パキィィン、と割れる音がした。
病院の中心部である部屋にいたリカンは驚愕に目を見開く。
魔法アイテムである、そして媒介をしていた石を入れたランプが壊れた。粉々に。
それは結界が破られた証だった。
「リカン!」
顔色を変えた姉の姿にリカンは唇を強く噛む。
あの御方を救う手立てなら、まだある。まだ。諦めるわけにはいかない。
やり遂げなければならない。なんのために姉妹ともども、こんな不愉快な国にやってきたのか。それは、それはひとえに!
(あの御方をお助けするため!)
ただその目的のために、なんでもしたのだ!
笑顔が過ぎる。眩しいあの笑顔を取り戻すためならば、なんでもやると決意したのだ。
(あの御方を救済する方法さえ掴み取れれば!)
手に入れれば!
「姉さん」
リカンは静かに姉を呼ぶ。フィリは差し出された手を掴んだ。
「マーテット=アスラーダと戦うのね」
「ええ。それしかもう方法がないわ。カーティスの陣が破られるのは計算外だったけど」
本当にあの男は役立たずだ。元・ヤトのくせに。
姉妹は手を取り合って立ち上がる。部屋を出たそこで、ぎょっとして立ち止まった。
「は〜い」
手をひらひらと振っている長身の男の姿がそこに在った。
「あっれ〜? ノーリアクションとかひっでーな。あ? もしかして知らなかった? この病院の中心部って、まぁ近道あるのさ。ほら抜け道ってやつ? ぷぷっ、すっげーカオ! アハハハハ!」
げらげらと笑うマーテットの傍には誰も居ない。
不審そうなリカンに、彼は表情を消す。
「ああ、アト? ちぃっと薬が効きすぎたから、抜いてる。おまえさあ、アトを殺すつもりだったのか」
断定だった。
リカンはそのとおりだったので、口を噤む。
トリッパーがなんだ。利用できればそれでよかった。たまたまマーテットの傍にいたのがトリッパーだったにすぎないのだから。
マーテットは額に手を遣って、低く笑う。
「おれっちはさぁ、一番ヤなんだよなぁ」
細められた目は、まるで虚無のようで。
フィリは恐ろしさに悲鳴をあげた。
「おれっちのお気に入りを無断で壊そうとするなんてさぁ」
一歩ずつ近づいてくるマーテットに気圧されるように、姉妹は後退して部屋へと戻るはめになる。
薄暗い室内に逃げ場はない。完全に追い詰められている。
壁際まで後退していく姉妹を、マーテットは見下ろすように眺める。
「この、恥知らず!」
リカンが気力を振り絞って叫んだ。その声に「お?」とマーテットは反応する。
「おまえたち帝国のクズどものせいで、どれだけあの御方が苦しんでいることか……!」
憎しみのこもった瞳を向けると、マーテットが驚いたように目を丸くした。その反応がまた、憎しみを増大させた。
「死ね! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね! 生きている価値すらない! あの御方に自由を戻せ!」
一気に噴出した感情に、彼はぼんやりとした瞳を向けているだけだ。それから、ぐにゃりと表情を歪めた。
「あー……なるほど。おまえら、蓮国の連中なのか。そーかそーか」
底なしのような瞳のまま、マーテットは笑みを浮かべる。
「うんまぁ、そりゃ呪縛を解いて欲しいよな。大事なお姫さんが苦しんでたら、なんとかしたいよな」
同情的な言葉ではあるが、まったく感情が込められていない。
それがとても冷たく感じられた。まるで意思の疎通のできない相手に言葉を放っているような……。
実際、そのとおりだったのだ。
うろのような瞳で近づくマーテットは心底恐ろしかった。
「わかるかなぁ、なんとかしてやりたいとか、同情を誘おうっていうのもよ〜くわかるんだよ」
彼の視線がちろりと横に動いた。その動きの不気味さにリカンの肌があわ立つ。フィリは恐怖でもはや声も出ないようだ。
自分たちは恐ろしい連中を敵にしている。それを今更、感じている。感じ取っている。
マーテットを狙ったのは、彼が研究者であり、『血の呪縛』に関しても詳しいとカーティスが言っていたからだ。そして、『ヤト』では戦闘能力が著しく低いので狙いやすい、とも。
だがその認識は間違っていた。
きょろ、きょろ、とマーテットは左右へと視線を動かす。
そしてじとり、と真正面の姉妹に照準を合わせた。
「ねーよ」
一言、だ。
笑みを含んだ声の彼に、リカンは最初、何を言われたか気づかなかった。
「え……?」
「自由を取り戻す? なにそれ。そんなもん」
そんなもん――――。
「そんなもんねぇよ!」
叩きつけるようなマーテットの言葉に、姉妹は怯えたように身をすくめた。
「救済なんて、ねえんだよ!」
ないのだ、そんなものは。
血の呪縛はどうあっても、ほどけない。なぜなら、これは呪いなのだ。だれかを、縛るのだ。
「おまえたちがどうしたいのか、わからないでもねーけど」
真っ白な紙にインクをこぼせば、元には戻らない。それと同じだ。「元の状態」に戻すことはどうあってもできない。
混ざり合ったものを、細かく分離することはできない。
マーテットが研究していたのは、そんなことではないのだ。
彼は元々わかりきっていた。どうすることもできないと、知っていた。
だから調べていたのは別のことだったのだ。
「毒を知るには、毒を」
まるで詠唱のような声に、周囲が反応した。マーテットの血管に流れる血液という血液が反応し、ぼんやりと光を放った。
それは肌に透け、さぞや不気味に姉妹に映ったことだろう。
右手に持っていたメスで己の腕を切りつける。血が滴り落ちた。
「『我が血に流れる戒めの呪縛をもって、我が敵を滅せ』」
マーテットの足元にどす黒い魔法陣が広がっていく。それは相手を絡めとり、縛り、戒め、呪う。
悲鳴をあげて魔法陣に呑み込まれた姉妹を見遣りながらマーテットは冷たく言い放った。
「おれっちが研究してたのは、己の利便性だけだ」
まるで血の洗礼を浴びたように、雨を浴びたような姿で呆然と抱き合ったまま座り込んでいる姉妹の目の焦点はあっていない。
「あっちゃー。やっぱり自我が崩壊しちまったか。捕まえてあれこれ吐かせる予定だったのに」
やはり失敗したか。
肩をすくめるマーテットは己の手を見下ろす。ぼんやりと光る血管の流れ。
すべてが毒へと変質したこの血を、誰が受け入れてくれるだろう?
待ち受けるのは、孤独だ。
だがいい。
マーテットは小さく、悲しく笑った。
「おれっちは元々、誰かにすがるつもりなんて、これっぽっちもねーもん」
*
マーテットはゆるく亜子と手を繋いで歩いていた。
すでに陽は落ち、馬車を拾える時間ではなくなっていたのだ。
がらの悪い馬車もあるので、マーテットは歩くことにしたようだ。青白い月が美しい。
「アート」
声をかけてくるマーテットに、思わず顔をあげる。
リカンを簡単に信用して、挙句操られてマーテットを襲っただなんて……恥さらしにもほどがある。
亜子はラグの病室で目覚めた。彼のベッドを占領していたことに仰天していたのだが、ラグもトリシアも、目覚めた亜子に気づいて安堵の息を吐き出していた。
マーテットがここに預けていったというのだから驚いたのだが、記憶が途中からなかった。
頭が若干くらくらしているところにマーテットが戻ってきて、あれこれと説明してくれて……今に至る。
すぐさま俯く亜子に、彼はくくっと低く笑う。
「気にしなくていーのに」
「き、気にします」
「なんで?」
「なんでって……だって」
「おれっちがアトに殺されるかもしれなかったってこと? ないない? ないね」
やけにはっきり言い切るので、亜子がむっとしてしまう。
「でも、万が一とかあるじゃないですか」
「まあ、そういうのはあるけど、今回に限っては絶対なかった」
「?」
触れる指先の熱を亜子は感じてしまう。この人、手が大きい。
マーテットは小さく笑った。
「だってアトは、誰かが誰かを傷つけるのが怖いだろ?」
「!」
ぎょっとして顔をあげる亜子は、マーテットの背中しか見えない。彼は振り向かない。
なんで知っているのだろうかと恐る恐る見ていると、彼は肩を小さく揺らした。笑うのを堪えたようだ。
「泣いてただろ? オモチャじゃないよーってさ」
「っあ、あ、あれはっ」
「おまえが誰かを傷つける時は、たぶん、すごくすごく大変な決断をした時なんだと思うぞー、おれっちは」
柔らかい声に亜子は唖然としてしまう。
ずるい。
なんでこんな声で、そんなことを言うの。
優しく手を引いてくれるマーテットに、亜子は戸惑うしかない。なぜ、不安だとバレているのだろう?
繋いだ手から自分の今の心が彼に知られてしまうのではと、恐れてしまう。
(相変わらず、変な人だな……)
そんな感想を抱いていると、ふいに、マーテットが空を見上げた。雲に隠れた月光に、辺りが一斉に暗くなる。
一応街灯のようなものも設置されてはいるが、それでも頼りない。
「マーテット=アスラーダ!」
雄叫びのような声に亜子はビクッと反応して振り向く。建物の壁に手をつき、乱れた髪のままリカンがそこに立っていた。
狂気に満たされた瞳のまま、まるで裂けそうなほど唇を開いて笑う。
静かに夜道を歩く人々から注目の的だった。
マーテットも、驚愕して目を見開いている。
「塵あくたのゴミ屑め! おまえぇぇもぉぉ、死ネ」
バン! とリカンが何かを右隣の壁に当てた。それは彼女がいつも右手首につけていた腕輪だった。
腕輪が一体、と疑問符を浮かべていた亜子はぎょっとする。亜子たちの左隣に立つ建物が軋みをあげてこちらに向けて崩壊を始めたのだ。
高らかに嘲笑するリカンが、一番にその下敷きになる。あまりの光景に亜子が息を呑んだ。
降り注ぐ建造物の欠片たちをマーテットが苦笑してみていた。
「あーあ。なんだこれ。なにこの終わり方」
つまらなそうに言うマーテットを、信じられない思いで見つめる。
マーテットは、彼は、諦めているのだ。抗わない。彼は、抵抗しないのだ。
倒れてくる壁と、マーテットを交互に見て、亜子は迷った。
庇えば死ぬ。彼を連れて逃げるのは時間的に無理だ。
自分の超人的な力を使えば自分だけは逃げられる。
指先はいつの間にか離れていた。
「マーテットさん!」
叫びと同時に彼がこちらを見た。ばいばい、と彼が手を振る。
目を見開く亜子は髪を真っ赤に変質させながら、そこから一気に駆け出した――――!