縛り上げられ、地下の狭い部屋に転がされている亜子を、ヨミは眺めていた。
ここは家屋の地下に作られた、狭い部屋だ。火事などにあった際、咄嗟に逃げ込めるように作られたもののようだ。見た目はぼろい家だが、ただのぼろ屋ではなかったようだ。
亜子は痛みに小さく声を何度かあげている。縛られたところも食い込むのだろうが、そのたびに髪の色が赤に染まる。すると、彼女の怪我が治癒されていく。
その繰り返しだ。
完全な暗闇ではない。ランプをもらっているので、灯りはそれだけだ。
時間の感覚が麻痺していなければ、今は昼を回ったところだろう。ヨミは耳を澄まし、上にいる連中の会話を盗み聞きしていた。
しかし明確には聞き取れない。
面倒なことになった。なぜ、自分はこんなことをしているのだろう? わけが、わからない。ただ予言者の言葉が気になったのだ。
亜子がうっすらと瞳を開ける。ぼんやりとした金色から、茶色のものに戻っていく。そして彼女はなんとか焦点を合わせようと瞼を閉じたり開いたりしていた。
しかしどうにも視界がうまく働かないのか、彼女は小さく息を吐き出して瞳の色を金へと変色させた。夜の中の瞳だ。
再び何度か瞬きを繰り返していた亜子は、ランプの光に気づいて元の瞳の色へと戻す。そして傍にいたヨミの存在にやっと気づいたようだ。
彼女は恐怖に怯えたように目を見開き、それから己の自由がきかないことに絶望したようだ。
黙ったまま、視線を動かして周囲を観察する。ヨミのことを見ないようにしているのだけはわかった。
かなりきつく縛られている亜子を、ヨミは助けてやる気もなかった。会話をする気も。
逃げられないと諦めたのか、亜子は視線を泳がすのをやめて、床を凝視している。やがて彼女はぴくん、と動いた。神経質そうにぴりぴりとした空気をかもし出す。
「……侵攻?」
呟いた彼女の言葉に、ヨミは「ああ」と内心で納得してしまう。彼女はトリッパー。異能者だ。そしてその五感は、かなり優れたものになっているはずだ。
起き上がろうと身をよじるがそれもできず、亜子は不愉快そうに眉をひそめた。
上の者たちの会話を彼女は正確に聞き取っているのだろう。徐々に不安と不愉快さが混ざったような、微妙な顔色になる。
突如、彼女はびくりと大きく反応した。次の瞬間、この部屋の唯一の出入り口である扉が開かれる。
天井に備わった扉は両開きとなっていて、いかにも物入れです、と主張しているようだ。開いたところから覗いているのは、あの男だ。巨体の、トリッパー。
亜子は逃げようとするように必死に体をくねらせる。男はその様子を見て哄笑する。
さすがに、目に余る。
「おい」
声を低く出したヨミに、男が不思議そうな顔つきになった。
すくりと立ち上がったヨミは、いいやヨミの頭は天井に届きそうだ。それほどまでに、この地下室は狭い。
真っ直ぐに男を見るヨミの瞳は憎悪に染まっていた。そうだ。憎悪だ。ヨミの心のほとんどは、憎悪に支配されているのだ。
笑いを止めた男を、ヨミは半眼で見た。名前など、知りたくもない。呼びたくもない。殺してしまいたいのを、かろうじて堪えているのだ。これ以上、不愉快な行動をされると、自分がどうなるかわからない。
亜子は驚いたようにヨミを見上げている。彼女からすれば、ヨミが庇ったようにみえたかもしれない。勘違いも、はなはだしい。
「なあに、移動するってことを伝えようとしただけだ」
「移動、だと?」
「まあ色々とな」
わざと含んだ言い方をするのも気に入らない。
男は亜子を見る。その目つきが、明らかに異常だ。
殺すつもりか、犯すつもりか。そのどちらもどうでもいいことだが、ヨミとしては、獲物を奪われるのを避ける形でここに居るのだ。あくまでその主張を続けなければならないだろう。
「この女も移動させるのか」
「当然だろ? 数少ない、人型を維持したトリッパーの女だ」
「『咎人の楽園』に引き渡せ」
「寄越せと言われてもなあ」
顎に手を遣りつつ、男は薄く笑う。しかしヨミの表情はまったく動かない。
そう、ヨミの心は憎悪の炎に今も焼かれている。だが凍てついているのと、いったいどんな差があるだろう?
「捕まえたのは、」
「おまえが捕まえたから、所有権はおまえにあると? 話にならぬ」
ヨミが吐き捨てるように呟く。
「もとより、おまえたちは我々と協定を結んでいるのではないのか? 敵にすると?」
「おまえ個人なら、今すぐ殺してもいい。
……だが、まあ殺せない理由があるのをわかってて言っているんだろう、小僧」
おそらく、この男の与している組織に情報を流し、色々と手助けをしているのは『咎人の楽園』だろう。都合が良かったからそこに所属していたが、今後は身の振り方を考えなければならない。
なにかの取引を、おこなったはずだ。
それが「何」なにかはヨミにはわからない。だがハッタリを続けなければ、亜子の身はかなり危険だった。
黙っているヨミに、男はまた小さく笑い、それから言う。
「なあに、王宮に攻め入る連中の動向を見計らって、おれたちは脱出するって寸法だ」
「退路、ということか」
「そのとおり。この国に本気で攻め入って勝てるわけがないからな」
男の言っていることはもっともだった。ヨミの脳裏をかすめるのは、噴水前で賭けをした、あの少年軍人の姿だった。
彼らはわかっていない。あの少年が帝国のものである限り、勝算など存在しないのだ。
(そもそもなぜ、今の時期に帝国の、しかも王都に攻め入る必要がある?)
そこまで考えて、合点がいった。この国に攻め入るもっとも有力な理由を持っているのは……ひとつ。蓮国だ。
第一皇子の婚約者がいる蓮国が攻め入る理由は、婚約者である第一公女を救うためだろう。あの国は、とにかく絆が強い。
しかし勝算もなしに攻め込んではこないはずだ。その裏にはなにかある。
(他国も絡んでいるとみていい)
この男は、奉国に流れ着いたはず。ではそこも加担しているに違いない。
たった2つの国で帝国に敵うわけもない。蓮国を動かすには、もっと力が必要だ。どれだけの方法を使ってかの国を煽ったか知らないが、ヨミは憎々しい。
蓮国は勝てると思って攻め込んでいる。いや、勝つ必要はないのかもしれない。公女を救いさえすれば、いいのかもしれない。
敵国を招き入れたのは、『咎人の楽園』だろう。ヨミの知らない、ギルドの何人かが手を組んでいたはず。
(ああ、そうか)
唐突にヨミは閃いた。
なぜ『咎人の楽園』がそんなことをしているのか。
利益はきっとあるのだ。なにかで取引をしたに違いないのだから。
でも。本当は。
(予言者)
あの中年のトリッパーがいらぬことを言ったに違いない。誰かに。
予言は10割当たる。違えぬことの未来だからこそ、聞いた『誰か』は行動に移した。そこに己の益を見つけたからだろう。
王宮を囲んでいる森は火事になる。それは侵攻の証。
皇族がどうなろうが知ったことではないが、ヨミは同胞の死だけは、免れたかった。そう――過ちを繰り返したくない、ただそれだけのために。
ヨミは目下の敵である、トリッパーの男を静かに睨んだ。
男は鼻を鳴らして扉を閉じる。再び室内はランプの明かりだけとなった。
ここから移動するまで時間はそうないだろう。上にいる連中どもが何を考えて蓮国に加担しているのかはわからない。わかる必要はないだろう。それは、政に関わっている者が知っていればいいだけのことなのだから。
視線を感じ、ヨミは仕方なくそちらを見遣る。
不思議そうにしている亜子は、なにかを決意したような顔をした。
「……あなたは、閉じ込められているわけじゃない」
応じる必要はなかった。ヨミは無言で見返す。彼女はそれを肯定と受け取ったようだ。
「なんで、あたしの傍にいるの? 嫌い……なんでしょう? トリッパーのこと」
ああ、嫌いだ。大嫌いだ。存在そのものが、不愉快で、苛立ってならない。
彼女は薄く笑った。
「殺せばいいのに」
その自棄になったような声音に、やはり頭上の男たちがなにを話していたのかだいたい想像がついた。
殺されたほうがましだ、そう思ってしまったのだろう。確かに、死んだほうが楽な時もある。
彼女は目を伏せ、それから尋ねた。
「ラグさんは、無事……?」
護衛とした雇った傭兵を気にかけているなど、思ってもみなかった。ヨミは心底驚いた。
「無事だ」
短く告げると、彼女は安堵したように息を吐き出す。亜子は「よかったぁ」と呟きを洩らした。
不可解だった。
「たかだか護衛のことを気にかけるのか?」
問いかけに、亜子は律儀に口を開いた。このトリッパーは頭があまり良くないのかもしれない。
「雇ったとしても、心配しない理由にはならない」
「?」
人間のようなことを言う。
そんなふうに思い、ヨミは軽く首を傾げた。
「おまえにとっては異種族だろう? なぜ気にかける?」
「そんなの、関係ない」
悔しそうに言う亜子の心情は理解できない。関係ないだと? 関係はおおありだ。
ヨミは屈み、座った。足元に、亜子の顔がある。
「おまえたちトリッパーはこの世界で迫害される存在だ。それなのに、異種族に情を傾けるだと?」
迫害という言葉に亜子は目を見開き、こちらを睨んでくる。
「種族は、関係ない……!」
まるで言い聞かせるような声音。
上のほうで、足音が頻繁にするようになった。亜子はうろんに見上げて、それから眉根を寄せた。
「あなたなら、あの人たちの言っていることがわかる?」
確認のための言葉だ。亜子はトリッパー。異世界から来た彼女では、わからないことも多いのだろう。
ヨミは黙ったままだ。
だからかもしれない、亜子は静かに、完全に沈黙してしまった。