作戦はおおむね順調だった。
順調すぎて、肩透かしを食らったようなものだった。
マーテットはどこか腑に落ちない顔で、帰路についていた。
馬車の中で嘆息する。シャルルの好意で早めに帰してもらえたが、そうでなければ後始末を色々とさせられていたことだろう。
すっかり陽は昇り、太陽は中天にさしかかっている。
(あー、ハラ減った)
人間というもの、大抵は欲を満たすために意識が支配されるものだ。
今は食欲だった。マーテットに限らず、軍人というものは作戦中は決まった食事以外は口にすることができなくなっている。それもできるなら、食事は控える傾向がある。
トリッパーの世界では、腹が減っては戦はできぬ、という言葉があるらしい。確かに食事を怠れば、通常の能力は発揮できない。それは確かに納得できる。
けれども、腹八分、というのが理想的だった。あまり胃の中にものを入れていると、動きが鈍る。感覚を研ぎ澄ませるためには極限状態が一番いい。
なによりマーテットは医者だ。飢餓が何を起こすか知っている。
「あ、ちょっとだけ病院寄ってくか」
リカンのことも気になる。御者にそのことを伝えて、方向を変えた。がらがらと、馬車の車輪が道を走る。
けれどもなんだ?
(……この不気味な感じは……。胸糞悪ィな)
*
彼女は手を差し伸べられた。
麗しい宮殿の中ではなく、薄汚れた部屋の中で。
相手は憎らしい男だった。
彼に近づいたのは作戦のうちだった。カーティス=レイラー。男は元、『ヤト』のメンバーだった。
先代の『ヤト』のメンバーでも比較的近づきやすい男だった。虚栄心が強く、臆病者だったからだ。
彼女はいつものように自らの武器を使い、彼に囁いた。
「血の呪縛」
それは男の恐怖を煽るのに効果的な一言だった。
彼女の麗しい主を縛る、おそるべきノロイ。
「ねえ」
彼女は微笑む。微笑んだ先には病院の事務をしていた女性が居た。リカンとまったく似ていない、腹違いの姉・フィリ=ドワウズだ。いや、今は結婚してファミリー・ネームが違う。
「姉さん、私たちの大事な公女様を救おう?」
「ええ。わかっているわ」
頷くフィリに、リカンは近づく。姉の頬を優しく撫でた。
「姉さん、今まで本当に苦労かけたわ」
「そうね。でも、このくらいなんでもないわ」
二人は薄く笑う。
「マーテット=アスラーダ」
「やつの持つ、『ギアス』に関するすべての情報を奪う」
そのために。
待っていた。この時を。
リカンは振り返る。
そこにはぼんやりとした瞳の亜子が立っていた。
「役に立ってもらうわよ、アガット=コナー」
薬品の匂いが充満する室内で、亜子の髪が燃え上がるような色に変化する。瞳はにぶい金色へ。耳先が尖り、だらんと尻尾が生えて垂れる。
「標的はマーテット=アスラーダ。いいわね?」
こくり、と亜子は頷いた。そしてぱちぱちと何度か瞬きをする。そして小さく笑った。
リカンは姉を見遣る。
「カーティスの魔術はまだ効いている。あいつが失敗した理由はわからないけど、今ならまだ」
まだ……。
*
馬車を降りたマーテットはふいに視線を落とす。
「?」
違和感はあったが、それがなんなのかわからない。カーティスの魔術の残滓だろうか、くらいしか思わなかった。
だから病院に一歩踏み込んで、己の失態に気づいた。
これは罠だ。
鮮やかな色彩をまとった女たちが、みな一斉にこうべを垂れている。その先には一人の少女がいた。
見目麗しい翠髪の少女はゆったりと笑みを浮かべる。紅を引いた唇は美しい。
ゆったりとした衣服の女官たちにかしずかれる女性は、顔だけ知っている。蓮国の第一公女だ。
ひらひらと舞う淡い花びらに、マーテットは眉をひそめた。甲高い、ゆるりとした音楽が流れているここは、すべて、すべて幻だ。
(なんだこりゃあ……)
こんなものを見せてどうしろというのだ?
異文化にそれほど詳しくはないが、明らかにこれは他国のものだろう。
しかも、みなにかしずかれている女は肖像画でしか知らないが、我が帝国の第一皇子の婚約者の娘だ。
(ははぁ)
今回の騒動といい、あまりにもカーティス登場のタイミングといい……なるほど、裏で繋がっていたわけか。
マーテットはうんざりした。
個人攻撃をしてくるということは、マーテットが研究しているものを狙っているということだろう。
どこで聞きつけたのやら。
カーティスにしてもそうだ。てことは。
(魔法院に内通者がいるってことか。まあそいつはあとで捕まえるが)
まずはここから脱出しなければ。
ああ、いやだ。
この手の結界を破壊するには手順に則るか、無理やり壊すかのどちらかしかない。
(だからぁ、おれっちはオッスの旦那でも、ルッキーでもないんだっつーの)
医療術ならば得意とするところだが、こういった分野は……勉強をサボった。
後頭部を掻いて、繰り広げられる光景に肩をすくめた。相手がなにを意図しているのかはよくわからない。
蓮国の第一公女と、帝国の第一皇子は互いに『血の呪縛』で繋がれた存在だ。その鎖を断ち切ろうとするには、確かに……正攻法ではないなら、マーテットの研究結果が必要だろう。
女官たちは一斉に立ち上がった。まだ深く頭は垂れたままだ。
その一人が、ふいにこちらを向いた。そしてそのまま近寄ってくる。
「んんー?」
首を傾げるマーテットは、近寄ってくるのが見知った顔であることに呆れた。
頭が痛くなってくる。待ってろってあれだけ言ったのに。
「あのねぇ」
文句を言いたくなるマーテットは、彼女から香る匂いに少し目を見開いた。そして、タン! と三歩分一気に後退した。
目の前を、亜子の素早い右腕の一撃が通り過ぎる。長く伸びた爪が、獲物の喉を切り裂こうとしていたのだ。
さーて。
マーテットは考える。
戦闘能力は、それほど高くない。
魔術も、自慢できるほど、できはよくない。と、自分で思っている。
だがある程度は軍で鍛えられているうえに、彼はこれでも……精鋭部隊『ヤト』の一員なのだ。
物憂げな瞳になったマーテットが、すぐさまに無表情になる。
襲い掛かってきた亜子に、真正面から立ち向かったのだ。
「正直、アトにまともに戦って勝てるとか思ってねーんだよな」
そう言うと、彼の姿が忽然と消えた。
でも。
囁きが聞こえた。
「正攻法じゃないなら、いくらでも勝てる」
それは亜子が訓練を受けていない、ただ身体能力が高いだけの異能者だからだ。
亜子は次の瞬間、床に顔をぶつけていた。派手に転んだのだ。
転ばせたであろうマーテットは小さくふふっと笑う。
「悪いなぁ。でもま、おれっち手加減できるほうじゃねーし。あ、この技、ルッキーの受け売りなんだけど」
すぐに起き上がろうとする亜子の背中を容赦なく踏みつけると、マーテットはぽりぽりと頬をかいた。
「なんかもう、じたばたする様子が虫みてーだな。うわぁ……」
ひどい言いざまだったが、マーテットは本当にそう思っているのだろう。
静かに瞼を落とす彼は、深呼吸を一つして瞼をあげた。
波長を探す。とても近い、けれども遠いソレを。
あの妖精のような子供の独特の波長に合わせて、ここを内側から――――。