Barkarole! インベル19

 マーテットは研究室のドアを開けた。
 静かだった。
 背後を振り向いても、誰もいない。
 まあ、それもそうだ。
(…………)
 亜子がなにを選んだのかは、きっと教えてもらえないだろう。そして一度離れれば、もう二度とおそらく会うことはできないだろう。
 ドアをぱたんと閉じて、いつも座っている椅子にこしかける。
 リカンの件も含めてあれこれと報告したり、手続きに手間取ったが、彼女は無事に生還を果たした。
 もう。自分は彼女に会うことはできないだろう。
 この部屋に呼んだ時、彼女はかなりおどおどしていて、キメラを見てものすごく驚いていた。
 思い出してふいに微笑んでいる自分に気づき、マーテットはこほんと小さく咳をして、己を戒める。
「さーてと」
 静かな室内は、戻ってきた日常を思わせた。
 机の上に置かれた器具を手元に引き寄せ、亜子の前では決してしなかった実験を始める。なにせ内密でことをおこなっているのだ。彼女にも知られるわけにはいかなかった。
(なっつかしぃな〜。ここしばらくはアトの観察ばっかして、て……)
 思い返して、渋い表情になる。
 ふところから取り出した手帳を眺め、処分をどうするか考える。観察した記録は保管すべきだ。だが……。
(なんというか、こういうの『引きずってる』みたいでさー)
 ちょっとどうだろう?
 まあいいかと手帳をおさめて、マーテットは亜子には気づかれなかった足元の棚から薬品を取り出していく。
 机の下が実は物置になっているのだが、普通は気づかない。
 机の上に薬品を並べて、色や匂いを確かめていく。亜子が眠っている間も確認はしていたが、こうして毎日の確認を怠ることはできない。
 さらさらとノートにすべての項目のチェックをしていく。
「あ、そういえば」
 回診にも行かなければ。
(めんどくせ……)
 けれども自分の興味をそそられる相手ではあった。あのセイオンの傭兵は。
 なんだかすべてが一気に色あせたような気がしてくる。
 味気ない研究室を見回し、それからイライラしてきて立ち上がった。
「メシ!」

 食堂へと続く廊下をずんずん歩いていると、畏怖の目を向けてくる多くの生徒たちとすれ違った。
 どいつもこいつも。
 結果的には、あの生徒たちはまんまとリカンの罠にはまったということだろう。
 リカンの最期は壮絶なものだった。亜子には伝えていないが、リカンは壁に押し潰され、酷い惨状となっていた。
 自我はほぼなくなっていて、完全に狂っていたというのに。
(主への忠誠心か……)
 シャルルの言っていたことを思い出す。誇りのために死ぬ者もいる。
 あれは、あんなのは「誇り」なんかじゃない。妄信だ。一方通行な想いだ。
 フィリのほうは完全に自我崩壊をしていて、現在は牢で拘束されてはいるが、いつ死んでもおかしくない状態だ。なにせ、食事をとることすら忘れてしまっているのだ。ただ呼吸しているだけなのだから、死はあっという間に駆け足でくるだろう。
 食堂へと足を踏み入れる。カウンターにいたはずのリカンはもういない。
 同情なんて、しない。敵対国の間者だったわけなのだから。
「おい、マーテット!」
 背後からかけられた声にマーテットは振り向く。
 荒い息を吐き出すオスカーの姿があって、驚いた。
「あれえ? オッスの旦那がなんでここに?」
 いくら古巣とはいえ、彼が魔法院に来ることはかなり珍しい。しかも明らかに急いでいて、マーテットを探していたようだ。
 目を丸くしているマーテットに掴みかからんばかりの勢いで迫ってこられて、マーテットは後退してしまう。
「え? な、なんだあ?」
「おまえ! 責任とれるんだろうな!」
「ハ?」
 なんのことだ?
 理解できないでいると、オスカーは顔をしかめてからマーテットの手首を掴んだ。思わずマーテットは振り払う。
 そもそもマーテットは他人に触れられるのが嫌いなのだ。
「なにすんだよ、いってーな」
「いいから来い! 問題になってるんだ、おまえのことが!」
「はあ? 報告書は提出しただろ。不備なんかなかったはずだけど」
「いいから!」
 強引とも言える口調に、渋々マーテットは歩き出すオスカーに続く。マーテットの姿は見慣れたものではあるが、明らかに軍の正装姿のオスカーは目立つ。
(もしかして、今からドンパチする相談かぁ?)
 そんなものに参加する意味はないだろう。自分は頭を使うポジションではない。
「怪我人か病人でも出た、ってわけじゃあ……ないんだよなぁ」
 ぼんやり呟きつつも、彼についていくと、今度は正門から外に出る羽目になった。さすがにオスカーが愛用している彼の馬車に乗せられるのは多少なりとも抵抗をおぼえた。
(ドアを開けたらルッキーがいそうなんだもんなぁ)
 いたら、やだな。こわいな。
 そう思っていたが、車内にルキアの姿はなかった。
 乗り込んで腰を落ち着けると、苛立ったような様子のオスカーを細目で眺める。
「それでぇ? おれっちになんか御用っすか?」
「おまえのところにいたトリッパーのことだ」
 端的に切り出すオスカーの言葉に、マーテットは軽く目を見開く。だが動揺を悟られまいと、すぐにへらっとした笑みを浮かべた。
「いたっすねぇ。いい実験体になったと思うのに、ほんと残念っすよ」
「その実験体が、問題を起こしているんだ!」
「え?」
 本当に驚き、マーテットは硬直した。



 最初にここに通された時の緊張感は忘れられない。
 亜子は大勢の人々に囲まれて、まるで珍獣のように晒されていた。
 審問所、でも言うべきだろうか。
 視線を一手に受ける亜子は、目の前の中央部に座っている老人をなかば睨むようにして見ている。
「アガット=コナー、職業登録書の白紙はどういう意味かな?」
 何度も説明したというのに、それでも納得しない。頑固なのは仕方ないと思うし、認めたくはないのだろう。だが自分は決めたのだ。
 亜子は暴れられないように両手首に枷をつけられて、部屋の中心に立っていた。
「白紙では提出していません」
「だが、ぬしの申請したものは職業ではない」
 ゆえに『白紙扱い』となっている、と再び説明された。
 撤回する気のない亜子は、悔しそうに唇を噛み締めた。
 どうすれば、と考えて視線をさ迷わせてしまう。ここには亜子の味方はいない。
 心細くなり、拳を握り締めた。
(マーテットさん……)
 彼と繋いだ手の感触を思い出す。先を歩いてはいても、きちんと振り返ってくれる彼。手を差し伸べることは滅多にないけれど、それでもやさしいひと。
「あたしは……!」
 バン! と荒々しい音が響いて、室内がしん、と静まり返った。
 部屋の両開きをドアを開けて姿を現したのは、白衣を軍服の上に羽織った長身の男だった。彼の登場に、人々は一瞬目を瞠り、ざわつく。
 マーテットは丸眼鏡のブリッジを軽く押し上げて、ずかずかと亜子に近づいてくる。そして中心に座る老人を睨んだ。
「なぜ認可しないんすか」
 ぶっきらぼうな声のマーテットは、軽く亜子を拘束している枷に触れて外してくれる。
「彼女の希望は『魔術師』なんすよね?」
「魔力が一切ない者に、なれるわけがない」
 なにより魔法院に入れるほどのお金が亜子にはないのだ。
 なら、とマーテットが口を開いた。
「彼女の後見人におれっちがなるなら、どうだ?」
 ざわり、と室内が揺れる。
「魔術師になれないのは百も承知! なら、おれっちの助手ってことで雇うのはどうだ?」
 え、とマーテットを亜子は見上げた。
 彼は亜子の肩に手をまわして、ぐいっと引っ張ってくる。
「それなら問題ねーだろ。監督役はおれっちが引き受けてやらあ」
 にやりと口角をあげて言うマーテットの言葉を亜子は呆然と聞く。
 だが老人が反対した。
「おまえに他意がないとは思えないがな」
「こっからは」
 亜子から手を離して、マーテットは不敵に笑って白衣のポケットに両手を突っ込んだ。
 長身の彼がこういうポーズをとると、とてもサマになる。
「大人の話し合いをしようや。わけのわかってない子供相手にあれこれ言うのも可哀想だしな」
「なんだと……」
「うるせーなぁ」
 マーテットは低い声で呟く。
「アガットはあれこれ考えて結果を出したんだ。おまえらがとやかく言う必要なんてねぇだろが」
 亜子ははらはらとその様子を眺めるしかない。実際問題として、異能のことだけ考えれば亜子の存在は危険なのだ。
 けれども、なんだろう。魔力がまったくないからという理由で阻まれるのとは少し違う気がした。その理由がマーテットにはみえているのだろう。
 彼はふいに亜子を見て微笑む。
「おまえが自分で掴み取ったものだ。もっと堂々としていい」
 その言葉、で。
 亜子は唇をわななかせ、噛む。
 選んだのは、ちがうものだ。
「あ、あたし」
「ん?」
「マーテットさんの傍にいたい!」
 彼はちょっと驚いたように目を見開き、それから仕方ないなあとばかりに頭を撫でてくれる。
「てわけだ。おれっちが後見人になってもよくね?」
「では職業はどうするのだ?」
 当然だとばかりに、室内のあちこちから非難の声があがる。身を縮ませる亜子と違って、マーテットは堂々としたものだ。
「アスラーダの助手というのは暫定的は措置。本来なら、魔力がなければ研究者は務まらぬ」
「あっそ」
 わかっていたかのようにマーテットが皮肉っぽく笑う。
「おぬしの研究とて、特例中の特例なのだぞ」
 わかっているのかと言外に責められているマーテットを亜子は見上げる。彼は面倒そうに目を細めただけだ。
「あたし」
 震える声で、亜子は小さく言う。マーテットだけには聞こえる音量だ。
「自分になにができるのか、まだはっきりしない。だから、見つけたい……」
「…………」
「マー……」
「もう見つけてる」
 ぽつんと、マーテットはまっすぐにこちらを見て言った。
 え、と亜子は呟いた。
 そして彼女はいつの間にか入ってきていたオスカーによって部屋から連れ出された。扉が閉まる前に見えたのは、マーテットの白衣姿の背中だけだった。


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