Barkarole! メモリア12

 物騒な騒ぎの翌日、ファルシオン邸の目覚めはいつもと同じだった。あまりにもいつも通りで、不気味さすら感じたほどだ。
 トリシアはぼんやりとベッドの上で上半身を起こした体勢のまま、昨晩のことを思い出して、途端――――。
(いやあああああああっ!)
 自分からルキアにキスをしてしまった! しかもあんなぎこちない! みっともない!
(未婚の! わ、私なにして!)
 動揺しだして、この部屋までエスコートしてくれたルキアの姿がないことに安堵する。彼に気づかれたらなにを言われるか。
 頭を抱えてしまうトリシアは、ドアが軽く押し開けられたのに気づいて身構えた。
「あれ? おはようございます」
 爽やかな笑顔を向けてくるルキアは、手にカップを2つ持っている。
「ちょうどいいです。スープとあたたかい紅茶、どっちがいいですか?」
「え?」
 きょとんとするトリシアは、ルキアが昨晩とまったく同じ服装だということに気づいた。開襟シャツに、簡素なズボン姿だ。
 もしかして、寝てない?
 さっと青ざめると、トリシアはベッドから落ちるように慌てた。
「そんな飲み物とかいいですから! 寝てないんじゃないですか? ね、寝てくださいっ」
「…………」
「ベッド使ってください! あ、あと、えっと、えっと!」
 慌てふためくトリシアは、彼が反応しないことに気づいて怪訝そうに見遣った。ルキアはじっとトリシアを見ていたのだが、しばらくしてくすりと笑う。
 困ったように笑うものだから、トリシアはなお更困惑した。
「じゃあ、お言葉に甘えて、あとで寝ますね。トリシアは早く着替えるように。誘惑してるのかと思いました」
「ゆっ!?」
 なんのことだと目を剥くトリシアは、自分が寝巻き姿だということに気づいて真っ赤になってしまう。
 慌ててベッド脇にあったショールを羽織った。これで少しは隠れるだろう。
「ほら、落ち着いてこれを飲みましょう。オニオンスープです」
 差し出されたカップからは湯気がたちのぼり、優しい香りを漂わせている。
「え、と。でもこれ、ルキア様のですよね?」
「自分はこちらの紅茶を飲みますので」
 にっこりと微笑まれては、嫌とは言いにくい。トリシアはカップを受け取った。
 そっと口付けて、あたたかさと美味しさに安心してしまう。
「美味しいです」
「そうですか。よかった」
 どうしてこの人はこんなに優しいのだろう?
 不安げに見つけるトリシアに、彼は不思議そうな視線を返してくる。
(本当に私に釣り合わないというか、なんていうか……)
 求婚された時は、感極まって判断を誤ったのではと今更疑ってしまう。
 まじまじと観察すれば、これほど浮世離れした存在などないだろうと改めて実感するしかない。
 淡い青の髪は、櫛を通されてはいないがくせがなくてさらさらだし、大きな紅玉の瞳は色っぽい。整った目鼻立ちは、まだ幼さの中に埋もれているが、それでも他者を惑わすには充分だ。
 じっと見つめているとさすがにくらくらしてきた。間近でルキアを凝視していると、心臓に悪い。
「大丈夫ですか、トリシア?」
「だ、大丈夫です。ちょっと眩暈が……」
「えっ? あの、体調が優れないのなら、医者を呼びますよ?」
 心配して覗き込んでくる大きな瞳にびくっと反応して、トリシアは慌てて立ち上がった。そしてすぐさま距離をとる。少し行儀が悪いが、ベッドの端に腰をおろした。
「ところでルキア様、寝ずになにをしていたんですか? ゆっくり休まないとだめですよ」
 せっかく帰宅したというのに、早々に賊に襲われるという事態が起こった。だというのにルキアは普段と変わらずにおっとりと笑って、手近なイスに腰掛けた。
「なにって、警備でしょうか。追撃があるといけないので、夜明けまではと見張っていました」
「そ、んな……」
 考えてみればその可能性はあったのだ。ルキアがいつもと同じ調子だったので、あれで終わりだと思っていた。
 絶句するトリシアを眺め、紅茶を飲んでいたルキアは微笑する。
「気にしないでください。夜警は慣れていますから」
「ルキア様……」
「あとで寝ますよ」
 にこっと微笑まれるので、なにも言えなくなる。
(私、もっとしっかりしなきゃ……)
 彼と結婚するのだから、覚悟を持たなければ。求婚を受けた以上、トリシアにはその責任がある。
 カップを持つ手に力が入った。彼に釣り合わないと考えるのは簡単だ。だが、それはきっと、トリシアだけに限られたことではない。
 自分にできることなんて、少ない。だが少ないその中から、なにを選ぶかが問題ではないのか?
「昨晩の人は、あの、聞いてもいいですか?」
「すみません。話せることは少ないです」
 ということは、現れたあの美女は問題がある人物なのだ。
 ルキアは軍務に関しては徹底している。それが逆に、トリシアとの線引きになっていた。
「話せることだけで、かまいません」
「わかりました。
 まず、名前はシェリル=パイルド。年齢は25。一年少し前に、投獄された人物です」
「っ!」
(シェリル?)
 それは、昨晩のルキアの昔物語に出てきた人物の名前では?
 青ざめるトリシアに、ルキアは微笑した。
「ええ、察した通り、元・第一部隊所属の軍医です」

**

「ご苦労」
 端的に言う、オールバックの痩身の男・ヒューボルト=ガイストの言葉に、マーテットとオスカーは「どうも」と微妙な顔で応える。
 連行されてきたシェリルは目を細める。
「私一人に、随分と仰々しい」
 薄く笑うシェリルに、マーテットが眼鏡の奥から睨みつけた。当然だろう。彼はシェリルと同じ「医者」なのだ。許せるはずもないだろう。
 捕獲にこの男がやって来ることは計算外だった。同じ医者では、見抜かれてしまう。
「しかし、残念だった」
 笑いながら洩らす。
「ルキアの婚約者殿に会えないのは。どのような可憐な少女かと、楽しみにしていたのに」
 不動の最強に、唯一踏み込んだ女。
 オスカーがシェリルの手首を乱暴に掴んだ。痛みが走るが、笑みは絶やさない。
「あの嬢ちゃんに手を出すなよっ」
 警告ではない、それは焦りの声だった。横目で眺めていたマーテットが少し嘆息した。
(ん? なんだ、この感じ)
 思っていたのと、想像していたのと、なんだか違う。
 ルキアが婚約したというのは、正直信じられなかった。おそらくは、政治的なものなのだと思い込んでいたのだが。
 おそらく可憐で、従順で、無垢なる少女なのだと思っていたのに。
(違う?)
 少しだけ、興味がわいた。
 婚約者の少女の命には興味などなく、あっという間に散らせるつもりだったのに。
(ふうん?)
 これは、なかなか楽しみだ。
 確か名は。
(トリシア。ただの、トリシア)
 ファミリー・ネームがない者の出自は、おのずと知れる。そう、孤児だ。
 愚鈍で馬鹿な娘を政府側が用意したのだと思っていた。貴族の娘などをあてがえば、ルキアを縛る余計な枷となる。
 孤児の娘ならば、どのように教育することもできる。……と、思っていたのだが。
(なにかある、のかな)
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