Barkarole! ノッカーズヘブン3

 夕食を終えて部屋に戻るまで、亜子は決してフードをとらなかった。酒場なので、夕食はなるべく早くにとることにしたが、階下は騒がしい。
 聴力もあがっている亜子にはうるさくてしかたがなかった。
 両耳を手をおさえて、ベッドの上で身を丸くする。
 こんなに面倒なら、職業登録を早々に済ませればいいのに、と亜子は思ってしまう。けれどそうもいかないのだろう。
 トリッパーに与えられた期間は短い。その中でなにかを選ぶには短すぎる時間だ。
 けれど、決断への時間は刻一刻と減っていく。
 トリッパーはまず、この世界のことを少しは学び、知らなければならない。世界とじかに触れ合わなければならない。
 この世界では13歳以上は立派な成人とみなされるので、亜子はすでに大人の仲間入りということだ。こんなに早くに大人になることを強要されるとは思っていなかった。
 脳裏に過ぎるのは、あの褐色の肌の青年だ。美しい青年だったが、恐怖が勝っていて、亜子は体が震えた。
 トリッパーを狙う、男。
 それは十中八九、傭兵ギルドの一つ、『咎人の楽園』のメンバーだという。
 そこに捕まれば、異界のことをあらいざらい吐かされ、拷問のようなものも受けるという。
「ひどい死体を見たことがある」
 と、ぽつんとマーテットが言ったのを、亜子は思い出した。二人のどちらも選ばないと言ったら、彼らはこれからの亜子の身の振り方を真剣に考えてくれたのだ。
 結果として、職業登録をして帝都を出るまで護衛をつける、というところで落ち着いたらしい。
(ひどい、ってどんな『ひどい』?)
 想像したくもなかった。
 ざわざわと、身がうずき始めた。
(う、うぅ、くっ)
 身をおさえるように抱きしめ、亜子は歯を食いしばる。
 閉め切った雨戸を睨むように見つめてしまう。
 夜になると活発化する亜子は、その異能にうんざりしていた。しかし、こんな状態でも、あの男に会ったら勝てるかどうか……。
 気分が猛烈に悪くなって、外ではなく、このアルミウェンの中ならば安全だという考えに至った。
 ベッドから降りて、周囲を見回す。異能のせいで夜目がきくので、力を出さずとも廊下の先まで見通せた。
 左右を確認する。そしてどうしようか悩んだ。
 喉が渇いた。
 ぼんやりと思いつつ、フードをかぶって階段のほうへと歩き出す。ゆっくりと階段を降りると、明かりが目にまぶしいほど押し寄せてきた。
 酒場なだけあって、盛り上がっている。それぞれの木製の丸テーブルには客がおり、ビールらしきものを口に運んでいた。わいわいと楽しげにしている様子に、亜子の全身がこわばる。
 視線が泳いだ。
 ずず、と足を後退させる。
 明るすぎる。
 あまりにも自分に不似合いな気がして、亜子はそのまま引き返そうとした。
 その時だ。
「ラグ!」
 声にハッとしてそちらを見遣った。出入り口の両開きの扉から入ってきた、まるで鴉のような長身の青年の姿にぎくっとしてしまう。
 目を見開いて様子をうかがっている亜子はなるべく気配を消そうと、そして息を殺すようにそこに立っていた。
「おかえり!」
 駆け寄っているのはクイントだ。
 白い髪の彼は、あの男と違って、鮮やかな黄緑の瞳をしていた。例えるなら、ペリドット、だ。
 褐色の肌といい、髪の色といい、共通点がいくつもあったから冷汗がどっと出た。
 青年は全身を覆うような真っ黒なマントの下からぬっ、と右手を出す。その右手に黒い包帯がびっしりと巻かれており、さらに驚いた。
 ぐりぐりとクイントの頭を撫でた。
「ただいま」
 はにかんだように笑うラグに、亜子は唖然としてしまう。
 ちがう。
 あの男じゃない。
 まるで大型犬のような、やんわりとした印象を与えられた。
 テーブルのあちこちで、ラグの帰還を祝う声があがった。どうやら彼は人気者らしい。
 ラグもにこにこと笑顔で頷いている。
(あの人が、ラグ……)
 こんなにも早く会えると思っていなかった。安堵と同時に、亜子は不安になる。
 腕利きらしい彼を、雇えるだろうか?
「あ、そうそう。ラグに依頼したいって人がいるよ。少尉から紹介されたって。
 で、これね」
 クイントはなにか白いものを渡している。紙、だろうか?
 受け取ったラグは紙に目を通した。そして驚いたように目をみはっている。
「オレ、ちょっと行って、くる!」
 そう言って、彼は身をひるがえして出ていってしまった。まるで風のようだ。
 ぽかんとしているクイントを眺めているのもどうかと思ったので、亜子は二階に引き上げた。廊下をうろうろしているのもおかしいので、部屋に戻る。
(傭兵ギルド、か)
 床を見下ろしながら、亜子はベッドに近づくと、一気にごろんと転がった。
 そしてハッとして起き上がる。素早く距離をとり、ドアから外に出る。階段を駆け下りて、周囲を見回した。
「ど、どしたの、アガットさん……?」
 驚いたクイントが声をかけてくる。
 荒い息を吐き出している亜子はクイントをじっとフードの下から見て、「なんでもない」と力のない声で応じる。
(なんでもない?)
 嘘だった。
 部屋の外から人の気配がしたのだ。気配、と表現するのは違うのかもしれない。
 じっと息をひそめてこちらの様子をうかがう感じが、した。ただそれだけだ。
 けれどもそれは亜子が知っていた感覚だった。
 あの恐怖を、完全に覚えてしまっていたから、察知できたこと。
(ヤツはまだあたしを狙ってる)
「アガットさん、なにか飲む?」
 心配そうにうかがってくるクイントに小さくうなずき、空いている席に腰掛けた。
 酒場は盛り上がりをみせていて、本当に場違いだ。暗く沈んだ様子の亜子の前に、クイントがあたたかいココアのような飲み物を持ってきてくれた。
「ありがとう」
「いいよ、これサービスしとく。あ、そうそう、ラグが戻ってきたんだよ! すぐに帰ってくるから、依頼したらどうかな!」
「……うん」
 頷く亜子に、クイントがさらに心配そうな顔つきになった。
「アガットさん、顔色悪いよ……?」
「……ちょっと、夢見が悪くて」
 俯く亜子は、ぼんやりとその喧騒にひたる。これほどの人数がいるのだ。踏み込んではこれないだろう。
(殿下とマーテットさんが現れた時も、逃げたし)
 人目につくところで自分を始末するのはなにか都合が悪いのかもしれない。
 ならば一人になるのは危険だ。なるべく部屋にはいないようにしなければ。
 どこで見つかったんだろう?
 亜子は、膝の上の拳に強く力を込める。
 眉根を寄せ、不快さに顔をしかめる。
(あたしは殺されたくない)
 ただトリッパーであるからという理由だけで、殺されるわけにはいかない。そんなの納得できない。
 たとえ自分が価値のない存在でも。
 それでも、たった一つしか持っていない『命』という所持品を、誰かに簡単に与えることはできなかった。



 気配のぬしは、二階から一階の酒場へと移動した。
 隣接する建物の屋上から見下ろしていたヨミは、隠れていないほうの瞳を細める。
 愚かな女だ、と思った。
 なぜこんな近場に逃げたのかわからない。保護されるなら、もっと堅固なところがあるだろうに。
(もっと遠くへ逃げたなら、追いかけるのを諦めたものを)
 愚かな選択をしたものだ。
 ヨミは淡々とそう評した。
 ヨミたち、『咎人の楽園』の傭兵は、裏稼業としてトリッパーの捕獲をおこなっている。彼らの持っている知識や神秘を奪うためだ。
 それは明らかに法律に触れることで、認められてはいない。だが、帝国の者ならば知らない者はいないだろうことだ。軍人でさえ、知っていて放置している。
 いいや、それは間違いか。
(『紫電のルキア』)
 帝国軍の奥の手と言われるほどの、天才魔術師。彼の噂はヨミの耳にも入っている。公平で、無辜の民を見捨てない立派な軍人だと。
(……そんな存在、あるわけがなかろう)
 軍が作り上げた偶像にすぎない。
 だがその偶像である彼がもしも本格的に動き出したなら、『咎人の楽園』はあっという間に消し去られるだろう。表向きは。
 びゅうう、と風が吹いた。ヨミの長いマントと髪がなびいた。
 ルキアは帝都に戻ってくる。弾丸ライナーと呼ばれる特急列車『イエロー・コーラル』に乗って。
 この帝都にここ数日で戻ってくるのは、その弾丸ライナーしかない。間違いはないだろう。
 素人のトリッパーの気配は独特ではあるが駄々漏れで、ヨミには手に取るようにわかった。……ヨミはトリッパーを憎く思っているが、他の者と違って執拗に追いかけるつもりはなかった。彼女が、こんな目のつくところに逃げ込んだりしなければ。
 眉間に微かに皺を寄せる。
(しかも入り込んだのが『渡り鳥』か)
 変わり者の多い傭兵ギルドだが、腕利きしかいないのが周知となっている。
 ここで護衛でも雇おうというのか。小癪な。
 しかし半永久的に護衛を雇うことはできない。それほどの賃金をあの娘が持っているとは思えなかったからだ。
 ではどうする気なのか?
「…………」
 ヨミは少し考え込んでから、視線を動かす。
 トリッパーの娘は一階の酒場へと移動したようだ。そこから動く気配がないことからも、こちらの気配を察知したのかもしれない。
 勘のいいことだ。
 戦いの素人のくせに……これだからトリッパーは不気味なのだ。
 ヨミはたん、と小さな足音をさせてから振り向きざまに跳躍した。すぐさま、路地裏に着地する。細い道には、酒場特有の調理の匂いが充満していた。
 中央広場は帝都にやって来た者たちにとっては華々しく映る場所だ。噴水が中央にあり、そこをぐるっと囲むように酒場や宿屋が立ち並んでいる。乗合馬車も活気に行き交っているし、なにより人の数が多い。
 そしてここは傭兵たちの溜まり場でもある。
 ヨミのように、セイオン出身の者は大抵が傭兵になることを選ぶ。戦の神とされるデュラハの末裔だということだが、この帝国では『神』の存在など認められていない。宗派も、『イデム教』しか許されていない。
 身体能力の高いセイオンの戦士たちは、島を守るか、本土にやって来てその腕を振るうか、その二択を選ぶ。だいたい男女ともに、だ。
 ヨミはそういう環境で育ったから驚いたものだ。本土の女たちの保守的なところなど、セイオンの女にはない。結婚をするのに打算もなにもない。ただ気に入った相手と交わるだけだ。
 だが一夫一妻制をとっている帝国の支配下にあるので、だれかれかまわず、ということはできない。一応結婚した相手とだけ交わることになっている。
 そして生まれた子供は13歳になった時点で本土へと行き、職業を登録するのだ。その空白の欄に、「傭兵」と書く者は多い。
 けれどもヨミはこの帝都でいったいどれほどのセイオンの戦士と会っただろう? この両手の指だけでも足りるほどだ。
 それに……。
 そこまで考えてヨミはハッと我に返った。
 するりと夜の闇にとけるようにヨミは動いた。光の届かない箇所を歩き、気配を絶つ。
 ヨミの人生はある日から狂ってしまった。いつからこんな風に、光を避けて暮らすようになったのだろう?
 光を苦手とするようになったのだろう?
 明るい太陽の下が苦手になって、歩くのが億劫になるほどなんて……。
 しっかりとした足取りで歩くヨミは、トリッパーの娘のことを考えた。彼女がどのように出てくるかで行動指針は変わる。だがもう一つ、ヨミにはやらねばならないことがあった。
 紫電のルキアに、会うことだ。

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