Barkarole! ノッカーズヘブン10

 使い古した本と地図。真新しい地図をもちろん亜子は持っているが、ハルから譲ってもらったそれらを大事に抱いてアルミウェンへと向かっていた。
 ハルは必要最低限なことを手帳に書いてくれて、それも譲ってくれた。ありがたい限りだった。
 夜が明けてから宿を出たが、連絡もせずに戻らなかったので、クイントは心配しているだろうか?
 色々なことを、急がねばならない。
 ハルの話では、この帝都は近々、戦火に巻き込まれるかもしれないのだ。
 知り合いの軍人に知らせれば打開できるかもしれないと言いながらも、ハルは微妙な顔をしていた。
 戦争。
 亜子の世界でも無縁ではなかった言葉だが、それは日本では過去のこととして扱うことが多かった。
 だが『過去』ではない。『現在』なのだ。ここでも、そして本当は、地球でも。
 走る速度を合わせてくれているラグはこちらをちらちらと振り返ってきていた。大丈夫だと微笑むが、やはり心配なのは隠しようがなかった。
 ラグに戦う方法を教えてもらっても役に立たない。だけど亜子の異能は他の誰も持っていないものだ。そんなものを、どうやって使いこなせというのか。
 ちかちかと、瞳の奥で何かが光る。
 いやそれは。
 亜子は本能的な恐怖を感じて、ゆっくりと背後を振り返った。あ、あ、あ……。
「ラグさん、にげてっ!」
 短い悲鳴のようなそれと同時に亜子は向きを変えた。来た方向に戻ったのだ。
 ハルから受け取った大事なものを宙に放り出し、全速力で、全力で駆けた。
 向かってくる大男は亜子しか見ていない。戦車のようにやって来る男のフードの奥の瞳は爛々と輝いている。
 ラグが気づかないはずがない。ならば。
(異能!)
 コイツは、『トリッパー』だ!
 夜明けと共にやって来るであろうことを予想して、この男はひと気のないこの道を見張っていたのだ。
 異能者の戦いにラグを巻き込んではいけない。
 亜子は直感的にそう感じた。相手はどんな力を使うかわからないのだ。
 潜んでいたとしても、亜子が気づいて、ラグが気づかないはずがないのだ!
 武器も何もない亜子にできるのは、自身の肉体をフル稼働させてラグが逃げる時間を稼ぐことしかない。
 こわい。
 走りながらフードが脱げる。
 こわい。
 髪が赤色に染まっていく。朝日が髪に反射した。
 こわい。
 だけど。
 これから立ち向かうことの一歩なのだ。その一歩目なのだ。挫けていては、きっと、きっと!
 ラグが追ってくる気配がない。どうして。
 振り返る時間などない。
 迫り来る敵に、亜子は足が震えるのを止められなかった。



 消えた。
 その光景はまさしくその表現がぴったりだった。
 違う。
 即座にヨミは否定した。
(結界……! 魔術か!)
 護衛のラグに気づかれないということは、かなり用意周到なものに違いない。
 ラグは仰天して足を止めているが、ヨミはそうではなかった。彼は屋根の上に居たからだ。
 待ち構えていたのは何もあの男だけではない。ヨミもだ。
 よってたかって皆があの娘を守ろうとする。その価値を確かめようと思ったのだ。
 すたん、と地上に降りて呆然としているラグにヨミは近づく。彼はハッとしてこちらを振り向いた。そして睨んでくる。
「私ではない」
 短く否定してから、それから瞳を凝らす。アメジストのようなヨミの瞳は、『咎人の楽園』で培った経験が活かされて魔術を多少宿している。
 うっすらと陽炎のように揺れる光景の中、亜子があの男と戦闘しているのが見えた。
 無様、だった。
 思わず顔をしかめてしまう。
 一方的に嬲られる亜子の姿に、さすがに気分が悪くなった。
 戦力に差がありすぎる。
 亜子は致命傷をかろうじて免れ、そして幾度と壁に叩きつけられていた。細い足を片手で掴まれ、ぶんぶんとおもちゃのように振り回されている。
 チッ、と舌打ちしたことに気づかなかった。
 ヨミは結界の中に足を踏み入れていた。これで完全に外界からは遮断されてしまったはずだ。なにせ、ヨミは魔術師ではない。この結界に入ることはできても、出ることはできないのだ。
 ある程度の距離まで詰めて、ヨミはすぅ、と両足を開いた。攻撃の体勢に入ったのだ。
 間合いはまだ遠い。しかし一瞬で詰めることが、あの男にはできるだろう。
 男はヨミの姿に気づき、笑う。
「こんなところになんの用だ? もう帝都を離れたかと思っていたが」
「その女は私の獲物だ」
 ヨミが指差した亜子はだらんとしている。意識がもうないのだろうが、その肉体の怪我がみるみる治癒されていくのが視界の隅で確認できた。……やはり異能者は、排除対象だ。
 男は掴んでいる亜子の足から手を離さない。
「せっかく見つけた女のトリッパーだ。捕まえて仲間にする」
「仲間?」
 不似合いな言葉にヨミが怪訝そうにした。
 男はふむ、と小さく呟く。
 亜子を肩に担ぐと、男は向きを変えた。ヨミは黙って彼について行くしかないようだった。

 男は細い道を進み、ある小さな民家に入っていく。人の気配がした。
 正面のドアからは入らず、裏口へと回る。この時点で、ろくでもない予感はしていた。
 ヨミは予言者の言葉が引っかかっていた。だからか、つい、亜子へと視線を向けてしまう。
 意識のない亜子の顔は見えない。だが手加減された怪我はある程度まで回復しているだろう。
 男は裏口の扉を何度かノックし、それから何か呟いた。内側から鍵が開けられる音がする。
 ドアを開けた男の衣服は帝国のものだったが、違和感が強烈にある。ヨミは怪訝そうに思いながらも、顔には出さなかった。
 身を屈めて中に入った男に続き、ヨミも中に入る。途端、ドアが締め切られた。……まあそれも、予想はしていたことだ。
「セイオンの傭兵か!」
 驚いたように、奥にいたひょろ高い男が言った。室内には10人以上いたが、中でもわりと明るい喋り方をするほうだと判ずる。
 あの男は肩から亜子を『落とした』。
 降ろしたのではない。落としたのだ。
 どさっと、まるで物を捨てるように落とされた亜子が小さくうめく。
 異能はすっかりなりを潜めているが、その外見特徴からすぐに彼女が何者か気づいたのだろう。室内が静かにざわついた。
 ヨミは黙って見回す。違和感の正体はなんだ?
 薬のにおいはしない。魔術に使う補助的なものも、しない。けれどそれを扱う者がいるのは、貧相な気配でなんとなく察した。人目につかないようにしている者たちがきっとそうだ。
 そもそも魔術の知識を帝国が独占しているから、この国は強力なのだ。そして他国は魔術を脅威と知りながら、それを学ぶ者を卑しいという。
(ん?)
 そうだ。それがおかしいのだ。
 この国の者ならば、魔術師は堂々としているものだ。もしや……。
(他国の連中……)
 どこのだ? 奉国か?
 違和感の正体はこれだったのだ!
 帝都に馴染んでいない。いくら田舎から出てきたとしても、それにしては違和感を強く相手に与えてしまう雰囲気だ。
(やはり帝都を襲う気か)
 それにしては襲撃人数が少ない。他の潜伏場所もあるのかもしれない。
「女のトリッパーだ。しかもほぼ完全な人型じゃないか!」
 駆け寄ったひょろ高い男に、巨体の男は頷く。確かに亜子のようなタイプはあまりお目にかかれる存在ではないのだ。
 ヨミも、最初は驚いたのだ。フードの奥に隠れる様相が、トリッパーの特徴そのものを持っていたから。
 巨体の男は亜子の背中を踏む。亜子がさらにうめいた。力加減をされているとはいえ、今のにぶい音は、かなり骨にダメージを与えただろう。
「とりあえず縛り上げて転がしておけばいい。我々にはなすべきことがある」
 静かに言った、冷たい瞳の男をヨミは見遣る。おそらくこのメンバーのリーダーであろう。
 男たちの視線は自然とヨミへと集まった。ヨミは黙ったまま、静かに見返す。
「『咎人の楽園』の傭兵だな」
 奥にいた魔術師らしき男が小さく呟く。肯定も、否定も、ヨミはしない。黙っていることがすでに肯定になるからだ。
 室内が、微妙な空気になった。信用はされていないのはすぐにわかる。それどころか、怯えている連中もいた。
 巨体の男が笑う。
「この男はそのトリッパーを獲物としてきただけだ。どうやら、我々に奪取されるのが気に食わないらしい」

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