Barkarole! ノッカーズヘブン12

 不快なことを相談されている。捕まえたトリッパーの小娘をどうするのかという話も聞こえた。
 あの男に渡すべきだ、と小さな声もした。あの男、というのはおそらく目の前にいる、隻眼の傭兵のことだろう。
 それを一蹴したのは、巨体の男の声。
 周到に魔術で罠を用意したのに、連れて帰らなくてどうする、と言っている。
 待ち受けているのは、どちらにせよ最悪だ。
 拷問と死。どちらに転んでも、結果は同じなのだ。
 涙が出そうになる。こんな狭いところに閉じ込められ、縄までかけられ。
 怖くて、辛くて、ひどく、気分が。
 でも泣きたくない。泣かないと決めたのだ。それに、自分を殺そうとしている男の前で、無様に泣きたくはなかった。
 ラグが無事だとわかっただけでもよかった。彼のことだから、必死に亜子を探しているかもしれない。
 もういい。
 亜子はぼんやりとそう思ってしまう。
 どうせ――無駄だったのだ。
 抵抗したって。
 なにをしたって。
 がんばったって。
 無駄なのだ。
 地学者となっても、待ち受けているのは今の状況とそう変わらないものだ。今のこの状況は、いつでも起こりうるものだからだ。
 だから覚悟を。
 覚悟をもてと。
 ハルはあれだけ真摯に言っていたし、わかっていたつもりだったのに。
(……王宮に仕掛けるって……本当に戦争が始まるんだ……)
 シャルルやマーテットの顔が浮かんだ。優しいあの人たちに万一のことがあったらどうしよう?
 隻眼の傭兵は不可解な視線をずっと亜子に向けている。異種族に遺恨がないのか、とそう言いそうな瞳だ。
 亜子が苦手としているのは、平気で暴力を振るったあの巨体の男と、目の前のこの男だ。それ以外の人々は、みんな優しかった。
 もちろん、世界の人々のほとんどが優しいわけではないことも知っている。どんなに優しくても、突然豹変する人だっている。
 けれども「優しさ」に、与えられたその気持ちに、なんとか恩返しをしたいと思ってしまうのは悪いことなのだろうか?
 しかし、その思いは空しい。
 己の無力さだけを痛感するだけだ。悔しい気持ちも起こらない。
 視界が薄暗くなる。ああ、なんだろうこの気持ちは。
 手に持った大事な大事な……。でも、目の前に広がる白い掲示板には、その番号がない。
 どこを探してもない。悪夢だ。
 そう、あれは悪夢。現実じゃない。
 ぎゅっと瞼を閉じて、夢を追い払う。
(決意したのに)
 簡単に、挫けてしまう。なんて、弱いんだろう。
 悔しくて。でも悔しい気持ちもそれほど持続しなくて。
 結局、どうしたらいいのか亜子はわからなくなってぼんやりと耳を澄ましていた。
 男たちの会話が聞こえる。
 王宮にどこかの国が攻撃を仕掛けること。それが成功すれば、ここも無事に済まないこと。
 そこでふと、亜子は気づいて体を少しだけ起き上がらせる。
(王宮?)
 それは、皇族が住む場所だ。シャルルは別邸にいるかもしれないが……もしかして、万が一。
 ざっ、と血の気が引いた。
 皇帝の直属部隊である『ヤト』は迎撃に出るだろう。そこには……。
(殿下……マーテットさん……)
 あの二人が、危険、だ。
 先ほども同じことを思ったのに、はっきりと認識していなかった。そのことに至って、亜子は後ろ手に縛られている縄を無理やりほどこうと力をこめた。
「ぐ、ぐぐっ」
 歯軋りしながら力を込めるが、まったく外れない。もっとだ。もっと、もっと力をこめて!
「ん……っ!」
 手首にかけられた縄は頑丈だ。どんな結び方をしたらこうなるのだろう?
「おい、よせ」
 短く、隻眼の傭兵が声をかけてきた。けれど亜子は無視をする。
 あの人たちが危険な目に遭う。それを回避しなければ。
 必死になってやっていたら、いきなり腕を押さえられた。
「それ以上やったら手首が折れる」
「?」
 なにを言われたのか、亜子は瞬時には理解できなかった。
 折れる、って……なにが?
 怪訝な表情をしていたのだろう。隻眼の青年は、無表情のままではあるが、若干渋い色を少し浮かべる。
「逃げ出してどうする?」
 尋ねられ、亜子は彼を睨んだ。
「王宮に知らせに行く」
「……? フン。平民が王宮に近づけるわけがなかろう」
「それは……」
「それに、おまえ一人が知らせたところで、事態はなにも変わらぬ」
 淡々と言われてしまう。そのとおりだった。
 大きな流れの前では、どれだけ足掻いても変わりはしないのだ。そのことを、亜子はよくわかっているつもりだ。
 どれだけ頑張っても、結果がすべて。
 そこまで考えて、亜子は首を振る。
 違う。
 違う!
(諦めちゃだめだ! 殿下やマーテットさんの無事を、少しでもあの人たちの無事を、その確率をあげるんだ)
 ではどうする?
 亜子はぎょろりと視線を動かした。唐突に彼女が表情を変えたので、青年は怪訝そうにする。
 耳を澄ます。王宮に攻める部隊は爆薬を所持しているらしい。
(だめだ……。あたしの異能でどうこうできる問題じゃない)
 では次だ。話の断片から、自分で対応できることを探す。上にいる男たちは、手引きするグループの一つだということはわかった。
 下町に幾つかそのグループが潜伏していて、城下町やこの帝都が混乱に陥った時のことを相談していた。
 おそらく、もしも本当に戦争が始まるというのならば。
(略奪が、はじまる)
 騒ぎに乗じて、この人たちは何をする気なのだろう?
 そこだ。亜子はそこが知りたかった。
 会話の端々から、徐々に輪郭がつかめてくる。騒ぎを、起こすのだ。陽動? それとも……。
 どちらにせよ、いくら帝都駅周辺から距離があるとはいえ、王宮が攻撃されたならば知らせはすぐに広まるだろう。
 その騒ぎを煽り、城下を混乱させる? なんだかしっくりした。
「でも、話によると紫電のルキアが帰還してるらしいじゃないか」
 聞こえた言葉に、亜子は目を瞠る。ルキアの存在はかなり恐れられているようだ。
 だが巨体の男は嘲笑っただけだ。
「天才だなんだと言われてるが、しょせんは一介の魔術師だろう? どうにもできんさ。くくっ、そもそも使う爆薬は……」
 言われたことに、亜子は最初理解が追いつかなかった。
 そして、聞いたことを信じたくなかった。
「……っ」
 吐き気に襲われ、亜子はうめく。堪えたいところだが、両手首は縛られているためにそれができない。歯を食いしばるが、それでも強烈な吐き気はおさまらない。
「なにを聞いた?」
 冷徹な青年の声音に、亜子は首をゆるく左右に振る。青年はなにかを考えたようだが亜子の背後にまわる。
 なにをされるのかと亜子は警戒したが、手首の縄を解かれただけだった。驚いて青年を見遣りながら、上半身を起き上がらせると、彼は元の位置に戻った。
「深呼吸し、息を整え、聞いたことを話せ」
「…………」
 呆然とする亜子は言われたように何度か呼吸を深く繰り返した。なんとか吐き気もおさまってくると、どうしたものかと考えてしまう。
 縄を解いてくれたからといって、彼は亜子をここから逃がす気はないようだ。
 それに。
(あの男もトリッパー。どういう異能があるかはわからないけど、こちらの会話が筒抜けになる可能性もある)
 亜子は慎重に天井を見上げる。すると青年が意図を察したのか、ふところからペンと手帳を出してきた。ぼろぼろの手帳の、白い部分を開いてみせ、そこに文字を書いていく。
『筆談のほうが得策か?』
 こくりと亜子が頷くと、彼はペンと手帳を渡してきた。手が触れそうになるが、青年はうまくかわす。彼は本当にトリッパーを嫌っているのだ。
 亜子はさらさらとペンを走らせる。まとまりのない文章になってしまったが、これで伝わるだろうか?
『王宮に攻め入る手引きをする集団がいくつかある。上にいる人たちはそのひとつ。騒ぎを大きくすることが目的』
 端的に書いた内容を見せると、青年が手帳とペンを亜子からさっと取り上げた。彼はなにか考えるようにじっと文面を見つめる。
 汚い字、だっただろうか? それとも、こちらでは使われない文字が入っていたのだろうか?
 不安そうにする亜子の前で、彼はなにか決意したように唇の前に人差し指を立てた。静かに、という合図だ。亜子は頷く。
 彼は手帳にペンを走らせた。
『私は無闇に戦乱の種をまかれては困る。王宮は軍がいるからなんとかなるが、城下に不安をまく者はどうすることもできない』
 しかし、と文字が続いていた。亜子は驚きに目を見開く。
『現段階、城下は落ち着いている。とても戦が起こるとは市民は思っていない』
 確かにそのとおりだ。亜子が滞在していた下町でも、酒場でも、誰一人、開戦に関して噂している者はいなかった。遠いところから来たハルたち以外は。
(つまり、噂は帝都まで届いていない、ということ?)
『意図的に、その情報は伏せられていると考えられる。軍か、皇族が関わっているとみていい。彼らが動くのは、王宮侵攻がある程度成功してからとみて間違いない』
 彼ら、というのは……。
 亜子は天井に視線を走らせた。つまり、今のあの者たちは動きようがないのだ。
 王宮への侵攻を失敗させればいい。ではどうすればいいのだろうか。
 悩む亜子に、青年は無表情を崩さずにさらさらと文字を続けて書いた。
『上にはタツがいる』
 タツ?
『形勢は不利だ。おまえが異能で対抗しようとも、やつの戦闘能力を上回っているとは思えぬ』
 その文面から、タツ、というのがあの熊のような男のことだとわかった。亜子は慎重に頷いた。
 自分の能力では、あの男を倒すことはできない。では……。
(この人なら、どうなんだろう?)
 勝てる? いや、そうは思えなかった。
『あの男がいない隙を狙う。それならば、なんとかなるだろう』
 そこまで書いて、手帳をおさめようとした青年に、亜子は手を伸ばした。手帳を受け取り、書き連ねていく。
『トリッパーは夜になると活性化するひとが多い。なるべく昼間に決着をつけたい』
 戦うしかないのだ。そう決意をこめて、手帳を返す。
 彼はさもわかっていたかのようになんの反応も示さず、手帳をふところにおさめた。
 夜になれば亜子の戦闘能力は昼間よりは幾分かあがる。だがタツも同様だろう。凶暴性の増す異能ならば、勝ち目はない。

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