誰かが泣いている。
誰かが泣いている。
亜子はその泣き声の主を探していた。ここは真っ暗で、なにも見えない。
どこにいるのだろう? なんて悲しい泣き声なんだろう。
わあんわあんと、反響する暗闇の中で亜子は歩く。
ひたすら歩き続けて、やがてぼんやりと白い光が見えた。それは幼い子供の姿をとっていた。
声をかけるべきだろうかと悩んでしまう亜子の前で、子供は口を開いた。
「止まらないよぉ」
なにが? と亜子は疑問になる。
「やまないよぉ」
なにが? と亜子は怪訝そうになる。
「うるさいうるさいっ」
子供はかんしゃくを起こしたように頭に両手を添えて、振る。どうしてこんな状態なのか亜子にはわからない。
ここはどこだろう? そもそも自分は誰なのだろう? 亜子という名前しかわからない。
どうしようかとうろたえていた亜子に、子供はふいに動きを止めて指差した。まっすぐ先だ。
「?」
わけがわからない亜子は、その方向を見ることしかできない。指差す方向には何もない。暗闇だけだ。
視線を子供に戻すと、いきなりその光は大きくなっていた。長身の青年の姿になっていた光は、指差し続けている。
「…………」
見覚えがある?
亜子は相手を凝視した。
光はランタンを持っている。そのランタンを亜子に手渡した。そしてまた、指差す。
「マーテットさん?」
名前が自然と口から出ていた。まったく見覚えのない人のはずなのに。
受け取ったランタンを見遣り、亜子は首を振る。
「行けない」
行けない。
「あたし、迷ってる」
正直な気持ちを口にした。
この世界に来て、どう生きていいのかまだ決めていない。決められない。
マーテットは優しい人だ。彼は実は気遣いが細かく、相手を怒らせはするがわざとのところが大きい。
そして、ひどい寂しがり屋だ。きっと気づいてはいないが。
「生きる理由が見つからない」
彼の優しさに溺れてばかりで、結局、なにも見出せてはいない。
暗闇に光が溢れる。眩しさに思わず瞼を閉じてしまう亜子は、そっと開いて光景を確かめた。
雨が降っている。
そこは広大な庭だった。
庭の隅で、少年が泣いている。雨の中、泣いている。
近づく亜子は、彼の目の前で小さな小鳥がぐちゃぐちゃになって死んでいるのを愕然と見つめた。
これは……なにかに襲われたのだろう。無残な状態に目をそむけたくなったが、少年が小鳥に語りかけているのに気づいて亜子は動きを止める。
「いらない」
いらない。
「いらないよ、おまえの思い出なんて」
恨むような声音で言う少年は、憎悪の瞳を小鳥に向けていた。生前は美しかったであろう翼は骨が出て折れ曲がり、雨が静かに血を流し落としていく。
少年の傍には、鳥かごがあった。そうか、ここは彼の屋敷の庭なのだ。そしてこの鳥は、飼っていたそれに違いない。
幼い子供とは思えない表情のまま立ち上がる。かごを置いたまま、彼はそのまま立ち尽くして鳥を凝視する。
「捨てていく」
呟き、そして。
光景が消えた。
雨音は消えない。
暗闇で響くその音はひどく不気味で、心細くさせる。
「マーテットさん……」
光にそう呼びかけると、彼はただ黙ってまた指差した。その方向に行けということだろう。
亜子は仕方なく歩き出す。ランタンの明かりは頼りないが、ないよりはましだ。
背後を振り返ると、マーテットの姿をした光は消えている。雨音はひどくなる一方だ。
「っ!」
思わず耳をふさぎたくなる。亜子は走り出した。
必死に闇を駆け抜けながら、この闇はいつまで続くのだろうと恐怖に震える。
出口などないのではないか? そもそもなんで雨が降っているのだ?
もう一度振り向いた。
少年が鳥かごを持って立っていた。はっきりと顔立ちがわかる。あれは……!
「マー……」
ぐらり、と亜子の体が傾いだ。
そのまま足場をなくして一気に落ちていく。まるでもう浮上できないと言わんばかりに。
ああ、ランタンが……!
手放してしまった光が、遠くなっていく。手を伸ばすが届かない。
もがくように亜子はランタンに両手を伸ばす。
脳裏に光が過ぎった。
落ちていく亜子の腕を誰かが引っ張った。がくんと落下が止まる。見上げた亜子は、唖然と恐怖で凍りつく。
「父さん!」
なぜ真っ暗闇でソレがわかったのかわからない。混乱する亜子は、口走った言葉に慄然とする。
ああ。
涙が零れる。
「ご、め……なさ……」
あなたは母もあたしも愛してくれていたのにどこから歪んでしまったのだろう?
父は亜子をいつも想っていた。幼い頃はとても繊細な人だと思っていた。あまり丈夫ではない身体の持ち主で、すぐ体調も崩していては家族に謝っていた。
そんな様子を見なくなったのは、いつからだろうか。
亜子が母に対して従属的になり始めてからだろうか。詳細は、わからない。
だが父は変わってしまった。どこかになにかを、忘れて、いや、置き去りにしてきたかのように変わってしまった。
亜子は、変わり果てた父の姿しか記憶に留めていなかった。
誰だって。
なにかをどこかに置き去りにして生きているのではないだろうか?
亜子とて、おそらくは父の変化のように、なにかがきっかけで変わったのだ。
置き去りにしてきた己の姿が、どこにも見当たりはしない。きっとそれは、取り戻せないものだからだ。
亜子は記憶を取り戻していた。
本当の年齢が18であること。受験に失敗し、落ち込んだ矢先に父が入院したこと。
亜子に残されたものは絶望しかなかった。亜子は捨ててきたのだ。元の世界に、記憶ごと……今までの己の経緯、成長のすべてを。
絶望に支配されることを拒んで、捨てざるをえなかったのだから。