亜子が目覚めたのは病室だった。呆然として天井を見つめていると、看護婦が覗き込んできた。
「! アスラーダ様を早く!」
口早に彼女は命じて、誰かが部屋を飛び出す音が聞こえた。
あすらーだ?
(ああ、マーテットさんのことか)
なんだか誰かに腕を掴まれてぶら下がっていた夢を見ていた気がする。
その後のことはあやふやだ。ただ必死にその腕にすがっていたような……。
亜子は右手を何度か握ったり、開いたりした。感覚は、ある。
部屋のドアが開く音がして、誰かが入ってくる。視線を動かして見遣ると、マーテットだった。
彼はいつもと変わらない飄々とした態度でにこっと笑う。しかし妙だ。なんだか余所余所しい感じがした。
「失礼します」
「あいよ」
出て行く看護婦にそう返し、マーテットはベッド脇のイスに腰掛ける。長身の彼は大きく体を折り曲げて、亜子を見てくる。
「うーん、顔色は悪くないか。でもま、ちょっと痩せたか」
「? あたし……?」
「記憶が混乱してるだろ。焦る必要はねぇさ」
不気味だった。マーテットが優しい。
顔を強張らせていると、彼が小さく苦笑する。
「死ぬつもりだったのを生かしたおれっちが、嫌いか?」
「…………」
言われたことが理解できないで不審そうにしていた亜子は、急に記憶がフラッシュバックしてきて吐き気に襲われる。
そうだ。自分はマーテットを庇ったのだ。そして、し、死んだ……はず。
あの激痛の中で、もはや意識は保てなかった。死ぬと確信していたのだ。それなのに。
目の前のマーテットを凝視する。彼は医者だ。いや、医者とて万能ではない。亜子のあの状況からして、生死を覆せるとは思えない。
どんな手品を使った?
亜子が脅えるように瞳を揺らす。
両腕を見遣る。どこにも傷らしきものはない。傷が、すべて消えていた。
「あたし、なんで……」
「おれっちを庇った理由が知りたくてな」
そんな理由で助けたのか!?
ぎょっとする亜子を眺めて、マーテットは身を離す。そして朗らかに笑った。
「ハハッ。すっげー顔!」
「? マーテットさん?」
「いやー、いいもん見れた。おれっち、まだこの後用事があるからそろそろ行くわ」
「えっ、あの」
戸惑う亜子が止める間もなく、マーテットは白衣をひるがえして部屋を出て行ってしまった。
部屋を出たマーテットはすぐさま表情を切り替える。暗い表情になった彼は、口の中で噛み殺すように呟いた。
「手放すのが惜しいな」
*
待っていたのは決断だった。
中央都庁。そこに再び連れて来られた亜子は、じんわりと浮かぶ汗を隠せずに馬車の中で硬直していた。
誰かに傍に居て欲しい。怖い。さびしい。
これから、この居場所のない世界で自分は生きていかなければならない。
自信は、ない。
生きていくのは過酷なのだ。死んでいればどれだけ楽だっただろう。
(マーテットさんのバカ……)
苦々しく思いながらも、膝を抱えて頭を伏せる。
(なんて顔してんの)
嫌いか? なんて。
(嫌いなわけ、ないじゃない)
あなたしか、この世界で頼れる人がいなかったのだから。
それでもやっぱりマーテットはマーテットだ。彼は背中をおしてくれる人ではない。決断をつける時間を与えてくれる人でもない。
ただ流動的に、あるがままに、受け入れる人だ。その中でできることを見つけていく。
彼は彼なりの歴史があり、何度も挫折したことだろう。打ち勝てない存在もいるだろう。
でもそれを受け入れて、自分の居場所を獲得している。
(マーテットさんはどうやって、お医者さんを目指したんだろう……)
魔術師としては才能がなかったというマーテットだが、それは嘘だろう。才能もあり、有能だったからこそ、彼は方向転換をしたのだ。
自分を活かせる道を。
選んだ。
亜子はゆっくりと顔をあげる。
(見つからない)
まだ見つかっていない。
けれど決断は迫っている。
ならば。