Barkarole! メモリア8

 ナタリーは歯噛みしながら屋敷のエントランスを通る。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
 侍女の言葉に苛立ちを含んだ眼差しを向けた。
「なんなのあの男!」
「……は?」
「いいのよ気にしないで! それよりお父様は!?」
「イゼルス様ならば……」

 書斎に向かったナタリーは、ノックをしてから返事を待つ。室内からの許可の声が聞こえて、中に入った。
 恰幅のいい男が豪奢な椅子に腰掛けている。ナタリーの父であるイゼルスだ。
「お父様、あの無礼な男に嫁ぐのは嫌です!」
「? なんのことだ、ナタリー」
「ルキア=ファルシオン少尉ですわ! お父様はわたくしの輿入れを諦めておられないのでしょう?」
「それはそうだが、今は婚約中なのだろう?」
「フン! 貧相な婚約者でしたわよ?」
「おまえ、もしかして本人のところに行ってきたのか?」
 驚くイゼルスに、ナタリーは両手を腰に当てて胸を張る。
「ええ。行って参りました。屋敷も小さくて、見ていて不愉快でしたわね」
「まさかと思うが……少尉になにか機嫌を損ねるようなことを言ったりしていないだろうな?」
「? お父様?」
 様子がおかしい父親に、ナタリーは眉をひそめる。
 どういうことだ……?



 戻ってきたルキアには遅めの夕食が用意されていた。
 トリシアがわざわざ用意してくれたのだ。温かい食事をして欲しいから、と。
 その心遣いにルキアは素直に感動し、一緒に食事をした。簡素な食事ではあったが、ルキアにとってはなによりのご馳走だ。彼女の手作りなんて!
「そういえばルキア様、きちんとナタリー様を送ってきたんですよね?」
 愛しい彼女からまさかこの話題を出されるとは思っていなかったので、ルキアはナイフを持っていた手をぴたりと止める。
「送ってきましたが……。意外ですね。嫉妬した相手を心配するなんて」
「し、嫉妬はしましたけど、それとこれは話が別なんです!」
 トリシアの言葉に「そんなものか」とルキアはぼんやり思い、それから小さく「ふふっ」と思い出し笑いをした。
「なんだか昔を思い出しましたよ」
「え?」
「前線部隊に居た頃、よく喧嘩をふっかけられまして。あの感覚が一番近かったもので、つい」
「つ、つい? つい、なんですか!」
「喧嘩は買いますと宣言しました」
 がたーん、とトリシアがイスごと後ろに倒れた。
「うわあ! トリシア、大丈夫ですかっ!?」
 慌てて立ち上がってルキアが倒れているトリシアを助け起こす。彼女はよろめきながら、彼の手を借りて立ち上がった。
「す、すみませんルキア様。あまりに衝撃が強すぎてリアクションが大きくなってしまいました……」
「どこか怪我してませんか? 大丈夫ですか?」
「ちょ、ちょっと背中を打っただけなので、心配無用です」
「ええっ!」
 仰天したルキアがトリシアの背後に回り、慌てて摩る。優しく撫でてくれるのでくすぐったい。
「ひょえっ! なにするんですか、ルキア様!」
「いや、痛みが少しは和らぐかなと。あ、マーテットをすぐ呼びましょう!」
「い、いやですっ! ていうか、もうこんな夜更けなのに、マーテット様呼ぶとかありえないですからっ」
「そうですか?」
「そうです!」
 怒ったように言われてルキアは肩をすくめる。畳み掛けるようにトリシアは背後を振り返って尋ねる。
「ところで、喧嘩を買ったっていうのはどういうことなんですか?」
「売るなら買いますと言っただけですから大丈夫ですよ」
「笑顔で怖いこと言わないでください!」
「怖いですか?」
 首を傾げるルキアはふふっと笑った。
「大丈夫ですよ。喧嘩は売ってこないと思います」
「え? ど、どうしてですか? 失礼ですけど、ドゥーリアはかなりの上流貴族ですよね」
「まともな思考を持っているなら、自分に喧嘩など売りませんよ」
「?」
 妖艶に微笑するルキアに、妙に距離を詰められていることにトリシアは気づいた。だが気づいた時には遅い。
 彼の瞳には情熱のような、それでいて奇妙な色香が漂っており、目が離せない。
「ど、どういう……」
 気圧されまいとなんとか気力を振り絞るトリシアだったが、ずるずると後退してテーブルにすぐ背中が当たってしまう。逃げられない。ルキアは、追い詰めるのが巧いと思う。
「色々考えれば、行き着く先は結局は同じなんですよ」
「え?」
「ルキア=ファルシオンは敵にするのが得策か、否か。トリシアならどうします?」
「ど、どうするって」
 敵に回すには恐ろしい相手だと、思う。
 ルキアの敵になどなったことがないからわからないが、彼が『敵』に対して容赦がないことは重々承知している。
 けれどそれでは、まるでルキアを損得だけでみているようではないか。トリシアが表情を曇らせた。
「損とか得とか、いい響きではないですね」
「それはあなたが自分を好いているからですよ」
 囁くように言われて、トリシアは頬が熱くなるのを感じた。
「そのような感情を持っていない相手を、狡猾な者ならば余計に損得勘定ではかります」
「……つまり、ドゥーリアの家は、ルキア様に手出しをしないということですか?」
「まあ、当主がまともならそうなりますね。昔の自分ならこうはいきませんけど、今は『ヤト』所属ですし」
「昔」
 ぽつりとトリシアが洩らした。そのことにルキアは首を軽く傾げる。
「ルキア様の昔って、どんなのだったんですか?」
「え?」
「き、気になります」
 どこか決意したように言うトリシアをしばらく凝視して、それからルキアは小さく微笑んだ。
 彼女の手を緩く握る。
「いいですよ。では、寝物語にお聞かせしましょうか」
 その言葉にトリシアはぎょっとして、顔に熱が集まるのを感じた。なにを意識しているのだ。
 婚約中の身なのだから、彼が言っているのは本当にただの、トリシアが眠りに入るまでに語るものに違いない。
 俯き加減になってしまう視線の先には、床に敷かれた絨毯が見えた。そしてルキアの、膝元も。握られている、手も。
「…………っ」
 なぜ、こんなにも恥ずかしいのだろう。いつか慣れる時がくるのだろうか?
「トリシア」
 囁きに顔をあげると、苦笑いをしているルキアの表情に驚くしかなかった。
「ちょっと、びっくりさせてしまいましたか?」
「え?」
「警戒していたので」
 警戒というよりは、緊張だ。トリシアは言いかけて、口を噤む。
「なにもしませんから、安心してください」
「ほ、本当ですか」
 彼は嘘をつかない。だけど、わかっているのについ確認をしてしまう。
「ええ、本当です。なにかして欲しいのなら、言って下さい」
「っ! へ、変なことをしなければべつにいいですからっ」
「変なこと……」
 眉をひそめるルキアには、どうやら意味が通じていないらしい。こういう時、融通のきかない彼の知識が本当に困る。
 ルキアはしばし逡巡し、それから真剣な顔で言う。
「大丈夫です。変なことはしません」
「…………」
 ルキアが何を考えたのか、怖くて聞けなかった……。
 彼はそっと立ち上がり、そしてトリシアを立たせてから誘導する。トリシアが滞在している……ルキアの部屋にだ。
 ルキアはいずれそうなるのだからと、自室をトリシアに使わせていた。それに彼はほとんど遠征で家にいないのだ。だが今日は、その部屋に彼も居ることになる……。
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