「ヨミだ」
名乗った青年に、亜子は心底驚く。そして彼が難しい表情なのに気づいた。
(なんか眉間に皺が寄ってる)
「アガット。アガット=コナー。それが今のあたしの名前」
「そうか」
どうして亜子を殺すのをやめたのか、彼は明白にはしない。もともと口数が少ない男なのだろう。
弟をトリッパーに殺されたというのなら、トリッパーを憎む彼の気持ちもわからないでもない。同時に、それが虚しいことだとも亜子は理解していた。
おそらくヨミは本能で理解しているからこそ、トリッパーを延々と憎み続けているのだ。憎しみが消えた先に、なにも残っていないことに彼は気づいているのだろう。
(やることが終わったら、どうしようかって迷うもんね、ふつう)
だから彼は希少種のトリッパーを殺すという道を選んだのだろう。そうすれば、そう易々と見つからない相手のために自分の人生の大半は使い果たされる。
亜子はこの世界に来て、半ば自棄になっていたところもある。いわれのない迫害を受けねばならず、命を狙われる危険な人生を、誰が喜ぶものか。
しかしどうして時分はここに残ることにしたのだろう? シャルルやマーテットはおそらく無事だ。奇襲は失敗したらしいから、王宮は無事だと思う。
慌しく逃げていく者たちを、ヨミと二人で並んで眺めていると、ふいにぞくりと悪寒がした。
ばたばたと逃げていく足音が去ってから、亜子は背後を振り返った。すっかり夜になっている。亜子の瞳が金色に変わる。
闇を見通す彼女の瞳が、異形の姿の男の来訪を告げていた。
(そうか)
亜子はそこでわかった。
ああ、そうだ。そうだったのか!
ちらりと横のヨミを見る。彼はまだ気づいていない。
(この人が、悪い人じゃないから……)
ラグを助けたヨミは、べつに好んでトリッパーを殺していたのではないのだ。ただ、どうしようもない悲しみに囚われているだけなのだ。
救えるなんて思えない。まして、彼も救われたいとは思っていない。
だけど。
亜子は静かに身体の向きを変えた。
(同じトリッパーとして、あたしは、あの男を赦しちゃいけないんだ、きっと)
放っておけばいい。逃げればいい。それは簡単なことだ。そして、それは決して間違ってはいない。
ハルは言った。
覚悟をもてと。
(敵は、なにもこの世界の人だけじゃない)
同じ日本にだって、『敵』はいくらでもいるじゃないか。
自分に害を成す者、それらがすべて、『敵』だ。その認識で間違ってはいない。和睦できればすればいい。けれど、それも叶わぬ相手がいることを忘れてはならない。
タツが笑うのがみえる。牙をむき、フードの下からは荒い吐息すら聞こえてきている。
この男はここで殺す。
そうしなければ、自分が死ぬ。
直感で理解していた亜子は、ざわり、と震えた。同時に髪の色が変わる。彼女はフードをばさりと後方へと遣った。
「アガッ……」
呼びかけたヨミも、タツに気づいたようだ。
タツは暗がりの森の奥から、地響きのような低い声で甘く言う。
「かくれんぼは楽しんだか?」
「――死ね」
ヨミよりも早くそこから動いたのは、亜子だった。
*
一瞬で姿が消えたかのように見えた亜子は、タツとの距離をあっという間に詰めていた。
(動きの速さが圧倒的に違う)
昼間よりもさらに体躯が大きくなっているタツは、異能を使っているのだろう。だが動きが愚鈍だ。
「子猫が生意気な」
タツがせせら笑う。戦いの慣れが、違いすぎることからくる慢心だった。
亜子はタツの伸ばす手をすべてかいくぐり、目玉を狙って鋭い爪で攻撃している。耳を吹き飛ばすと、さすがにタツも顔色が変わった。
「おまえは捕まえて、散々いたぶってから少しずつ殺してやる」
ひと睨みしただけで、亜子は応えない。
タツが深呼吸をした。それだけで、盛り上がってきた胸筋がさらに膨れ上がったような気がする。
呆然としていたヨミは、トンファーを取り出して構える。
どちらも、憎いトリッパーだ。
潰し合ってくれるならそれでいい。それで……。
ぶんっ、とタツが放った枝がこちらに向かってくる。慌ててそれを払おうとするが、なんだか腕が重くてあがらない。
そんな彼の眼前に、一瞬で亜子が現れて、腕で枝を叩き落す。痛みに彼女は顔をしかめるが、そのまま何も言わずにまた戦いに戻っていく。
かばわれ、た?
「種族なんて関係ない」
亜子はそう言っていた。こだわり続けていた自分が、みじめだった。
ヨミは獣の咆哮を聞いた。とうとう亜子が捕まった。彼女の腕が一瞬で潰される。悲鳴をあげる彼女の声に、ヨミはラグの姿を思い出す。
誇り高きデュラハの戦士が、なにを立ち止まっている?
すぅ、と息を吸い込む。
ヨミは歩き出した。
そんなヨミを、愉快そうにタツは見ている。ぎらぎらした獣の瞳で。
ヨミは静かに告げる。
「ツェヨミド=カティ。これから――――」
アメジスト色の隻眼が、殺意で染まる。
「おまえを殺す男の名だ」
***
本土に渡ったヨミたち兄弟は、まずは帝都へ行く列車に乗り込まねばならなかった。
お互いに13歳になった今、将来への夢や希望にあふれていた。
だが、運が悪かったのだ。
小船で降り立った土地には小さな集落があった。荒野ではそういう集落は多い。
だが、そこは殺戮の場と成り果てていたのだ。
暴れているのは大男だった。いや、あれは人間ではない。
まるで雄牛だ。頭の上に鋭い角を生やし、二本足で歩いているが、とても人間とは思えぬほど大きい。
たくましい腕には3人の女が抱かれ、悲鳴をあげている。泣いている女の首を、残っている右手で軽くひねると、首が簡単にとれた。
「ヒッ!」
残った女は、殺された女の首から噴き出る鮮血に意識を失ってしまった。
阿鼻叫喚の図だった。
次から次へと、立ち向かう男たちは殺されていった。
戦いの神・デュラハを祖先とするヨミたち兄弟は、それを黙ってみていられなかった。勇敢な弟は持っていた弓で異形の目を狙った。だがその矢は叩き落とされる。
完全に劣勢だった。
弟と二人がかりでなんとか倒せたと、あとからヨミは思う。
だがことはそんな簡単なことではなかった。
弟が、男に踏み潰されている瞬間にヨミは喉を鋭い剣で掻き斬ったのだ。
弟を囮にして得た勝利だった。
助けを求めていた弟は、助からないのがわかっていた。四肢を引きちぎられ、大量に血を出していたのだ。それを、あの男は……。
倒れた異形の男はもとの姿に戻った。顔面はどす黒くなっており、死んでいるものと思われた。
足元から無残な姿になった弟を引っ張り出し、ヨミは泣いた。大声で、喉も嗄れんばかりに泣いた。
すでに人の姿すら留めていなかった弟の無残な遺骸を埋め、ヨミは誓ったのだ。
あの異形のものの正体を突き止めてやると。そして、人々の生活を脅かすやつらを、殲滅してやると。
成長した今、ヨミはタツの名を探り当て、トリッパーを捕らえるギルドへと所属した。そして技を磨き、トリッパーを殺すすべを学んだ。
だから、殺せる。
殺してみせる。
タツは亜子を放り投げた。彼女はどさりとどこか近くに落ちたようだ。
異能が発動しているならば、亜子は回復していくはずだ。集中、しろ。
トンファーを構えたヨミを、タツは面白そうに見下ろす。
「あの時みたいに誰かを囮にはできないぞ」
その軽口は、ヨミが素早く打ち込んだ一撃で、消される。
ヨミは小さく言う。
「無駄口を叩いている暇があるのか」
目を細めたセイオンの青年に、タツの怒気が膨れ上がる。
「思い上がるなよ! 異界人!」
「それはこちらのセリフだ」
長時間、タツと戦うのは不利だ。急所を狙ってトンファーを打ち込み、そのたびにタツは弱っていくが、時間がかかればまた勢いを取り戻していく。
まるで回復しているかのよ、う……。
そうか。
(こいつも、回復能力を持っているのか!)
ならばあの時、放置して去ったのがあだとなったわけだ。
一撃一撃の重さはかなりこちらに響くが、それだけだ。力をうまく流せば、さほど脅威とはならない。
その時だ。
木立の間から細長いものが鋭く伸びて、タツの左目を抉った。
悲鳴をあげるタツに驚き、ヨミはそれが爪であることを知り、視線を動かす。
立ち上がった亜子は、潰された左腕をだらんとさげたまま、右手を伸ばしていた。続けて彼女はブン! っと勢いよく腕を振った。その拍子に、タツの右目までもが一緒に抉られていく。
視覚を失ったタツはおおいに憤り、その場で地を揺らすほど何度も足踏みをした。
「殺してやるぞ! 女っ! おまえはどれほど泣こうと、喚こうと……っ」
「うるさいっ」
亜子がよろめきながら走ってくる。彼女は怒りに我を忘れているようだった。
「うるさいうるさいうるさいうるさい! 命令するな、命令するな、命令するな!」
ふらつきながらも迫ってくる亜子は爛々と輝く黄金の瞳でタツを見ていた。ぞっとするほど、美しい。
跳躍して、蹴りを放つものの、強靭なタツの肉体の前で逆に亜子の足のほうが折れた。しかし彼女はすぐに折れた足をひきずって立ち上がる。
焦点の定まっていない瞳で、彼女は呟き続けている。
「あたしには、あたしには、あたしには、もう、なにも――――ない」
亜子を捕まえようと身を捻ったタツの頭蓋が、粉みじんになる。ヨミが渾身の力を込めてトンファーを振るったのだ。
「あ、がぁ、は」
奇妙な声を洩らしながら、血と、様々なものを撒き散らしてタツの巨体が地に倒れる。
しかしヨミは容赦しなかった。腰につけていた小袋を取り出して、中に入っていたらしい液体をタツの身体に振り掛けた。
すぐさま火打石のようなもので、火をつけて、タツの身体を燃やした。
めらめらと燃えていくそれを見ていた亜子が、ふ、とその場に座り込む。崩れ落ちた、という表現のほうが合っている気がした。
「いたい」
ぽつんと洩らした亜子は、まだ瞳が定まっていない。
ヨミはどうするべきかと悩み、彼女に近づいた。泣いているかと思ったが、そうではなかった。
燃える炎を前に、亜子の肉体は回復へと力を注いでいるようだったが、へし折れた足はともかく、握りつぶされた右腕はかなり損傷がひどかった。
手当てをしてやると、亜子はぶつぶつとなにか呟いていた。
「なんで生きてるんだろ……あたし。なんでこんなに、あっさり死ぬのに」
包帯を巻く手を、ヨミは一瞬止めるがすぐに再開する。亜子の疑問は誰もがもっているもので、そして……生きる目的がない者がよく口にする言葉だった。
生きることに執着する者は惰弱だと罵ることだろうが、ヨミはそう思わない。
意識を失う前に、亜子は小さく笑ったのだ。
「ありがとう、ヨミ」
ヨミは悟った。この女は、助からない……。