強く忠告された……身分をわきまえろと。
その時のトリシアはきちんと理解していたし、自分がルキアを好きになるとは思っていなかったのでオスカーの言葉に頷いていたのだが……。
「ほ、本当にいるんだな……」
ぼそりと洩らしたオスカーは、きびすを返した。その後ろをルキアが続く。
ふいに彼は肩越しにトリシアを見て、ニッと口角をあげた。すぐさま前を向いて玄関から出て行ってしまう。
残されたトリシアは、妙に緊張していたことに気づいて、汗ばんだ掌を見つめた。