馬車に揺られて自宅へと戻ったルキアは、到着してから大きく身体を伸ばした。
「ありがとうございました」
御者に礼を述べて降りる。久々の我が家を眺め、ルキアはやっと戻ってきたことを実感した。
貴族の屋敷にしてはかなり小さなファルシオン邸では、ルキアと婚約中の娘と、ルキアの両親が暮らしている。この屋敷には、通常にはいるはずの使用人がいない。
雇うことを厭っているわけではない。単に必要としていないからだった。
平民が住むにはやや大きな建物は、母が望んでいたものだ。ルキアもそれに賛同した。広すぎても使わない家など、傷むだけで役に立たない。
のんびりと屋敷までの短い道を歩く。庭は邸と同じように広くない。庭園というには粗末なものだった。
季節の野菜が植えられた一角を眺め、ルキアは自然に微笑んでいた。父が愛情を込めて育てている家庭菜園だ。
ルキアは自分の家や家族が大事だった。けれども、それが世間一般とは違っていることもわかっている。
貴族たちはこぞって別荘や自宅を自慢し、広大な庭や、流行ものの衣服を見せ合った。ルキアはそういう集まりには極力出ないことにしている。
父から家督を受け継いだルキアがこの家の責任者となってはいる。父や母を嘲笑の場に出すのを良しとしなかったからだ。
家が小さいと、野菜を自宅で当主が栽培していると、ルキアは常に嘲笑われて過ごしてきた。それの何が悪いのか、不思議になるほどだった。
野菜は農民が育てるもので、貴族が栽培するものではない。家の大きさは貴族の威厳そのもの。
くだらないと吐き捨てる者も見てきたが、ルキアにはどちらも同じに思えたので同意はしなかった。ルキアに同意を求めてきた者たちは、同じ下級貴族の出自の者が多く、ルキアが頷かないと見ると貶して去っていった。
やはりおまえは軍の犬だ。
大勢の者たちに言われたセリフだった。
軍に所属することになったのは、政府側の決定だったのにも関わらず。そこにルキアの意志などはなく、ただ有効性だけを認められて彼は必然的に軍に就職することになったのに。
可哀想に。
年齢よりも幼く見られることが多かったルキアは、大人たちからそう言われては同情された。けれど同情される意味がよくわからなかった。
軍に入れば存分に力を活かせると聞いたので軍に所属することに文句を言わなかった。それが「かわいそう」だと思われることが、わからない。
ふと、歩いていた足を止める。ルキアは周囲を見回した。
太陽が沈みかけている空は薄紫に染まりかけている。
「…………」
おまえは変わらない。
憎しみのこもった声で言われたことを、思い出す。ルキアは悲しくなるが、涙はでない。
ルキアは『欠落者』。大きな魔力を持って生まれた反動からか、涙を流したことが今までなかった。どれだけ悲しもうとも、涙が流れたことがなかったのだ、あの時までは。
瞼を閉じる。
「変わらないものなど、ありません」
静かにそう呟いて、ルキアは大きく息を吸った。
そう、変化は誰にでもある。自分にもだ。
のんびりと歩き始めたルキアは、背後から忙しなく響く蹄の音に怪訝そうにする。来客の予定はないはずだが……。
そのまま立って、視線を動かす。物凄い勢いで駆けつけた馬車が急停止し、ドアがばんっ! と開かれる。中から現れたのは荘厳な美しい娘だった。真っ赤なドレス姿の彼女はルキアの姿を見つけてキッ、とまなじりをあげる。
はて。誰でしょう?
軽く首を傾げそうになったルキアの前までつかつかと歩いてくると、彼女は大きく手を振り上げた。
あ。叩かれる。
反射的にルキアは半歩だけ右足をさげ、身を軽く捩った。それだけで相手の攻撃をかわす。
振り下ろした掌の反動を受けて少女は勢いのまま、転倒しかける。ルキアが素早く手を出して、彼女の襟首を掴んだのだ。
「大丈夫ですか?」
ぱっと手を引っ込め、うかがう。
彼女は涙ぐみ、こちらを睨んできた。恨みを買うことも多いルキアとしては、そんな感情を向けられても平然とするしかない。
「なんで避けるのよ! 黙ってぶたれなさいよ!」
「……殴って気が済むのでしたら、どうぞ」
姿勢を正すルキアに少女は唖然とする。
笑顔のルキアを憎々しげに見つめると、彼女はドレスの埃を手で払った。
「いい度胸ね。さすがルキア=ファルシオンだわ」
「……」
「なんで黙ってるのよ。なんとか言いなさいよ!」
「いえ、どちらのご令嬢かと悩んでいました」
まったく見覚えがないので、ルキアとしては対処に困っていたのだ。
彼女はまなじりを吊り上げ、怒りを向けてくる。
「信じられない! 見合い相手の顔を忘れる!?」
「見合いをしたことは今まで一度もありません」
「う、ぐ」
怯む少女は、それでも足を踏ん張ってルキアに人差し指を突きつけてきた。形の良い指に、手入れされた爪だ。
「見合い写真に目は通していないの!」
「しておりません。受ける気がありませんでしたので」
正直に言うと彼女は目を見開き、怒りに顔を真っ赤にしていく。怒らせてしまったことにルキアは申し訳なくなった。
「失礼のないように謝罪文と一緒に返還したと思うのですが……」
「ふざけないで、ファルシオン少尉!」
「……ふざけてなどいませんが」
困った。
こんな時間に年頃の令嬢をうろうろさせておくわけにはいかない。
「もう日暮れですし、御用がおありなら改めて伺います。待たせている馬車にお戻りください」
泊まらせるというのは論外だった。ルキアは歩き出す。さらりと、突きつけられた指を無視して。
「用があるのよ! 今すぐね!」
「はぁ」
気のない返事をするルキアは「さてどうしたものか」と考えてしまう。
「では我が邸にお越しください。あ、御者の方も呼びましょう」
待たせているのも悪いだろうし、少しはもてなせると思ったのだが、余計に彼女の気に障ったらしい。
「そんなに早く帰って欲しいの!」
「当然です。若いご婦人がこんな時間に来訪するのは、誤解を招きますよ」
「……理由が知りたいの。知ったら大人しく帰るわ」
静かに言われてルキアはよくわからなかったが「どうぞ」と促した。
「なぜいい縁談がたくさんあったのに、平民の、しかも孤児だった娘を娶ろうとしているの、ファルシオン少尉!?」
「彼女を愛してしまったからですが」
平然、と。
ルキアがそう言い放ったので、令嬢はあんぐりと口を開けた。あまりにも予想外の答えだったのだろう。
彼女はみるみる顔を赤くすると、人差し指をルキアのほうへびしっ! と向けた。ひとに指を向けてはならないとこの人物は習わなかったのだろうか……。
「いいじゃない! その女の顔を見てやろうじゃないの!」
「はぁ……。彼女に用件なのでしょうか」
あちこちに話が飛ぶのでルキアとしては対処に困る。
「でしたらどうぞ」
屋敷に向けて歩き出したルキアを、彼女は凝視してきた。
「よほど自信があるのね! いいわ、私以上の美人でも、才女でも負けないわよ!」
負ける?
(この方はなにかの勝負をしているのでしょうか)
まあいい。さっさと用件を終わらせてもらって、帰ってもらおう。