Barkarole! インベル21

 食堂でちまちまと食事をとっていた亜子は、マーサに丁寧口調をやめてもらうようにお願いしていたので、彼女とはわりと仲良く過ごしていた。
「今日もマーテットさんはお仕事ですか?」
「ああそうだな。坊ちゃんはいっつも実験だー、仕事だーって、勝手してるんだ」
 うんうんと頷くマーサに亜子は小さく笑い、食後の紅茶を飲む。こんな、食事作法もままならない人間を、寛容に迎え入れてくれてありがたい。
 でも、とマーサは神妙になる。
「坊ちゃんは、侵攻準備で忙しいんだろうね」
「え?」
 しんこうじゅんび?
 漢字変換ができなかった亜子は怪訝そうにマーサを見上げる。彼女は亜子の驚きを違うようにとったらしく、唇を尖らせていた。
「お客人をほったらかしにして、まったく!」
「いえ、あの……しんこうって?」
「他国へ戦争を仕掛けるって、いま帝都はざわついてるんだよ」
 その言葉に、亜子はやっと理解した。
「マーテットさんが、戦争に行く?」
 うそ。
「だって、研究室をただ」
 ただ?
 亜子は呆然と座ったまま、自分の発した言葉を確かめるように、何度か呼吸する。
 マーテットだけではない。帝国の精鋭の軍人たちは、準備を整え次第、別の国へ……つまり、帝国に仇なす存在を破壊に向かうのだ。
 そこには蹂躙と、破壊と、殺戮しかない世界だ。
 彼らは帝国軍の者。軍に所属し、帝国に害をなす存在を滅しなければならない。
 軍の存在意義は、自国の防衛と、敵国の撃破にほかならない。敵国と交渉をするのは軍ではなく、政をおこなう者たちなのだ。役割が、違う。
 亜子にとってはなんとも現実味のない話だった。
 確かにこの数日の間に色々と危険な目にはあったが……戦争?
 大勢の人間が傷つき、大勢の人間が殺される?
 そんな恐ろしい行為をしに、マーテットは行ってしまうのか?
 亜子は顔を引きつらせた。
「なあに」
 マーサは寛容に笑ってみせた。
「坊ちゃんは無事に帰ってくるから安心しな。なんたって帝国軍なんだからね」
 その自信はなに? 根拠なんてない。
 亜子の脳裏には、失われた勉学の歴史がちらちらと、星のように瞬いて消えていく。
 自国を最強だと謳う国ほど、負けた時はあっという間なのだ。
 浜辺に作られた砂の城のように、波が一気にさらってゆくのだ。
 いくら帝国が広大な陸土を占領していたって、軍が強くたって、『必ず』とか『絶対』とかは、ないのだ。ありえないのだ!
 なにが起ころうとしているのは把握したい。亜子は立ち上がってきびすを返した。マーサの止める声も聞かずに、マーテットの書斎へと駆け込んだ。
 ぐちゃぐちゃに本が床に散らばっているそれは、研究室よりもひどい有様だったが、それも気にならなかった。触らないように使用人たちが配慮してあるのだろう。位置だけ変えずに掃除はしてあるようだ。
 亜子は目指す本を探すために、それらをひっくり返した。山積みになった本の塔を崩し、タイトルに目を走らせる。
 誰かに教えてもうおうにも、マーテットはきっと曖昧にはぐらかすだろう。彼は言ってくれない人種なのだから。
「なあに、やってんのかね〜」
 そんな声がかけられた頃には、すっかり部屋の中にオレンジ色の光が充満していた。夕暮れだ。気づかなかった。
 振り返った亜子は、呆れた表情のマーテットを見る。ドアに背を預けて、彼はふぅんと洩らした。
「お目当ての本は見つかったか?」
「……マーテットさん」
「見つからなかったか」
 彼は肩をすくめ、それから苦笑した。皮肉そうな笑みに、亜子は顔をゆがめる。彼はわかっている。ここで亜子が何をしていたのかを。
「あたし」
 あたし。
 よろりと亜子は立ち上がった。
「マーテットさんのこと、全然知らない」
「身長とか体重とか、そういうこと? 学歴とかもか? 趣味? それとも性癖とかまあ色々、その他諸々とかか?」
「マーテットさん!」
 思わず怒鳴ると、彼は面倒そうな表情をして、嘆息した。
「心配してくれてんのは、わかってんだけど。これは軍人として当たり前のことなんだぜ?」
「っ、そ、そうですけど」
「トリッパーの世界にだって、軍はあったろ? 戦争だってあるだろ?」
「あります、けど」
「だったら、おかしなことなんて何もないだろ。おれっちは軍人。だから戦いに行く」
 なんでもないことのように言うマーテットに、もどかしそうな視線を向けてしまう。彼は聡いので、それだけで亜子の心を見透かしてしまうのだから、困ったものだ。
「だーいじょうぶだって。おれっちが死んでも、なんとでもなるようにはしてやるからさ」
「は?」
「自分のことも心配しとけってこと。ま、おれっちは軍医だし、特殊任務に就くから死亡率はわりと低い……とは仮定してるけど」
「そ、そういうことを……!」
「おれっちはおまえの保護者なわけよ」
 端的に言い放った彼の言葉に、亜子は目を見開く。
「だからぁ、おれっちの死後どうなるかってとこまでは考えておくのが筋だろうから、一応は考えてる。ま、簡単な方法で済ませたいんだけど」
 正直なところ。
 ぶつくさと言うマーテットに、亜子は顔をしかめた。
「これから始まる戦争は、規模はどれくらいになるんですか?」
「はあ? あー、まぁ、そうだな。……悪いけど、言えない」
 言いかけて、彼は口を噤む。職務に関する内容は洩らしてはいけないようになっているのだ。
 亜子は俯き、拳を握り締める。
「べつにあたし、あたしのことなんて、もう、べつに」
 自分に道はない。最初からなかった。どうやっても見つからない「道」なんて、探していることが途方もない力を使う。
 マーテットには悪いが、亜子は地学者の道に進むべきだろうと薄々思っていたのだ。
「あーのーさ」
 マーテットが間延びした声を放ちながら、器用に床に散らばった本を避けて近づいてくる。
 亜子を正面から見下ろし、彼は「ん」となにか差し出してきた。
「指輪、ですか」
「そ。婚約指輪ってやつだな」
「へぇ、こんやく……え?」
 仰天して仰け反る亜子の掌に、ぽん、と指輪を置いた。あまりにも気安いので衝撃を受けたまま硬直している亜子に、マーテットは言う。
「おまえはもう、選んだんだよ。気づいてなかっただけで」
「え? ええ!?」
「おれっちの傍に居たいってのは、その人を支えたいってちょっとは考えたってことだろ?」
「そりゃ……」
「だからそれ、やる」
 平坦に言うマーテットの言葉の意味が理解できない。
 指輪と彼を交互に見遣った。
「あ、それとも好きな人じゃないとイヤとかそういうタイプ?」
「え? あ、いや、そういうの、よくわからなくて」
「あっそ。じゃあちょうどいいんじゃない?」
 なにがちょうどいいのか、と亜子が怪訝そうにうかがうと、マーテットはにっこりと、それはもうびっくりするくらいに美しく微笑んだのだ。この人にこんな笑顔ができたのかと、驚愕するほどに。
「一緒に好きになっていく努力してみるってのも、楽しそうだし」
「そ、そんな! だって、マーテットさん、あたしが途中で離婚したいとか言ったら、いえ、マーテットさんが別れたいとか思ったら……」
「んー、それはないかな。だっておれっち、気に入ってるから」
 誰が、とは言わない。
 亜子は耳まで真っ赤にして、立ち尽くす。
(あたしが、マーテットさんを好きになる?)
 結婚して? 相手を好きになっていく?
 なれるのだろうか?
 もう一度、じっくりマーテットを見た。意識が変われば、見方も変わる。それを痛感した。
 指輪を両手で包むように持ち、亜子は頭をさげた。
「やっぱり、その」
「なに? おれっちと結婚するのいやなわけ? 一応、上流貴族なんだけど、これでも」
「余計に!」
「体面とか気にしないし、それは『婚約』指輪だ。正式に結婚するわけじゃねーけど、ま、おれっちが死んだ時のための保険ってやつだな」
「そんなの」
「嫌とか言い出すなよ? それに」
 彼はにやりと笑う。いつもの笑みだった。
「おれっちが戻ってきたら、どう思ったか聞かせろ」
 命令のようなその言葉に、亜子は心臓を鷲づかみにされたかと錯覚した。
 どう、って……。なに? どういうこと?
 混乱する亜子が相当面白かったらしく、マーテットはすぐさまげらげらと大笑いをし始めてしまった。



 ベッドの上に寝転んだ状態で、亜子は指輪をしげしげと見つめていた。宝石は、これはなんだろう? 高いんだろうなぁ、たぶん。
(装飾も凝ってるし、なんか、マーテットさんのイメージと結びつかない)
 混乱する亜子は、体を横にして丸めた。
 指輪が、なんだか愛おしい。
(マーテットさん、無事に戻ってくるよね?)
 でも戻ってきたら、その時自分はどう思うだろう? 彼を、どう……。
 考え出して、顔が熱くなってきた。
 彼の言う『簡単な方法』というのは結婚で、亜子を路頭に迷わせないためにする手段の一つにすぎない。
 それとも。
(単に、トリッパーへの興味、なのかな)
 気に入ってる、というマーテットの言葉が脳裏によみがえり、ぶんぶんと頭を左右に振った。
 マーテットはとっくに出立している。彼が戻ってくるまでがリミットになる。そしてそれは、本当の決断の『時』なのだ。



END

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