Barkarole! ノッカーズヘブン7

 裏路地へと入り、人の気配のない廃屋へとヨミは入っていった。下町にはこういう場所がごろごろある。
 貧民が多い下町ならではの物件であった。
 青年は入り口のところで立ち止まった。さすがに奥までは入ってこない。戦闘のなんたるかを理解しているからだろう。さすがだ。
「できれば」
 ヨミは口を開いた。
「あの娘をこちらに引き渡して欲しい」
「それはできない」
 青年の応えは迅速だった。それもそうだろう。彼は雇われた傭兵なのだ。彼女を守るのが仕事なのだ。
「トリッパーの異様さに、なんの感情も抱かぬのか」
 責めるような口調になるのは仕方なかった。ヨミにはそれ相応の理由があるのだから。
 しかし青年は真っ向から否定した。
「トリッパーのどこが異様だ!」
 ヨミは青年を奇怪なものでも見るような目で観察した。身長はそれほど変わらないが、青年の武器がわからない。間合いがわからない。
「姿が変質するものも多い。それに……やつらは、人外だ」
「違う。トリッパーは人間だ!」
 強固に言い張る青年に、ヨミは苛立ってきた。そして静かに話し出す。
「私の右目はやつらに傷つけられ、使い物にならなくなった」
 それだけで仇と言うのはおかしい、と青年の目が語っている。そのとおりだ。ここから先が、ヨミがトリッパーを憎む理由なのだから――――。
 しかし青年は掌を前に出して制すると、首を緩く左右に振った。
「どんな理由があっても、それはあの子には関係ない」
 無関係だと言い張る青年の主張は正しい。正しいけれど、間違ってはいないけれどその考えは危うい。
「なぜトリッパーを信じられる?」
「なぜトリッパーを信じられない?」
 問いかけに、問いで返された。
 ヨミは話にならないとばかりに舌打ちしそうになる。
 その時だ。
 青年は背後へと動いた。その機敏な動きは戦士のそれで、ヨミは目を瞠る。
 がいん! と硬質な音が響いた。
「な、なんだ……!?」
 困惑の声を洩らす青年に巨大な剣を振り下ろした大柄な体躯の男は、フードの下から笑みを浮かべた。
 その姿にヨミは一気に青ざめる。
 なぜ。
 なぜ、コイツがここにいる?
 二度、三度、剣戟の音が響く。外套の下に隠していた青年の大太刀が振るわれているのだ。
 ヨミは動けない。
(なぜ)
「おまえは死んだはずだ!」
 悲鳴のようなヨミの声に、男は薄く笑っただけだった。



 亜子の耳は戦闘の音を捉えていた。
 こんな時間帯から、と思われるが、あの隻眼の男とラグが戦っているなら、どうにかしなくては。
(どうにかって、どうするっていうの!?)
 自分には戦う力はない。戦うすべがないのだ。
 闇雲に走っていても仕方がない。音のする方向へむかい、一直線に駆けた。
 裏路地と呼ばれる細い小道に入ってから、ぎょっとする。
 熊?
 そう思ってしまうほどの巨体の男と、ラグが戦っている。道の真ん中で。
 ラグは振るわれる腕力任せの攻撃にかろうじて耐えているという様子だ。それもそうだ。体格がラグの倍はあるのだ。その攻撃も生易しいものではない。
 カッと亜子は目を見開く。その両眼が金色に変じ、彼女は大きく跳躍した。狭い道ではあるが、障害物らしきものはない。
 掛け声などかけずに、真上から足を振り上げて、下ろす。だがその亜子の細い足を男が造作もなく掴んだ。
 ばん! と衝撃と共に近くの建物の壁に叩きつけられた。
「が、は」
 内臓がぎゅっと押し潰されたかのような痛みが襲い、亜子の意識が一瞬真っ白になる。
 地面に落ちた亜子を見て、ラグが何か叫んだ。「アガット!」と、言ったような気がする。
 危険、だ。
 この男は危険、だ。
 亜子はゆらりと立ち上がった。足ががくがくと震える。ざわり、と髪が赤色に変わっていく。
「ラグさん!」
 声に反応したのか、男がこちらを向く。そして動きを一瞬止めた。
 巨体の奥から薄笑いが聞こえる。
「こ、のおおおおおお!」
 亜子は恐ろしさを堪えて突っ込んだ。なんとかラグが逃げる機会を作らなければ。いくら腕利きとはいえ、この男だけは危険だ。
「子猫がなんの用だ」
 嘲笑うかのような男の声にも、亜子は反応しない。彼女の瞳が完全に金に染まりきったあと、残ったのは意識ではなく本能だけだった。
「フッ」
 吐き出す息とともに亜子は壁を使って跳躍し、再び宙へと逃げた。否、逃げたのではない。
(狙うのは眼だ)
 どんな生物も、そこだけは守るすべがない。
 ゆっくりと、まるでスローモーションのように感じながら、くるんと身体の向きを変えて落下する。
 フードはすっかり脱げている。けれどかまわない。
 亜子の両手の爪が急激に伸びる。鋭い切っ先を向けて攻撃に転じた亜子は、みえる、と驚くしかなかった。
 男の動きが緩慢にしか見えないのだ。
 ラグの相手をしながらも、こちらに応対しようとしている。
 みえる。
 みえる!
 鋭く手を一閃させて、フードの前側を攻撃する。人の頭からすれば、側頭部から鼻っ柱目掛けてのものだ。
 そして見えた瞳目掛けて爪を振り下ろ――――。
「ぐ、ぅ!」
 みえていたのに!
 避けられなかった!
 亜子の振り下ろした腕が掴まれる。捻りあげられる腕。容赦なく軋むそれに、亜子は激痛に目を見開く。
(折られる!)
 いいや、潰される!
 しかしそうはならなかった。
「――ッ」
 吐息のようなそれが走ったかと思ったら、亜子はどさっとその場に落ちていた。
 ラグも驚いている。
 亜子はそちらを見た。
 巨体の男に攻撃を仕掛けていたのは、あの、亜子を狙っていた隻眼の青年だったのだ。
 彼は両手に武器を持っている。映画かなにかで見たが、トンファーという武器によく似ていた。
「アガット!」
 すぐさま屈んでくれるラグが、亜子の様子を見て顔をしかめた。
「ラグ、さ……」
「喋るな。ひどい怪我だ」
 ひどいケガ?
 どこにケガなんて……?
 まったく理解できない亜子を、ラグが抱えあげた。そして隻眼の男に声をかけずに駆け出す。
 戦う男たちの姿を視界の端で捉えながら、亜子は隻眼の青年と目があった。苦しそうに歪んでいるその瞳には、なんだろう……多くの感情が渦巻いていた。



 ラグによって運び込まれたのは下町の小さな宿屋だった。目的地はここだったのだ。
 部屋を乱暴に入ったラグに、泊まっていた男は驚愕したようだが一緒にいた女性に目配せをしてベッドを示した。
 ベッドに横たえられたが、仰向けではなく、うつぶせだった。亜子は不思議になる。
 女性が悲鳴を堪えるように「ひどい」と小さく呟く。
「え?」
 だがその声はすぐに驚いたものに変わる。
 亜子はゆっくりと呼吸を繰り返した。
 痛い? ひどい? なにが?
 呼吸を繰り返す。胸が上下する。それに連動して肩も。
「さ、再生能力……? 治癒能力か?」
 ラグとは違う男の声だった。
 亜子は目を閉じた。もう意識を保っているのも限界だった。眠ってしまいたい……その衝動に抗うことなく、亜子は目を閉じた。

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