Barkarole! ノッカーズヘブン9

 亜子が目を覚ましたのは、深夜を過ぎてからだった。覗き込んでいる女性と目があい、ぎょっとする。
 自分とそう年齢が変わらない少女だった。
 くすんだ金髪の彼女は「あ」と呟き、誰かの名を呼んだ。続いて覗き込んできた人物に本気で驚き、亜子はカッと目を見開いてすぐさま飛び起き、距離をとった。
 整った顔立ちはしているが、覗き込んできた男は――――日本人だ。
 茶色の少し硬質そうな髪に、同じような色の瞳をしている。肌もアジア人のものだ。
「ハル、怖がられているわよ?」
 少女が目を細めて言うと、ハルと呼ばれた日本人は……いや、トリッパーは「うっ」と呻いた。
「べ、べつに睨んでねぇよ」
「え?」
「うるせぇな」
 驚く亜子に悪態をつく。年上だろうに、これはない。
 美形だが口が悪いようだ。
「アガット、起きたか」
 部屋のドアから入ってきたのはラグだった。亜子は一気に安堵して微笑む。
「ラグさん! 無事だったんですね」
「アガットのおかげ。相手、すごく強かった」
 屈託ない笑顔で言うラグを、ハルが苦々しく睨んでいた。……この人たちはどういう関係なのだろう?
 疑問が顔に出ていたのか、金髪の少女が口を開いた。
「私はトリシア。彼はハル。ラグの友人なの」
「友達になった覚えはねえぞ!」
 怒鳴るハルの頬は赤い。本心ではないのかもしれない。
 亜子は少し放心していたが、みんなを見回してから首を傾げた。
「あ、あの、そういえばどうしてあたし、ここに寝て……?」
「アガット、すごい傷だった。憶えてないのか?」
 ラグの言葉に不思議そうにしてしまうが、そういえばあの巨体の男に足を掴まれて、無造作に壁に叩きつけられたのを思い出した。
 己の背中は見えない。なんとか背後を見ようとするが、トリシアが小さく笑った。
「大丈夫。ケガはすっかり治っているから」
「治っている? あ、お医者様ですか? そういえばマーテットさんも、お医者様だったっけ」
 なんだか懐かしい。マーテットは元気にしているだろうか?
 勝手に勘違いしている亜子の前に、不機嫌顔のハルがぬぅっと顔を出す。驚いて目を丸くする亜子をじろじろと無遠慮に彼は眺めてくる。
「あ、あの……?」
 さすがに失礼では、と亜子が思っていたら、彼は口を開いた。
「おまえ、こっちに来たばっかりだな」
「えっ!?」
「職業登録は済ませたのか?」
「あ……いえ……」
 馬鹿正直に応えてしまい、まずかったかと警戒してしまう。だがハルは嘆息しただけだ。
「てことは、今は猶予期間か。で? なんでラグと一緒にいる?」
「ハル! それは守秘義務だ! アガットにも事情がある!」
 ずいっとラグがハルとの間に割って入ってくれた。だが亜子は隠すのもどうかと思った。理由は簡単だ。ハルが同じ日本人だからだ。
「ハルさんは、日本から来たんですね」
「ああ」
 ぶっきらぼうな声で応じるハルに、亜子は項垂れたように顔を伏せて、事情を話し始める。
「実は、下町で過ごす期間に、『咎人の楽園』の傭兵に見つかってしまって……」
「なんだと!」
 真っ青になったハルの横では、トリシアも言葉をなくしている。
「その時は、なんとか命拾いをしたんですけど、そこに居られなくなってしまって……。護衛を、職業登録の日まで雇うという方向性で話が決まったので」
「『アルミウェン』に行ったのか……」
 苦い顔つきのハルはかなり難しい声音になっていた。亜子としても、まさかアルミウェンまでついて来られるとは思っていなかったし……まさか本当に尾行されていたとは考えてもいなかったのだ。
 ハルは亜子を見つめる。
「おまえが思ってるほど、甘い連中じゃねぇぞ。やつらは、職業登録をして帝都を離れても、ずっとつけ狙ってきたりするからな」
「そんな!」
 諦めてくれると思っていた亜子にはショックだった。彼らからは逃げられない……そんな、そんな……。
 腰に片手を当てて、ハルを亜子を見下ろしてくる。
「本当だ。やつらはトリッパーの全部が欲しいんだろうよ。情報も、知識も、その変質した肉体でさえ、やつらにとっちゃ宝の山なんだ。
 おまえの異能は?」
「あ、あたしの異能は……」
 どう説明していいのかわからない。言いよどんでいるとハルが窓を開けた。何をするのかと見ていた亜子は、ハルの両目が金色に輝くのを見て言葉を失う。
 整った造作の顔立ちが一層際立っている。それにこの威圧感……。闇に溶け込むような奇妙な気配に、ぞくっと背筋に悪寒が走った。
「僕は、吸血鬼の異能者だ」
「きゅ……」
 そんな伝説上の怪物の異能者が?
「とはいえ、僕たちの世界で聞くような不老不死の化物なんかじゃない。証拠に、おまえも死ぬだろ?」
「…………」
 その意図する言葉に亜子は決意して、ベッドから降り、庇っていたラグを押しのけてハルに対峙した。
 燃え上がるように髪の色が変わる。瞳が、獲物を狙うように金に変わる。だらりとローブの下から尻尾が垂れる。
「コレがあたしの異能。化け猫」
「蝙蝠と猫、か。チンケなもんだ」
 ハルが小さく笑う。日本だからこそわかる。同じ異界出身者だからわかることだ。
 そう、吸血鬼は蝙蝠に化身できる。化け猫は猫。どちらもかなり小さな生き物だ。
 ハルは真剣な顔になった。
「この世界で生きていくつもりなら、誰かを殺す覚悟は持て」
「こ、殺す?」
 いきなりのことに亜子が目を見開く。殺すとは穏やかではない言葉だ。だが重みがある。ハルは亜子にとっては先輩にあたるトリッパーなのだ。彼が真剣に助言をしてくれているのがわかる。
「殺したくないなら、命がけで逃げるんだな。決して甘く考えるんじゃねぇ。死ぬか生きるかしか、僕たちには残ってないんだ」
「わかり、ました」
「誰かをあてにするのもやめたほうがいい。自力でなんとかできねぇなら、おまえは死ぬ」
「……はい」
「おい」
 ずいっとラグがまた割り込んできた。
「一人で全部背負うの、無理! ハルはアガットに意地悪!」
 むぅ、と顔をしかめて言うラグに、トリシアも同意した。
「そうね。一人でどうすることだってできない時はあるわ。あなただって、身に覚えがあるでしょう?」
「おまえらなあ! 心構えってもんを教えてんだよ! ほんとに、僕たちは危ないんだ!」
「あ、あの!」
 喧嘩を始める三人に、声を張り上げる。
 亜子は俯いた。
「わかってます。ハルさんの言いたいことも、ラグさんの言っていることも、トリシアさんの言葉も。
 あたしは、恵まれてます。この世界に来た時に、助けてくれた人たちがいたんです。助けてくれようとしたんです。でも、その手を振り払ってしまって……」
 シャルルとマーテットの優しさが、本当に、本当に……今ではどれほどのものだったか、痛感してしまう。
 そしてやはり思うのだ。彼らに迷惑をかけてはいけないと。あの男には、自分で立ち向かわなければならないと。
 ラグとの契約は職業登録の日までだ。そこから先は、亜子自身で生きていかねばならない。
 自分の、強くかためた拳が見える。
「あたしは、わかっています。ラグさんを助けなきゃって思った時、忘れてる何かを、思い出せそうで」
 けれどそれは無理な話だった。記憶混濁の亜子には、過去の忘れ去られた記憶は蘇る類いのものではないのだ。
 ラグがあの巨体の男と戦っている時、ラグ一人ならばなんとか逃げ出せただろう。だが亜子は助けに入った。微力な自分に何かができると思ったわけではない。
 ただ、思ったのだ。
 やめてほしい、と。
 何を意味していたのかわからない感情だ。その起因は、おそらく亜子の失われた記憶にあるに違いない。
「ハルさん」
 顔をあげた亜子は、元の姿に戻る。ふわっと髪が赤茶のそれに戻った。
「ラグさん」
 二人の名を呼び、顔を交互に見る。
「あたしは地学者になろうと思います。そうするほうが、たぶん、一番いいと思うから。
 だから、そのために、生きるために、最低限のことを教えてください!」
 頭をさげてぎゅっと瞼を閉じた。甘えている。この人たちに甘えているのが情けない。
 ハルはすげなく断るだろうと思ったが、意外にも「いいぜ」と応えた。
「ただ、戦うのは一朝一夕でできるもんでもねぇし、ラグに頼むのはやめといたほうがいい。異能を使う戦い方のほうが、僕たちには合ってるからな。
 地学者になるってんなら、僕が最初に必要としたことを教えてやる」
「ハルさん……」
 思わず顔をあげた亜子から、ハルはぷいっと顔を背けた。頬が赤くなっている。照れているようだ。
 感謝に涙が出そうになる。だがそれは堪えた。
 亜子はこれから強くあらねばならない。そして、もうそれは始まっている。



 アルミウェンへと様子を見に行ったが、あの娘は戻っていないようだった。
 ヨミは胸のうちが混乱しているのに気づいていた。
 どうしようかと、中央広場の中心部に位置する噴水広場のそこで、ずっと突っ立っている。アルミウェンへの様子見は怠っていない。
 噴水の水は、富の象徴。この国の中心であることの強調だった。
 荒野ばかりが陸土を占める帝国では、水は貴重なものだ。それを惜しげもなく使っているのは、わざとだからだ。
 噴水の縁に腰掛けて、行き交う人々や馬車を見遣る。そしてぎょっとしたのだ。
 惜しげもない様子でこちらに歩いてくる人物に見覚えがある。いや、忘れるはずもなかった!
 長い髪を揺らし、妖精のような愛くるしい外見の幼い軍人殿は、まるで波を割った超人のような涼やかな姿勢でこちらまですいすいと歩いてきた。
「こんばんは」
 挨拶をするには、確かに間違ってはいない言葉だ。今は真夜中。だがこの時間帯に無防備に軍人がこんなところをうろついているわけがない。
 警戒体勢に入ったヨミの横に、小柄な彼は腰掛けた。噂では14歳ということだったが、それよりも幼く見える。
「まだ帝都に居るとは思いませんでした」
「いて悪いのか」
「いいえ? それよりも、あなたの情報が正しかったと伝えにきました」
 驚愕の視線をヨミはルキアに向けた。軍人が一介の傭兵に機密をバラすなんて、馬鹿なのか、こいつ。
「あぁ、べつに機密を喋るつもりはありませんよ? あなたの情報が真か嘘か、教えに来ただけなんです」
「……本当はべつの用事があるのではないのか」
「そうですね。あなたの姿が見えたので、ついでに教えに来ました」
 さらっと正直に告げるルキアを、ヨミはうかがった。
「勝算はあるのか?」
「あれ?」
 ルキアは驚いたように目を丸くした。
「この間の自分の話を聞いていなかったのですか?」
「?」
「自分がここにいるのに、勝てないはずがありませんよ」
 なんという自信だ!
 ヨミは不愉快さに眉をひそめる。
「万一がある」
「心配性ですね。自分の友人もそう思って、わざわざ帝都まで知らせに来たようですけど……心配には及びません」
「どうしてそこまで自信を持てる……!?」
 ぎりぎりと、歯の間から零れるような声音だった。
 なぜだろう。ヨミはこの男が嫌いだ。
 少年は軽やかに笑った。無邪気な笑みだった。
「それは、自分が軍人だからです。民のために死ぬ存在だからです」
「本気で言っているのか?」
「ほかの人がどうかは知りませんが、軍法に則って自分は行動しています」
 気味が悪かった。
 ヨミは混乱するしかない。
 この少年のことを多くは知らない。けれども心配して駆けつけてくる者たちがいるというのに、その自信は揺らがない。
 彼はヨミの表情をどうとったのかはわからないが、小さく微笑んだ。
「疑り深いですね。わかりました、では賭けをしましょう」
「賭け?」
「自分は今の発言に命は、おっと、それは帝国と皇帝のものなので無理ですね。では、違うものを賭けの対象とします。
 賭けるのは、これです」
 彼は金縁の片眼鏡を指差した。
「? そんなもの、売っても」
「これを外して戦いましょう」
 はずす?
 意味がわからずにさらにぐっと眉に皺を寄せると、ルキアはふところからスペアの眼鏡を取り出してヨミに渡してきた。
 受け取ったヨミは掌に乗っている金縁の片眼鏡を見つめる。そして縁のところに流麗な魔術文字が刻まれているのを見て、一気に青ざめた。
 ルキアは魔力を封じている。今の、この状態でも。
 では全開になったらどうなる? 町が火の海になるどころではない。下手をすれば、一瞬でここが消えてしまう!
「おまえはここを更地にでもする気なのか!」
 静かに怒鳴ると、ルキアはふんわりと笑った。
「そんなことにはなりませんよ。だから賭ける、と言っているんです」
「…………」
「自分が勝ったなら、あなたに報酬を望みます」
「しがない傭兵にたかるのか」
 嘲笑を含んで冷たく言うが、ルキアはまったく動じない。いったいなんなのだ、この子供は。
「あるトリッパーを追っていますね? それをやめてください」
「っ」
 なぜ知っている?
 驚くヨミはぐ、と唇を引き締める。やはりこの子供は只者ではない。油断ならない。
「からくりは簡単です。彼女の護衛を自分の友人が引き受けているからです。それに、自分の同僚も一枚噛んでいましてね。彼女の安否が気にかかるそうなので」
「だったら、ここで私を殺せば早い」
「あなたが罪を犯したのなら、そうするのもやぶさかではありません」
 ルキアは立ち上がった。驚くほど彼の瞳が冷えている。紅玉のような瞳にはなんの感情も浮かんでいない。
「命を奪うことはとても簡単なこと。しかし自分は、賭けをした。ですから殺しません」
「私がそれに乗るとでも?」
「乗りますよ。ここを更地にしたくはないでしょう?」
 相当な脅し文句だ。
 ヨミは顔をしかめ、それからルキアを下から睨みつけた。しかしルキアは平然としている。
「賭けは成立ですね」

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