Barkarole! インベル16

 雨の音が、やんだ。
 呆然とマーテットは見上げる。
 マーテットは目の前の彼女を眺める。その小さな身体に、いま、初めて気づいた。
 彼女は『小さい』のだ。自分の体格に比べて、かなり。
「アト……」
 見上げているマーテットを庇った亜子は、額からぬるりと赤いものを流しながら微笑んだ。
「無事ですか、マーテットさん?」
「痛くないのか……?」
 つい、尋ねてしまう。痛くないわけがないのに。
「……どうでしょう?」
「どうってなんだ」
 なんなんだ? コイツはなんだ?
 困惑するマーテットは、自分の頬に落ちた赤いものに瞬きをする。
 彼は自然な動きで手を前に出して、彼女の額にかざした。
 長い詠唱をしていく中、亜子がその呪文を待たずに傷が徐々に消えていく。
「う、ぐ、」
 倒れてきた壁を背負った格好のまま、亜子は呻き声をあげる。重みで足や腕が震えていた。いくらなんでも耐えられる重量とは思えない。
「あ、ま、待て……!」
 慌てるマーテットの上で、ほぼ彼を下敷きにするような格好になったまま亜子は堪える。
「待て! あ、」
 自分が何に焦っているのかわからない。だが、呪文を言い終わる前に亜子の傷は完治してしまった。しかし、彼女は顔をしかめたままだ。
「マー、テットさ……早く、ここから……」
「…………」
 呆然と見上げていると、亜子ががくがくと震える足に力を込めて怒鳴ってくる。
「早く!」
「っ!」
 はっ、として動いた。あまりにも素早い動きで亜子のほうが驚いてしまう。
 マーテットは身を転がすようにして転がり、亜子から距離をとる。その姿を確認し、亜子はホッと安堵をついた。
 髪の毛の色が元の赤茶に戻り、瞳の色も茶色になる。彼女の小さな囁きは声にはならなかったが、唇が動きをマーテットに伝えた。
 ああ、よかった。
 その動きを見届けた直後、彼女は壁に押し潰された――――!



「は?」
 派手な音をたてて亜子が視界から消え失せる。正確には、彼女の居た場所を倒れてきた壁が埋めたのだが。
 彼女の異能は、五感を上げること。能力発動時に治癒能力が向上すること。運動神経、動体視力などの力があがることなど。
 長所や短所を知っているマーテットにとっては、今の事態はまずい出来事だった。
 咄嗟とはいえ、亜子は能力をあげてあの重量の壁を一人で背負っていたことになる。足の震えや、彼女の切迫した声音からも、まずい……。
 そう、まずいのだ。
 そうは思っていても、動けなかった。馬鹿な、と己に問いかける。
 なにをしている、マーテット? おまえは軍医だ。医者なのだ。ならば。
「違う」
 顔を歪めてマーテットは呟く。そしてよろめく足のまま立ち上がった。
「違う!」
 否定の声をあげて、彼は瓦礫に駆け寄った。
「うぜぇな!」
 荒げた声のまま、屈んで瓦礫をどけ始める。
「なんなんだよ!」
 腹が立つ!
 苛立ったままマーテットは瓦礫の下敷きになっていた亜子の腕を見つけた。
 折れているらしい腕は妙な方向に曲がっていた。青ざめるマーテットは、すぐさま冷静な表情に戻った。
 彼女の上から瓦礫をどけると、マーテットは屈み込んで状態を確かめる。呼吸が……。
「……うそだろ」
 愕然と呟くマーテットは、まるで壊された人形のようないでたちで眠る、眠るような亜子を見つめた。
 足も腕も、あちこちに曲がっている。背中には大きな傷もある。そこから流れる血が。
「おい」
 声をかけると同時に、頬に手を優しくそえる。
「おい……?」
 なぜ。
 魔術による回復のものは、一つ。本人の治癒力を底上げする方法だ。これは、どれほど生命力が少なくても可能である。なぜなら、生命力を補うのが術者の魔力なのだから。
 だがしかし。
 目の前の亜子は、息をしていない。
 トリッパーでも死ぬのか? いや、死ぬだろう? 死ぬ?
 頭の中が整理できず、マーテットは苦渋に顔を歪める。
「なんでおれを庇ったんだよ……」
 絶望したような声音で呟き、マーテットは天を仰ぐ。
 彼女から見ればさぞ最低な部類の人間だっただろうに。そのように演じてはいても、本質も近かったので隠しはしなかった。
 マーテットは生きることにも、人生にも絶望していた。面白おかしくしていなければ、もたなかったほどにだ。
 幸い、彼の周囲には飽きさせない人材が揃っていた。『ヤト』のメンバーだ。
 そして任務から外されるまでは、マーテットはこのままただ、生きているだけだろうと思っていた。
 亜子だって、彼の娯楽の一つに過ぎなかったというのに。
「…………」
 ぎりっ、と歯軋りをする。
 瞼を閉じて思案したのは一秒にも満たない時間だ。パッと瞼を開けてマーテットは視線を亜子に戻した。
 顔色が徐々に白くなっていく亜子の頬をもう一度撫で、覗き込むように顔を近づける。
「馬鹿だな。おれは医者なんだぜ……?」
 死なせるわけがないだろうが。
 優しく囁き、マーテットは深呼吸をした。
 まるで口付けをするような体勢のまま、マーテットは口早に詠唱を開始した。唇からマーテットの魔力を亜子へと流し込む。
 薄く開いた亜子の唇は完全に血の気を失っていた。
「『永久の眠りを妨げ、汝の目覚めを待つ』」
 長い詠唱はマーテットの魔力を奪っていく。しかしどれだけ流し込んでも亜子は反応しない。
 彼女の肉体へと左手を伸ばして、かざす。折れ曲がった腕や足へと向けて呪文を放つ。
 ぎぎぎ、と音をたてて彼女の曲がった骨が、細胞が、元へ戻ろうと力を出し始める。かなり強力な呪文だが、これくらいでなければ短時間で肉体を元には戻せない。
「『止まった息吹を取り戻せ。停止した秒針を動かせ。汝の命のともし火は、いまだここに』」
 失った血液を造る必要がある。マーテットは肉体をすべて元に戻したことを確認すると、遠慮なく衣服の上からそれを確認していく。
 内臓の損傷はそれほどひどくなかったのかと、触覚だけで素早く判断する。
 詠唱を続ける限り、マーテットの魔力は減っていく一方だ。同僚のルキアのような異常な魔力は持ち合わせていないので、マーテットの額には珠のような汗が浮かんでいる。
 頼む。
(頼む)
 誰に懇願するのかわからないが、マーテットは誰かの命を救う時、必ずこう思う。
 頼む――。
(頼む、置いていかないでくれ)
 すがりついているわけではない。ただ、自分より先に逝って欲しくない。なんてわがままな願いだろう?
 マーテットはその願いをいつも嘲笑する。立ち止まっている自分が、言えた義理でない願いだからだ。
 助かるのなら、助けるから。己の命を、使うから。
 だから。
 『誰かの思い出に、残滓を置いていかないで』欲しい。
 医者という職業は命の最期を看取ることが多い。だから、いつも思ってしまうのだ。
 悲しむ人間を見るたびに、悲しむのは、思い出があるからだと。その思い出が風化しない限り、嘆きは続くだろう。そして嘆きの風化までは時間がかかる。
「『運命を覆す光を、ここに』」
 額と額が、こつんと小さくぶつかる。さあ、大仕事だ。
 たっぷりと送り込んだ魔力を彼女の体内で爆発させる。
 トリッパーの肉体がどのようにこちらの人間と違うのかわからない。もしかしたら、反動で肉体が爆発してしまうかもしれない。
 けれどこれしか方法がない。
 唇を、合わせた。
 マーテットの瞳に複雑な魔法陣が浮かび上がる。それが起動の合図だったようで、びくんっ! と亜子の肉体がハネた。


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