Barkarole! インベル20

 まるで処刑台のようだな、とマーテットは思った。
 亜子は気づいていないだろう。彼女は選んだのだ。
(よりによって、おれかよ……)
 誰かを支えたいという気持ちも、進むべき道の一つだ。そして亜子はその相手として、マーテットを選んでしまったのだ。
 なにがいいんだろう、自分の。
 恋、ではないだろう、さすがに。
 たった数日の間にマーテットはかなり本性を晒している。女にモテたためしもない。卑下しているのではなく、厄介だなと自分でわかっているからだ。
 ポケットから片手だけ出し、だらんとさげる。
 相手にするのは、中央都庁のお偉方だ。亜子は特殊なトリッパーだから、無難な職に就けたかったのだろう。
 とはいえ、申請を通常却下することはない。できないのだ。
 本人の意志を尊重するという形をとっているこの帝国では、滅多なことがない限り、職業登録は本人の希望通りに進む。
 とはいえ、そのままその道を進む者もいれば、別の道へと方向転換する者もいるのだ。ああ、本当に「道」じゃないか。分かれ道もあれば、十字路もある。もちろん、来た道を「戻る」道も。
 亜子は魔術師になろうとした。その理由を、マーテットはオスカーから馬車の中で聞かされていたのだ。
 彼女は、魔法院に残ろうとしたのだ。それで、確率の高い魔術師へと志願した。
 しかしなりたいからといって簡単になれるものではない。魔術師というのは大きく、もっている魔力や才能が左右する職業なのだ。努力ではどうにもならない部分もある。
 彼女は給仕でもよかったのだそうだ。だが、それでは配属先がどこになるかはっきりしない。
 魔法院だ。マーテットがいる場所に、彼女はいたかったのだ。
 いくらなんでもマーテットにもそれはわかる。そして「なんでだ?」と思ったのだ。
 彼女を怒らせたり、怖がらせたりと、様々なことをしてきた。彼女の忘れ去ろうとしていた過去も、少し覗いてしまったのだ。
 そう……マーテットは、亜子が暴力を嫌う根本的な部分を、リカンが生徒たちに襲われたあの件で知ってしまったのだ。
 亜子の父は、母に、手をあげていたようだ。そして彼女は、それを見ているだけしかできなかった。
 母を慰めることしかできない無力な己に、彼女は悔やむことすらできなかった。彼女の言葉は母親には届いていない、とマーテットは読んでいる。
 亜子は一人だった。
 独りだった。
 だから、独りのマーテットを見て、安心してしまったのだ。
 独りでも平気なマーテットに、憧れを抱いてしまったのだ。
 妙な情けなんてかけるんじゃなかった。
 そうは思うが、ここ数日が楽しかったのは本当なのだ。腹の立つ任務も順調に終わって、終わった矢先に敵に絡まれてしまっても。
(おれ、疲れてんのかね)
 年下の少女に翻弄されている気がする。手を差し伸べたい衝動にかられる。寂しければ、手くらい繋いでやるよ、と。
 ばかな。
 その考えの愚かさにマーテットは自身で苛立つ。
「アスラーダ」
 厳粛な声に、マーテットは皮肉げに口角をあげた。
「だーかーら、もう決めたんだ。『ヤト』の権限使ってでも、あのトリッパーは傍に置く」
「実験体にするならば、その施設へと移送を……」
 誰かが小さく言った声に、マーテットが激怒の声をあげた。
「ふざけてんじゃねえぞ! おれが助けた命を弄ぶつもりかよ! ああ!?」
 睨み付けた小太りの男は「ひぃっ」と声をあげて、すぐそばの男たちの間に隠れるようにしてしまう。
 マーテットは眼鏡のブリッジを押し上げた。
「正式な職業登録が必要ってんなら、用意するっすよ。ただ」
 目を細めるマーテットが低く笑った。
「現役『ヤト』から権限を剥奪できるなんて、馬鹿なこと考えるのはやめるんだな?」



 オスカーに連れ出された亜子は、再び猶予を与えられた。
 ぬるま湯のような世界に再び戻されたが、それは間違いだった。
 マーテットが突如、研究室を閉鎖すると言い出したのだ。まさに晴天の霹靂だった。

「ど、どうして?」
 驚く亜子は、すっかり落ち着いてしまった研究準備室を振り返る。この地下室はマーテットにとって、居心地のいい場所だったはずだ。
 亜子も同様で、ここが落ち着く場所になってしまった。それなのに。
 マーテットは「あー」と面倒そうな声を出し、眉根を寄せる。
「ちょっとまぁ」
「ちょっと?」
「気にすんな。本拠地が移動するだけだし」
 へらへらとするマーテットを不審に思いながら、亜子はそわそわと動き、視線も同様に動かす。
 どうすればいいだろう? どうしよう?
 そんな心の動きがすべて出ていたのだろう。マーテットがげらげらと笑っている。
「一旦、ここを出るだけだ。ま、一週間くらいか? すぐに戻ってこれるって」
「一週間」
「その間、アトはおれっちの屋敷に移動な?」
「え!?」
 本気で驚いた。マーテットも貴族の端くれなのだから屋敷持ちでもおかしくはないが、イメージが結びつかなかった。
「だーいじょうぶだって。ま、うっるせーのがいるくらいだから」
 はにかむように笑うマーテットを見て、冷汗が出た。
「マーテットさん……出張って、どこに?」
「企業秘密」
 くすりと笑う彼の言葉にますます不安が広がっていく。
 結局わからないことは多い。マーテットが秘密主義なのもいけなかった。
 まだ信用されていないのかと落ち込む亜子に、マーテットは「ん」と手を差し出す。
 目の前に出された手に、亜子はどうしていいかわからない。
「ぎゅっとしねーの?」
 軽く首を傾げるマーテットの前で、意味を理解した亜子が顔を耳まで真っ赤に染めた。な、なんで?
 そっと上目遣いで彼を見遣ると、笑っていた。
「ほれほれ。にぎらねーの?」
 ひらひらと目の前で泳がせる手を、亜子は慌てて捕まえた。大きな手は、マーテットのものだ。彼の、ものだ。
 安心して胸をゆっくりと撫で下ろしていると、ハッとして彼を凝視した。
「マーテットさん、誤魔化してますね!」
「なにがあ?」
 くすくすと笑うマーテットは、ぎゅ、と握り返してくれる。それがとてもあたたかくて、亜子は手を離すきっかけを失ってしまった。



 馬車に乗って到着したのは、見るからに豪華な屋敷だった。さすがにシャルルほどとはいかないが、これでも目がちかちかするようなオーラが出ている屋敷だった。
 大丈夫だろうかとうかがっていて、なんだか懐かしさすら感じる。妙な感覚に戸惑っていた亜子は、マーテットに手を引かれた。
「ほらほら、ぼーっとしてないで来いってのー」
「あ、はい」
 繋がれた手を見下ろしたのは一瞬で、亜子は彼に引っ張られるように歩いた。屋敷の手前で馬車がとまったからか、庭園がとても広いことにも気づけなかった。
 両開きのドアを乱暴に開こうとした矢先、内側からそれがなされた。面倒そうな顔になるマーテットの前には、ずらりと並ぶ使用人たちと、きらびやかなエントランスホールだった。
「相変わらず悪趣味な屋敷だな……」
 ひとりごちるマーテットの囁きは、亜子の耳には届いていた。確かにちょっとまぶしい。
「おかえり、坊ちゃん!」
 太い身体を揺らしながら、女給頭のような女性が奥から両手を広げて出てくる。
「マーサ、こっち」
 ちょいちょいとマーテットは亜子を指差した。彼女は目を丸くする。
「あんれ。坊ちゃん、新しい使用人はまだ……」
「違う。居候」
「お客様でしたか」
 急に丁寧な口調になられて、ああ、と亜子は気づく。明らかに自分の外見は貴族には当てはまらない。だから彼女は自分を識別するのに時間がかかったのだろう。
 頭をさげる亜子の背中をずいっと押して前に出す。
「しばらく置くから」
「わかりました」
 それだけでやり取りが終わったようで、マーテットは「部屋は空いてるとこ適当に」と言付けてさっさと屋敷を出て行ってしまった。
 唖然とする亜子に、マーサが嘆息する。
「やれやれ。相変わらず勝手なご主人様だ」
 彼女は亜子に視線を遣り、それから小さく笑う。
「ささ、お嬢さんはこちらへ。お部屋は常に綺麗にしてあるけど、希望はありますかね?」
「あ、えっと……できれば」
 できれば……と、視線を彷徨させる。なにかが脳裏に過ぎるが、追い払った。
「普通のサイズがいいです。狭いほうがいいかもしれません」
「そうですか」
 にかっと笑う彼女は亜子を案内して階段をのぼっていく。亜子もそれについていった。
 エントランスホールに集まっていてた使用人たちはマーサの号令で一斉にそれぞれの職務に戻ったらしい。
「ここがお嬢さんの部屋だ」
 ドアを開くとそこは、かなりの広さがあった。ぎょっとする亜子にマーサが苦笑した。
「ここでは一番狭い客室でもここしかないんです」
「い、いえ。ありがとうございます」
「…………」
 じっと見つめられて、亜子は困ってしまう。彼女はまじまじと顔を見つめてきて、それからなにか含んだような笑みを浮かべた。
「???」
「では失礼します」
 さっと退室した彼女と違い、残された亜子はどうしていいかわからず、ゆっくりと室内を振り返った。広すぎて落ち着かないことこのうえない。

 そしてこの屋敷での生活は、始まって2日目で「その理由」を知ることになる。


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