Barkarole! メモリア13

 朝食の用意をしながら、トリシアは手が思わず、止まってしまう。
 顔を俯かせていると、ルキアの母が声をかけてきた。
「どうしたの? なにかあの子が問題を起こした?」
「えっ? い、いえ、そうじゃなくて」
 両親は昨晩の騒動をおおまかにしか聞いていないようで、べつだん、動揺もしていない。
「おーい、牛乳、もらってきたぞー」
 裏口から入ってきた農夫もどきは、ルキアの父だ。とことん、この二人からルキアが生まれたとはとても思えなかった。
 ルキアの父は、動きの止まっている二人を見てきょとんとした。
「んんー? どうした?」
「うーん。
 あっ! もしかして、昨日押しかけてきたあの貴族のお嬢様のこと、気にしてるの!?」
 ハズレてはいるが、トリシアが反応しないので、ルキアの両親はそう取ったようだ。
 夫妻は顔を見合わせる。こそこそとなにか話し始めるが、トリシアの耳には入っていない。
(シェリルさん、か……)
 ナタリーは華やかな美少女だったが、シェリルは色香をまとわせた花のような人物だった。どちらも麗しく、トリシアには対抗できるものがない。
「ふぁ……よく寝ました」
 のろのろと歩いて顔を覗かせるルキアに、どきりとしてトリシアの手が止まる。その様子に、ルキアの両親が大きく目を剥いた。
 同時に。
「ルキア!」
 二人の怒声が室内に響き渡る。驚いたのはルキアだけではなく、トリシアもだ。
「あ、は、はい。なんですか?」
「おまえは間違った方向に伸びたが、いい男に育ったと思ったのに、早速浮気か!」
「トリシアさんが大事なら、もうちょっと慎重に行動なさい!」
「え? あ、あの?」
「だいたいおまえは気づいてないが、おまえが帰ってくるとトリシアちゃんが疲れるんだ!」
「そうよ!」
 両親の言葉にルキアは大きく目を見開き、それからさぁ、っと青くなった。ぎこちなく視線を向けてくるルキアに、トリシアは慌ててしまう。
 ゆるく顔を俯かせるルキアは、父に両肩を掴んで揺すられても成すがままだった。ぼんやりとした視線を、さ迷わせている。
「疲れる……」
「違います!」
 トリシアは声を張り上げた。
 泣きそうなルキアが顔をあげてトリシアを見てきた。
 違います。違うんです。
「浮気とか、してません! 彼は、あの、それに私、疲れません……」
「…………」
 停止したファルシオン一家の面々に、トリシアの言葉は尻すぼみになって消えてしまう。
「トリシアちゃん! この際、はっきり言っちゃっていいんだよ、こいつはニブいんだから!」
「そうよ! 気疲れしているのは、伝えなくちゃだめよ!」
「いえ! あ、あの」
 本当のことだ。彼が遠征に行くと、不安だし、心配になる。だがそれは、軍人を夫に持つ者ならば、誰でも経験する気持ちではないだろうか?
 彼のことを信じて待てる、と強くあれればいいのだが、トリシアはそれほど強靭な心を有してはいない。
 頬が高潮してしまう。体が微かに震えた。
 これが仕事ならば、割り切って応じることもできる。そのように心も縛れる。
 だが目の前の人たちはそうではない。割り切れる相手でもないし、愛すべき人たちだ。
 そこまで考えて、トリシアは愕然としてしまった。自分は、彼の「家族」になるのだ。この輪の中に入らねばならないのだ。
 正しい判断を求めていた心が行き場を失う。正しさなど、どこにもないのだ。
 じっとトリシアを凝視していたルキアが、なにか決心したように父親の手から抜け出し、こちらの手を軽く掴んだ。
「っ、ルキアさ」
「いいからちょっと」
 焦った声でそう言われ、引っ張って調理室から連れ出された。ルキアの両親は追ってこない。
 彼はずんずんと廊下を歩き、屋敷の一番端の部屋の前まで来て、やっとこちらを振り返ってくれた。
「あの」
 眉間に皺を寄せるルキアは、視線をさ迷わせていたが唇をへの字に曲げてしまう。珍しい感情発露に、トリシアのほうが驚いてしまった。
「あの、言ってください」
「え?」
「疲れるなら、理由をお願いします。対処させてください」
「…………」
「あなたとは夫婦になるんです。だとしたら、今から努力を惜しむことはよくないです」
「どりょく?」
「はい。自分は至らないので、改善していきます」
 どうやら、欠点を直す努力をするということらしい。トリシアは慌てふためく。
「そんな! もういい! 充分ですから!」
「いいえ。充分などという言葉は、ここでは使ってはいけません、トリシア」
 厳しく言われて、硬直してしまう。たった……たった3つの年の差だというのに、なんだろうこの差は。
 先ほどの幼い表情とは打って変わり、ルキアは大人びた顔つきをしている。
「愛情だけで成り立つものではありません。互いを理解し、また衝突もすることでしょう。ですから、自分はあなたが求めるものを、間違えないようにしたいです」
 なにもそれほど頑張らなくても、と口に出そうになるが、やめる。
「それは、間違っていますルキア様。私の願いや望みを叶える努力を、ルキア様が無理にされることはないんです」
「いいえ。お互いがすべき目標です」
「私は、今のルキア様で、いいんです」
 控えめに申し出るが、彼は納得しない。
「こうして欲しい、ああして欲しい。そういう欲求は際限がありません。それに、押し付けることはよくないと思います」
「…………」
「それが、自分自身に対してでも。心が疲れますから」
「トリシア」
「はい」
「違います。無理もしてませんし、自分を変えようとはしませんよ」
 微笑むルキアに、わけがわからなくなってくる。
「あなたが『死ぬな』と言っても、国から命令されれば自分は死にます」
「っ」
「こうありたい、ああありたい。そう願うことは間違いですか? 確かにそれは、自分の望みだとしても、どうやっても無理な時があります」
「え……」
「その時、ひとは大きく失望、または絶望します。するとどうです? 自棄になりますか? それとも、自分の限界を見定めて、そこでできることをしますか?」
「…………」
「後者のほうが圧倒的に多い。常に目標に向けて努力し続けることを、ひとはできない。それは……緊張が続かないのと同じで」
「ルキア様も、そうなんですか?」
「そうですよ。自分は、できる範囲でしか物事を判じられませんし、その中での努力しかできません。ですから、あなたの望むことを叶える努力はしますが、無理な時は諦めてください」
 すっぱりと言い放ったルキアに、トリシアは唖然としてしまう。
「ふふ。あなたに無理を強いたり、負担をかけるようなことはしませんよ。……極力ね」
 苦笑されて、いつの間にか拳に力が入っていたトリシアは「あ」と小さく呟く。お見通しだったらしいルキアは、よしよしと彼女の頭を軽く撫でた。
「色々試している最中なので、慰め方がよくわかっていません。抱きしめたほうが安心しますか?」
「え」
 彼の優しさに浸っていたトリシアはハッと我に返る。かあ、と熱くなった頬を隠そうと俯いた。
「ど、どうですかね……?」
「……うーん」
 唸るルキアをそっと見遣ると、彼はかなり難しい表情をしてした。
(や、やっぱり、そういうの嫌なのかな)
「これは、忍耐ですかね。どうすればいいのか、わかりません……」
「忍耐?」
「殿下に貸していただいた本の内容を実践すべきでしょうか……」
 仕方ないなという表情になると、ルキアは突然、トリシアをふわりと優しく抱きしめてきた。
 こうして体が密着すると、彼は華奢な体躯のわりに筋肉がついていることを思い知らされる。思わずびくりと身を竦ませるが、ルキアはそのままあやすように背中を撫でてきた。
 ぽんぽんと軽く叩かれて、それが嫌ではないことにトリシアは体から力が抜ける。すると、ルキアは密着したまま少しだけ顔を離し、こちらを覗きこんできたのだ。
 驚くトリシアの思考が追いつく前に、唇が重ねられる。軽い、触れるだけのものに、困惑してしまった。
 何度も啄ばんでくる口付けに、先に根をあげたのはルキアのほうだ。
「すみません! もう無理です!」
「はっ」
 意識を覚醒させたトリシアの前には、顔を俯かせているルキアがいる。
「無理です! これ以上は、さすがに」
 これ以上?
 キスをするのが嫌になったのだろうか? 不安になるトリシアだったが、彼は大きく溜息をついて、悩ましそうにぶるぶると震えた。顔が見えないから、判断できない。
「キスだけで我慢とか、無理ですっ!」
 堂々と言い放ったルキアの言葉に、トリシアは衝撃を食らって唖然としてしまう。
「あの本の男は、どうやって誘惑を断ち切ったのか……やはり理解不能ですね……。えーっと、この後は、二人で微笑みあって、こつんと額を軽くぶつける、でしたか?」
 ぶつぶつと呟くルキアは相当な葛藤があるらしく、そこから動かない。
「なんですかね……。なにかを超越でもしてるんでしょうか……。好きな女性に何回もキスして微笑みあうとか、いえ、可能でしょうけど、可能ですが……」
 ぐっと顔をあげるが、視線が横に泳いでいる。トリシアに定めることができないようだ。
「すみません! 欲情したので、ちょっと危険です!」
「よっ」
 言葉にぎょっとするトリシアだったが、ルキアは少しも動きを見せない。まるで足が廊下の床に貼り付けられたように、微動だにしないのだ。
「逃げてください。怖いと思いますし」
「ルキア様」
「ああもう、なんだか自分は、あなたにみっともないところばかり見られていますっ」
「…………」
「追いません。頭を冷やしますので、少し時間をください」
「ルキア様は、どうして私にそんなに執着されるんですか?」
「さあ? よくわかりません」
 率直な意見は、出会った頃となにも変わらない。
 トリシアは思わず吹き出してしまう。
「私は学がないので言葉が足りないですけど、あの、あのですね」
「はい」
「ルキア様が私を求めてくれるのは、その、すごく困惑しますけど、嬉しいんですよ?」
「…………」
 彼は無言になり、目を細める。雰囲気が変わったが、トリシアは言葉をとめない。
「浮気するなんて思ってません、されても、私は文句が言える立場ではないですし。でも、ルキア様の安否は気になります」
「……そうですか」
「遠征に行かれる時はやっぱり心配しますし、帰ってくると安心して、安心がすごく重いです」
「…………」
「すごく心配してる比例がどうしても出るんです。私が……」
 言葉を切る。ためらいがちに視線を伏せる。力と、勇気をください。
 告げる言葉のために全身が熱くなる。下っ腹に妙な力が入り、トリシアは呼吸を深くした。
「私が、あなたのことを好きだから」
 ルキアの瞳がゆるく、見開かれる。紅玉の瞳が揺れた。
「好き、です。だと、思います。ルキア様を見ると、やっぱり惹かれてるのは自覚しますし、うっ、こんなこと言うのすごく、えっと恥ずかしいんですけど」
 たどたどしい感情表現をしている自覚はあった。だけど怯んではいけない。ルキアはあれこれ頑張っている。だったら自分も頑張りたい。
 ルキアは顔をしかめて、また嘆息した。
「欲情したと言っているのに、逃げないんですか?」
「あっ、え、と」
 呆れたように見てくるルキアに、頷く。
「わざと教えてくれるので、わかります。ありがとうございます、ルキア様」
「…………」
 面食らったように硬直するルキアは、すぐさま苦い表情になった。
「婚約中は貞節を守るようにと自戒しているんですけどね……。煽られると止まりそうにないので、やめてください」
「煽ってませんから」
「まあ、そう受け取るのは自分の側の問題ですから仕方ないことなんですけど。男って、こういう時厄介ですね」
「やっぱり、ルキア様も男性なんですね……」
「ん? 性別上は男ですよ? ですが、こういうのには無縁だったので、自制するのが難しくて。自分の都合のいいように考えてしまいそうで、呆れます」
 やれやれと肩を落とすルキアは、ぷいっと横を向く。
「勝手に体が反応するので、参っていますよ」
 誰でもいいわけじゃない。
 ルキアの視線が、視線だけが動いて、トリシアを射止める。身が竦みそうになるほど、色香を含んでいた。
「夫婦になったら、手加減はできないと思いますから……逃げるなら今のうちですよ」
「に、逃げませんよ!」
 真っ赤になって否定すると、ルキアは穏やかに微笑む。
「あぁ、言っちゃいましたね。だめですって。ここは逃げておかないと」
「逃げるなんて、う、裏切るみたいで好きではないです」
「……逃がしてあげる口実だったのに」
 ルキアの手が伸びてきて、トリシアの顎のラインをゆっくりとなぞっていく。その指の動きに、今さらながら、間違った受け答えをしていたのではとトリシアは瞬きを繰り返す。
「逃げないのなら、遠慮なく。愛します」
「ま、待ってください!」
「ん?」
「あ、の、なにをするんですか……?」
 恐々と尋ねると、ルキアがきょとんとしてくる。それから困ったように笑う。
「体を繋ぎます、と端的に言えばわかりますか?」
「え、あ」
「心の準備ができていないのは、自分も同じですよ」
 でも。
「あなたは案外、そのほうが安心するかもしれないですね」
 まるで導かれるように手をとられ、真横の扉が音もなく開かれる。そして誘い込まれるようにトリシアはその部屋に足を踏み込んだ。
 薄暗い室内の、締め切られたカーテンの隙間から漏れる頼りない光の中で、ルキアが妖艶に笑っているのが見えた。
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