Barkarole! メモリア6

 ドアを開けたそこに、ちょうど硬直したようにぴたりと動きを止めた少女がいる。
 くすんだくせのある金髪をお団子にしてまとめあげ、青い瞳を戸惑いに染めている特徴のない娘だ。控えめな色のドレスを着ている。
 ルキアは彼女の姿に満面の笑みを浮かべた。
「ただいま帰りました!」
 いつもなら「おかえりなさい!」と笑顔で返すのだが、彼女――トリシアはためらいがちに俯き、小さな声で帰宅を喜んだ。
 不思議そうなルキアをトリシアは憎らしく思ってしまう。
(なんで女連れなの……)
 豪奢な美少女に、己の貧相さが際立つ。体型も顔立ちも、なに一つ勝てそうにない。先輩添乗員のエミリなら、「どーんと胸でも張りなさいよ!」と励ましてくれそうだが、彼女は美人だからそういうことが言えるのだ。
 ルキアは眉間に皺を寄せた。
「あ、あの、どうかしましたか?」
 戸惑っているのは充分伝わってくる。だがその前に、背後の女性を紹介するのが先だと思う。
 もしかして、愛人?
「なんでも……」
 ありません、と続けようしたが、声にならない。余程ショックだったのだろう。
 トリシアは一ヶ月前まで、この大陸を血脈のように走るレールの上を行き交う列車の添乗員をしていた。
 ルキアが帝都に戻ってくるまでの間に知り合い、縁があって……彼に求婚をされたのだ。本気であれは夢だったのではと今でも疑う。
 トリシアがルキアの背後で、こちらを検分しているらしい令嬢へ視線をちらちら向けていると「ああ」とルキアが呟いた。
「こちら、どこかのご令嬢です。トリシアに用事があるそうですよ」
 簡潔な説明にぎょっとして硬直してしまう。ゆっくりと、「は?」と問い返した。
「え、と? ルキア様のお知り合いでは?」
「え? さっき会ったばかりですよ。屋敷の前で」
「は?」
「ほぼ初対面です。名前も知りません」
 唖然とするトリシアの様子にルキアはふいに気づいたように客人を見遣る。
「お名前がないと不便ですね。よろしければ聞かせていただけますか」
「〜っ! ファルシオン少尉! 無礼にもほどがあるわ!」
(ど、どどどどういうこと!?)
 展開が読めない!
 困惑するトリシアは二人を見比べた。
 ルキアの言うことは真実だろう。ということは、彼はまったく見知らぬ相手と屋敷の前で出会ったことになる。
(しかも、私に用事?)
 とんでもなく嫌な予感しかしなかった。
「おや。そちらにいらっしゃるのは、イゼルス様のご息女のナタリー様では?」
 農夫のような格好で玄関ホールに現れたのはルキアの父である。精悍な顔つきと違って、どこかのんびりした印象を受ける男だ。
「父上、ご存知なのですか?」
「知ってるのも何も、おまえに見合いを一番に申し込んできたドゥーリア家のご令嬢だろう?」
 その名前ならば知っている。上流貴族としてもかなり上のほうに名前がある家だ。
 通常ならば、上流貴族から下流貴族への降嫁はありえない。だが将来性を買われてルキアに申し込んできたのだろう。
 しかしルキアはその話を蹴った。あちらから抗議があるのは百も承知だったが、軍でも特殊な地位にいるルキアに楯突くこともできなかったのだろう。
(う、うえ〜っ!)
 内心で悲鳴をあげるトリシアは仰け反る。
 ではじろじろと品定めされているようなこの視線は、ルキアの婚約者としての器量を見定めにきた、ということではないのか!
(む、むむむ無理無理!)
 対抗できるわけがなかった。トリシアには美貌も、地位も、なにもないのだ。性格だってあまりいいとは言えない。
「初めまして、ナタリー様。トリシアと申します」
 スカートの端を摘み、習ったマナーを思い出しながら会釈をする。ナタリーは汚いものでも見たように目を細める。
(侮蔑されたっていいわ。だって、私が平民で、下町出身なのは本当だもの)
 貴族の者たちが階級を重んじるのは当然だ。ルキアの家族が異常なのだ。
 しーん……。
 玄関ホールの重たい空気に「アレ?」とルキアの父が小さく呟いた。
 沈黙を破ったのは、エプロンをしてひょこっと顔を覗かせた美女――ルキアの母親だった。
「おかえりなさい、ルキア。早く手を洗って食堂に、ってあら?」
 迎えに行った嫁が戻ってこないので心配していたが、妙な空気に彼女は身を乗り出してくる。
「帰りました、母上」
「え、えぇ」
「お、お義母様! 私、手伝いに戻ります!」
「はっ? え。ええ?」
 耐えるべきだ。逃げ出してはならない。
 そうは思ってはいても、ルキアとナタリーが一緒に立っている光景をこれ以上見ていたくなかった。あまりにも、お似合いだったからだ――――。

(やだな。泣きそう)
 彼の求婚を受けた以上は、こういうことは今後もっとある。だから、予行演習だと思えばいいのだ。
 けれどもトリシアはルキアのことが好きなのだ。好きな男性の前で、自分よりもはるかに見目のいい令嬢がいればどうしても嫉妬してしまう。
 厨房に駆け込んだトリシアは自信のなさに気分が悪くなってきた。落ち込んでしまう。
 遠征から帰ってきたルキアに笑顔で「おかえりなさい」と言えなかった事も悔やまれた。胸が苦しい。
 机の上にあった鍋を手にとる。せめて、せめて美味しい料理でも作ってお詫びをしよう。
「トリシア!」
 声にぎょっとして振り向くと、颯爽と駆け込んできたルキアの姿が見えた。令嬢を放って追いかけて来たのか、まさか!
 慌てて奥へと逃げるトリシアは、青ざめた。追い詰められる!
「待ってください! 待って!」
 腕を掴んで引き止められると、トリシアは鍋を振り回した。
「離してください! あのご令嬢の相手をしていてください、ルキア様!」
「危ないですよ、トリシア」
 鍋を受け止めて、ルキアは押し戻す。
「またなにか隠し事ですか? わからないから、きちんと言ってくださいとあれほど」
「わからなくていいです! ていうか、聞かないで!」
「…………」
 不愉快そうに眉をひそめ、ルキアは厨房のテーブルの上に彼女を押し倒す。身動きがとれなくなったトリシアは数度瞬きを繰り返してから、泣きそうな顔になった。
「戻って早々、婚約者に無視されては辛いです。さあ、言ってください」
 顔を近づけると「ひっ」とトリシアが小さく悲鳴をあげる。みるみる顔が赤くなっていく。
「ちょ、待っ……! その顔は反則ですから!」
「言ってください」
「い、言います! 言いますからはなれてっ」
「いいえ。言うまで離れません」
(ええええええ!)
 いくらなんでもルキアのこの美貌にこんな近距離で耐えられるほど、慣れていない。
 彼は真面目な表情で見下ろしていたが、ふいに微笑んだ。柔らかい、いつもの笑みだ。
「ただいま、トリシア」
 その言葉にトリシアの強張った身体から力が抜けた。
 ああ、そうだ。そう、だ。
「あ、あの」
「はい」
「お、おかえりなさい」
「はい。ただいま」
「ご無事でなによりです」
「トリシアも息災なようで、安心しましたよ」
 心臓の音がうるさい。耳鳴りがする。
 あまりの色気にくらくらしてきた。
(ルキア様は私のことを案じてくださっているのに、嫉妬なんかして恥ずかしい)
 ちょっと性格に問題はあるけど、彼はとても優しい。優しすぎる。
「心配してました、ルキア様」
「ええ」
「で、でも」
「?」
「お出迎えが……」
「出迎えならしてくれましたよ?」
「ち、違います。きちんとできていませんっ。本当は、あの、ドアの前に居たんです」
「え?」
「でも、タイミングを逃してしまって……。ナタリー様と楽しそうに喋っている様子が窓から見えて、ショックを受けてしまったので」
 怪訝そうにするルキアは、おそらく理解できないのだろう。
 理解できなくていい。して欲しくない。こんな感情、わからなくていい。
「あの、綺麗な方ですよね」
「ん?」
 いきなり話が変わったので、ルキアは首を軽く傾げた。
「やはり貴族の方は、すごく華やかというか……」
「……」
「ルキア様の隣にいても、その、お似合いに見えるというか」
「……え?」
「私なんか、足元にも及ばない……」
 沈んでいく声にルキアはトリシアが惨めそうに顔を伏せるのが理解できていないようだった。
 トリシアは平民の出自だ。下町の西区の教会に捨てられた孤児でもある。彼女は世界最速の列車、弾丸ライナー『ブルー・パール号』の添乗員として働いていた時にルキアが見初めたのである。
 凝視してくるルキアは、むっ、とした。視線を逸らしていたトリシアはその様子に気づかなかった。
「トリシア」
「は、はい」
 言い聞かせるように、ルキアは声に力を込める。
「自分は、あなたのものですよ」
「…………」
「この身体も、心も、あなたのものです。誓いは破りません」
 トリシアの瞳が揺らいだ。
 囁くようにルキアは言う。
「――あなたの自由にしていいんですよ」
 妖艶に笑む彼のぞっとするような美貌に、トリシアは考えが完全に停止した――――。
 かちーんと固まってしまったトリシアは数十秒ほどそのままでいたが、はっ、と我に返った。
 え。いま、なんて?
 恐る恐る真上を見上げる。彼はまだ不敵に微笑んでいた。悪寒の走るような色香がある。
「え、あ、え? ええ!?」
 真っ赤になってしまうトリシアに、ルキアは続ける。
「不満ですか? さすがに命は帝国と皇帝に捧げているので差し上げられませんけど、ほかのものならいくらでも……」
 ゆっくりと唇が重なる。
 驚くトリシアの瞳が見開かれた。唇を割るように入ってくる生暖かいものに、彼女は抵抗できない。
 散々に甘い口付けを受けてから、トリシアはやっと呼吸できて「ぷはっ」と息を吐き出す。
「いくらでも、差し上げますよ。欲しいものがあるならどうぞ、遠慮なく」
「ほっ、欲しいもの!?」
「ええ。自分でも構いませんよ? どうしたいか言ってくれたら、その通りにしましょう」
「な、な、なあああっっ!」
 わなわなと真っ赤になって悲鳴をあげてしまう。とんでもないことを何をさらっと!
「なに言ってるんですか、ルキア様! 酔っ払ってます!?」
「酔っていませんよ。いたって正常だと思います。ああ、言っていませんでした。現在、自分はあなたに欲情していますよ」
「にこっ、じゃありませんよ! なに、なにを!」
「正直に言っただけですが」
「正直すぎるのも問題なんです!」
 もうやだ!
 顔を隠したい。恥ずかしい。それなのに、両手首を拘束されているので、隠すことができない。きっと今の自分はみっともない表情をしているはずだ。
「そ、そもそもキスしたいとか私、言ってません!」
「自分がしたかったので」
 さらりと言われてトリシアは唇をわななかせる。本当にこの人は、こんな自分のどこがいいのかわからない!
「っ、わ、わかりました! 言います! 理由をきちんと言いますから! で、ですから離れて!」
「あぁ、そうですね。言ってくれたら離れる約束でした」
 すんなり身を引くルキアの前で、トリシアは「ぜーぜー」と肩で息をするしかない。
「顔が赤いですよ、トリシア」
「放っておいてください! も、もう、心臓が……」
「心臓?」
「な、なんでもないです。うぅ、もういや……」
 げんなりするトリシアの前で、よくわかっていないルキアは微笑んだ。
「とりあえず、あの令嬢には早々に帰ってもらいましょう」
 トリシアの苦痛を取り除くことを第一に考えたら、結果はそうなる。とにかくあの娘は邪魔だ。
(……って、絶対に思ってる!)
 笑顔だが、うっすらとその感情がにじみ出ていた。以前はわからなかったことだ。
 彼はやはり、変わり始めている。
「い、いけませんよ! もっと丁寧に応対しなければ。ドゥーリアの家は上流貴族の中でも有名ですから」
「有名とか無名とかは関係ありません。年頃の娘がこんな時間にうろうろしているほうが問題です。早々にお引取り願いましょう」
 ルキアの言うことはもっともだった。
 それに、このままここに居させては逆にファルシオン家に迷惑がかかる。どんな些細なことでも口実にして攻撃してくるだろう。
「る、ルキア様、彼女を送っていってあげてください」
「…………」
「途中で事故に遭わないとも限らないですから。ね?」
「わかりました。トリシアの願いなら、聞き届けます。正直、彼女を送り届ける気は少しもなかったのですけどね」
 目を細めながら言うルキアは、トリシアを見遣って薄く笑った。
「でも、自分の『お願い』も叶えてくれると嬉しいのですが」
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