Barkarole! ノッカーズヘブン4

 酒場で夜を明かした亜子に、クイントは仰天としていた。
 彼女は昨夜とまったく同じ場所から動いておらず、うつらうつらとしながらも、意識を保っていたのだ。つまり、一睡もしていないということだ。
 さすがに部屋で寝たほうがいいというクイントのアドバイスも、亜子は首を振って拒絶した。
 よほどワケアリなのだとクイントは事情を察し、ラグの戻りを待った。彼は昨晩戻ってきて、すぐさま出て行ってしまった。
 親父の話だと、そのまま戻ってきていないということだ。
 クイントはカウンターに駆け寄り、父親に相談する。アルミウェンは24時間営業の酒場だ。クイントも確かに睡眠時間は多くない。
 けれどもまだ二十歳にもなっていない若い娘が、部屋で寝泊りせずに店に居続けたことがショックだった。擦れた女たちならばわかるが、明らかに亜子は世間慣れしていない。
「ねえ親父、ラグ、本当に戻ってないの?」
「ああ。あれから全然だな」
 いかつい顔の父親にクイントはまったく似ていない。母親似なのだが、その母親も幼い頃に他界している。
 クイントは振り返って、店の隅の席に座っている亜子を見遣った。相変わらずフードで顔を隠している。
「あの様子だと、あんまり食べられないかもしれないな」
 ことん、と音がしたと思って振り向くと、カウンターの上にリゾットの入った皿がある。クイントは水をコップにいれて、慌ててトレイに乗せて亜子のところへと運んだ。
 どうぞ。と小さく言ってテーブルの上に置くと、憔悴したような表情がちらりと見えた。彼女は微かに笑い「ありがとう」と言う。
 クイントはそれを見て、胸が締め付けられそうになった。なんでこんな若いお姉さんがこんな状態になるようなこと……。
 いいや、それは甘い感傷にすぎない。
 亜子よりひどい境遇の者はいくらでも、それこそ掃いて捨てるほどいるのだ。
 やきもきしていたら、目の前の亜子がぐらりと揺れた。え、と思った瞬間、彼女の体が傾いでいく。
 倒れる!
 ぎょっとするクイントの横から、さっと誰かの手が伸びて亜子を支えた。褐色の腕に黒い包帯……これは。
 背後を仰ぎ見たクイントが顔を綻ばせた。
「ラグ!」



 ひどくうなされていたような気がする。ノックの音で目を覚ました亜子は、自分が汗をかいているのに気づいた。
 衣服がべったりと肌にはりついていて、気持ち悪い。
「はい」
 ノックに返事をすると、クイントの声が聞こえた。
「アガットさん、気がついた? ラグが戻ってきて、今は下で昼ごはん食べてるよ!」
「……ありがとう」
 疑問に思いながら礼を言うと、ドアの前から足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
 深く眠っていたようだが、夢見は悪かったようだ。憶えていないのが幸いだ。
 しかしそこでハッとした。自分は酒場に居たはずだ。
 それにクイントは今、「昼」と言わなかったか?
 部屋には時計がない。雨戸を開けて外に出ている太陽の位置を確かめることもできない。
 悔しさに唇を噛み締めつつ、亜子はベッドから起き上がった。妙な気配を感じることはないので、一応安心しておく。
 亜子はふとそこで、顔を洗うにはどうしたらいいのか、体を拭くには、と考えが巡った。
(どうしよう……)
 困りながら、自身の汗臭さを確認する。ぱたぱたと足音が近づいてきて、ぎくっと身を強張らせた。
「昨日言うの忘れてたから、ほら、水汲みは裏手にあるよ。物干しもね。あと、お湯を用意する時は前もって言ってね」
「あ、ありがとう」
 昨日は夕食時にクイントがタオルと、大きな盆、それから瓶を持ってきて簡易的な風呂を用意してくれたのだ。
 瓶の中には湯があり、それを、床に置いた盆にそそぐ。それでできあがりだ。湯の量は少なく、まるで昔話の洗濯桶のように亜子には見えた。
 感謝を述べると、彼は30分後に片付けにくると言って出て行った。亜子はタオルを湯にひたして、絞り、それで体を拭いた。この世界に「風呂」というものはあるのだろうかと考えたからだ。
 湯浴みをする習慣くらいはあるかもしれないが、この宿屋には共同風呂などない。
 そういえば、この世界に季節はあるのだろうか? 気温も低くないし、水を汲みに行ってきて、部屋で軽く体を拭こう。
 立ち上がった亜子は、酒場へと続く階段ではなく、裏手に続くほうへと足を向けた。
 裏口から外に出ると、そこには井戸がある。井戸があるということは、水脈がこの下に走っているのだ。
(なんか江戸時代みたい)
 ぼんやりと浮かんだ想像に、自分で苦笑してしまう。
 井戸で水を汲んで、部屋にあった小さな瓶に流し込む。あまり重くすると運べないので、適度に、だ。
 瓶を抱えて部屋に戻ろうとした亜子は、ハッとして慌てて部屋へと駆け戻った。なにをのん気にしているのだ! 自分は命を狙われているのに!
 いくらアルミウェンの敷地とはいえ、外に出るのは危険だ。急いで体をふき、着替える。酒場へと続く階段を慌てて降りた。
「あ、こんにちわー!」
 元気よく挨拶をしてくるクイントに、亜子は一瞬なにを言われたのか理解できなかった。気が急いていて、咄嗟にわからなかったのだ。
「あ、こ、こんにちは」
 軽く何度か頷いて返事をして、酒場の中に視線を動かす。昨夜の騒がしさが嘘のように、静かだ。
 数人ほど、それぞれ個別で昼食をとっている者はいる。カウンターには、いかつい体の男が料理をしていた。ここの主人だ。
 褐色の肌の青年を見つけて、亜子は瞬時に視線を落とすが、すぐさま顔をあげて彼に近づいた。
「あの、ラグさんですか?」
 スープとパンを食べていた彼は、亜子のほうへと視線を遣る。うっ、なんか睨まれてる?
 身を竦ませていると、そういえばフードをかぶっている自分は明らかに怪しいなと思い返した。しかしここで自分の姿を晒しては、ならない。シャルルに強く言われていたのだ。
「ラグはオレだが……あんたは?」
「あたしはアガット=コナー。ルキア=ファルシオン少尉の知人から、あなたを訪ねるように言われました」
「知人? だれ?」
 シャルルの名前を出すわけにはいかない。彼は仮にも第二皇子なのだ。
「マーテット=アスラーダさんです。ルキア少尉と同じ、『ヤト』に所属しています」
 ラグは不審そうにしていたので、やはり、と亜子は思う。マーテットはラグとは面識がないらしく、名前を言ってもわからないだろうと言っていたのだ。
 そもそも軍人と傭兵は相性が悪い。軍のことを出すべきではないというのは本当のようだ。
「ルキアからの紹介状があればな」
 と、悔しそうに言っていたシャルルの言葉がよみがえる。
 予想通りというか、ラグは軽く首を傾げた。
「オレ、ほかの『ヤト』のこと、よく知らない」
「マーテットさんは軍医です。素性を軍に問い合わせてもいいです」
「医者」
 ぽつりとラグが洩らし、ああ、と納得した。
「わかった。ぼさぼさ頭の、丸眼鏡!」
「え?」
 いきなりマーテットの特徴を言い当ててくるとは思わなかった。
 ラグは亜子の反応をみて正解だと確信したらしく、満足そうにうなずいている。
「ルキアが言ってた。だからわかる。
 オレに依頼ということだが、急を要するのか?」
「はい」
 よかったと安堵しながら、亜子は頷く。座れと目で促され、亜子は彼の目の前に腰掛けた。
「実は、事情があって命を狙われています。短い期間になりますが、護衛を頼みたいと思っています」
 金さえ出せば傭兵は言うことを大抵はきく、とシャルルやマーテットから言われていたので、亜子は惜しみなく財布の小袋をテーブルの上に置いた。
「必要最低限、あたしがここから外に出る時だけ護衛についてくれればいいです」
「…………」
 ラグはまったく金のほうを見ようとせず、亜子だけを凝視している。
 彼はちら、と視線を動かした。亜子がつられてそちらを見る。刹那、ふわっと風が頭上を通り過ぎた。
 ぱさり、とフードが後ろに落ちる。あ、と思った時には遅かった。
 赤茶の髪と、茶色の瞳があらわになり、その特徴が意味するところを知られてしまった。
 青ざめる亜子は、頭に血がのぼりそうになるのを堪えた。
 ラグが素早くフードを払ったのだとわかったが、彼は顔色ひとつ変えない。むしろ、こちらをはらはらと見ていたクイントがぎょっとしている。
 そそくさとフードをかぶり直した亜子が、唇を噛み締めた。
 トリッパーであることはなるべく知られてはならない。なにしろ、守ってくれる存在がいない今、自ら「狙ってください」と言って回るような真似はできない。
 どこにトリッパーを狙う者がいるかわからないのだ。
「事情はわかった」
 それはそうだろう。ラグの呟きを憎らしく思う。
 ラグはテーブルの上の袋に手を伸ばした。そして紐口をほどき、中から銀貨を数枚抜く。そして紐を結びなおした。
「ん」
「え?」
「依頼分ならこれで充分」
 ラグはにこっと笑ってみせる。
「えっ、で、でも!」
 金貨はもっていかれる、くらいには思っていた。金貨が日本でどれくらいの価値かはまだわかっていないけど。
 ラグは笑顔のまま、言う。
「オレ、必要以外、いらない。だけど、仕事はやり遂げる」
「え…………」
「アガット、よろしく」
 手を差し出される。
 呆然とそれを見下ろしながら、亜子はやんわりと握った。包帯まみれの手は、かなり大きかった。

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