Barkarole! インベル11

 暴れだした亜子をカーティスはマーテットめがけて放り投げる。ぞんざいな扱いだったが、亜子は彼にぶつかってそのまま廊下を転がった。
 ざわざわと落ち着かない亜子は、完全に気が動転していた。
 瞳が金色と茶色を行ったりきたりし、髪が濃くなったり、薄くなったりとまるで信号機のような状態になっている。
 倒れたまま、亜子はマーテットを見た。彼は膝をつき、そのままぐったりと動かなくなっている。光のない瞳を、床に向けていた。
(え?)
 はっきりとその姿を認識し、亜子はかろうじて意識を取り戻した。
 近づくカーティスが、蹴りを放った。見事に左腕に直撃し、そのままマーテットは吹っ飛ばされて壁に激突する。壊れた人形のような動きだったが、壁に頭でもぶつけたのか、マーテットの額から赤いものがぬるりと垂れた。
「マーテットさ……っ!」
 動かないマーテットの姿に、亜子は愕然としてしまう。
 まるで人形のように彼は動きを完全に停止してしまった。
 額の傷からは血が流れ、彼の顔を赤く染めているというのに!
 虚ろな瞳で床を凝視している彼は、亜子の声も届いていないようだった。
 強く頭を打っただろうに。早く手当てしなくてはならない。
(異能があったって……!)
 身体能力があがったって、誰かの命を救えないなら……なんて役立たずな能力だろう!
(あたしは、また……諦める……?)
 絶望に涙して、眠るのか? 目を閉じるのか?
(?)
 布団の中でひたすら「ごめんなさい」と繰り返す己の様子が脳裏によぎって、亜子は怪訝そうにする。
 なんだろう、今の記憶は?
 よくはわからないが、今はそんなこと、どうでもいい!
「無駄だよ」
 背後からの声に亜子はそちらを素早く見遣る。純白の帝国軍服姿の男・カーティスが近づいてくる。
 亜子は立ち上がって、マーテットを庇うように片手を広げて行く手を阻む。
 魔術師には、魔術には亜子は対抗手段がない。
(でも!)
 魔術には詠唱が必要だ。ならば、その詠唱を終える前に攻撃すればこちらにも勝機はある。
 と。
 左腕を掴まれた。
 驚いて振り返ると、マーテットがこちらを見上げていた。
「マーテ……」
「どいてろ、アガット」
 そう言うなり、彼は立ち上がり、額の傷を魔術で消してしまう。流れていた血を乱暴にぬぐった。
 カーティスは余裕の笑みでマーテットを見ている。
「さすがと言うべきか、アスラーダ」
「……田舎に引っ込んでたあんたがそもそもおれっちになんの用なのか知らねーけど、馬鹿なことはやめたほーがいーぜ」
 いつものように飄々と言い放つマーテットに、カーティスは笑みを消した。
「おまえが研究しているものをオレに寄越せ」
「はあ?」
 ふざけんなという態度で応じるマーテットに、カーティスは続ける。
「おまえは独自で『血の呪縛』の研究をしているはずだ。それをこちらに渡してもらおう」
 ちのじゅばく?
 怪訝な表情をする亜子はマーテットを見上げる。彼はつまらなそうな顔だ。
「なるほどねー。帝国を裏切るってこと?」
「そんなわけはない!」
 激しく否定したカーティスは、それでも顔を歪めた。
「皇帝と帝国に忠誠は誓っている! だが……『ヤト』を辞めて通常の軍務についていても、この呪縛は一生ついてまわる……!」
「…………」
「おまえは恐ろしくないのか、アスラーダ! 今はまだよくても、この先だ……! 常に、常にオレたちは死と共に在り続けるのだ!」
 毎夜毎夜、その恐怖にうなされる。
 命令を上書きされたり、追加されたりしない限りは大丈夫だと言い聞かせても。
 恐ろしいものは、恐ろしい。
 もしかして、なにかがきっかけで死ぬかもしれない。しかも、おぞましい死に方だ。想像もつかない死に方だ。
「あんたの気持ちはわからなくはねーよ」
 ぶっきらぼうにマーテットは言う。両手を白衣のポケットに突っ込んで、どこか睨むような目線になった。
「人生がめちゃくちゃにされたような気持ちになるもんな」
 踏みにじられたような。
「だけど」
 マーテットは一歩前に出る。
「だから? って感じだな」
「なんだと……!」
 怒りを露にするカーティスに、マーテットは平然と続ける。相手の怒りなど、どうでもいいというように。
「『血の呪縛』をおれっちは確かに研究してる。でもそれは、」
 それは。
 マーテットは瞳を伏せた。
「帝国を裏切るためでも、皇帝を殺そうとするためでも、眠れない日々を打破するためでもねーんだ」
「?」
「どうでもいいんだよ」
 マーテットは言い放つ。
「うるっせーんだよ。雨の音が。おれっちを束縛する、立ち止まらせてる雨音が!」
 マーテットの言葉がわからないようで、カーティスは困惑してしまう。
 目を細めるマーテットは、一歩ずつ前へ前へと歩く。逆にカーティスは後退を始めた。
「おまえのことなんか、知ったことか。おれっちはおれっちのことで、手一杯だ。他人を助けるほど余裕なんざねーよ!」
 言うなり、マーテットはポケットから手をぬっと出す。そこには指と指の間に挟まれたメスが16本。
「どいつもこいつもうるせえったらねえ……。おれっちに命令してくんじゃねーよ!」
 激昂したマーテットが目を見開き、カーティス目掛けてメスを放つ。
「『追え、仕留めよ』」
 ひぅぅぅん!
 奇妙な旋回音をさせてメスがカーティスを狙う。
「そんな初歩の魔術が効くか、バカめ!」
「馬鹿はてめーだろーが」
 マーテットはまたもずらりと並んだメスを放つ。迷いのない攻撃だった。
 カーティスが詠唱する暇を与えないほどに連続してメスを投げ放つ。
(ど、どこにあんなに隠し持ってたの……?)
 亜子が疑問に思うほど、次から次へとメスが出てくる。
「ルッキーくらいにならねーと、おれっち、魔術師は怖くねーんだ、よ!」
 ビュッ! とメスを1本だけ放つ。
「『加速せよ』」
 付加された魔術を受けたメスがたくさんのメスの中を突き抜けて、カーティスの額にこつん、と突き刺さった。
 あまりにも呆気ない音に、亜子は唖然とする。
 もっと鈍い音かと思っていたのに。まるで果物にナイフを軽く入れるように簡単に……簡単にカーティスは事切れた。
 とたん、周囲を舞っていたメスの姿が消える。
「えっ?」
 驚く亜子のほうを見て、マーテットは不機嫌な顔で呟く。
「目くらましの幻術だ。薬品を補助に使えば、ま、これくらいは簡単にできるからな」
 では。
(本物は1本だけだったってこと?)
 亜子の目を欺いていたわけではないのだろう。おそらく、その薬品とやらで嗅覚や視覚すべてを麻痺させていたのだろう。
 どさりと転倒したカーティスは目を見開いたまま絶命している。思わず目を逸らす亜子だった。
 マーテットは死んでしまったカーティスに近寄って、蹴る。そのわき腹を、何度も。
「ほんとーに! ウゼェ! ウゼェったらねえ!」
 苛立ちをというよりも、憤りというよりも、ただ作業の一環として彼は蹴っている。
 呆然と視線をそちらに向ける亜子のことなど、気づいていないようだ。彼はただ、死体に対して蹴って……いる。
 しばらくして気が済んだのか、彼はぼんやりと眺めてから手をかざす。
「『崩れよ』」
 ぐずり、と人体が灰のように変化して崩れていく。まるで死体などなかったかのような、鮮やかな手つきだ。
 そういえば、夜襲の時も彼はこの魔術を使っていたような気がする。
 黒くなって原型をまったく残していない燃えカスのようなそれを踏みつけ、荒らす。そして彼は、やっとそこで亜子の視線に気づいた。
「…………」
 ぼんやりとこちらを見てくるマーテットに、声をかけていいものかと困惑して突っ立っていると、彼が「うーん」といつもの調子で唸った。
「あーあ。なんか変なとこ見られちまった」
 なんということのない……平坦な言葉。
 良心の呵責はないのだろうか? 敵だから殺してもいいと?
 あれこれと思考がめぐる亜子のほうを振り向いて、マーテットは笑みを浮かべた。心底、歪んだ笑みだった。
「死にたいなら殺してやるけど?」
 え?
 いま、マーテットがなにを言ったのか理解できなかった。
 目を軽く見開く亜子に、彼は続ける。
「そもそも、トリッパーって人間なのか? バケモノなんだろ? バケモノって、ナニ?」
「あ……?」
「異質ってこと? それっておれっちらも当てはまるんだよなー。特にルッキーにはおれっち、バケモノって単語が相当似合ってると思ってるし? ほんと、トリッパーの言語っておもしれーなぁ」
 こつんこつんと軍靴の音をさせて近づいてこられ、反射的に亜子は後退してしまう。
 なにが、起こっている?
 マーテットは、どうしたというのだ?
(なんか、マーテットさんおかしい……?)
 常々から彼は変わっているので、判別がつかない。今が、異常な状態なのか……それとも平常なのかが。
 そうだ。亜子はなに一つ、わかっていないのだ。
 マーテットの家族も、彼のことも、なにもかも。血の呪縛とはなんだ?
 とても尋ねられる雰囲気ではない。
 彼は追い詰められた亜子の顔を覗き込み、まじまじと見てくる。細目の彼は、まるで獲物を狙う狐のようだ。
「おれっちはさぁ、ほんとはうずうずしてるんだよ。トリッパーって、みんな異界から来る時に身体が変質するっていうけど、元はどうなの?」
「…………」
 目を大きく見開き、唇を強張らせる亜子に、彼は続ける。
「でもさ、どいつもこいつも違うって聞いて、おれっちは愕然としたわけだよ。元が同じなのに、だれ一人トリッパーのバケモノ姿はかぶらない。なんでだ? どうしてだ?」
「そ、んなこと……」
 わかるわけがない。こちらが教えて欲しいくらいだ。
 間近に迫った彼の顔に亜子は耳鳴りがしてくる。恐怖だ。恐怖が亜子の全身を伝って、危険を知らせている。
「アトはほとんど見た目が変わらねーんだもん。この目で見るまでは、冗談かと思うほどだったぜ?」
「マー……」
 唇を遠慮なく重ねられ、こじ開けられる。
 ねっとりとしたものが入ってきて、口内を荒らしてすぐに出ていく。
 衝撃に硬直してしまう亜子は、マーテットを凝視するしかない。
 キス、された?
 いや、そんなことより……今の行動で、彼が平常ではないことがはっきりした気がする。
 なにをするのだと突き飛ばす気力も亜子にはない。ただマーテットが怖かった。彼は明らかに、亜子に対する『視線』が変わっていた。
 それは別の生物を、いいや、家畜を見るような視線だったのだ。
「なあ、どうなってんだ? 全部教えて欲しいくらいだ。ちょうどアトはメスだしな」
 驚愕する亜子の髪の毛がぞわりと悪寒に赤く染まる。金色に瞳が変化してしまうが、それでも動けない。
「アハッ、すっげえ。やっぱり身の危険とか、なんか関係あるんだよなぁ。フフ、アハハハハ!」
 いつもと違う笑い方だ。
 ――こわい。
 そう思った瞬間、脳裏に黒い影が過ぎる。囁きと、亜子を覗き込む女性のカオ。見覚えのない、カオ。真っ黒に塗りつぶされた、カオ。
 ブンッ! と亜子が腕を、拳を振るう。マーテットがまともに顔にぶち当たって倒れた。
 頬をおさえてうずくまっているマーテットを見下ろし、亜子はぼんやりと思う。
 そうだ。
 そうなのだ。
 本当は、『こうしてみたかった』。
 うるさいと、邪魔だと、暴力を……。
「うっ」
 吐き気に襲われて、亜子は口元を手でおさえる。そしてそのままその場にずるずると屈み込んでしまった。
 振り上げられた手と、おろされる手。その残像が脳裏をちらつく。それは自分にでは、ない。けれども。
「うっ、う……」
 必死に嘔吐感を抑え込もうとする亜子は、いつの間にか涙が流れていた。
 ちがう。ちがう!
(あたしはひどいと思ってた。だから、違う!)
「おーい、だいじょぶか?」
 なでなでと、頭を優しく撫でられる。俯かせていた顔のまま、亜子は驚いた。今の声は、マーテットだ。
 いつの間に立ち上がったのだろう? そっと見れば目の前に靴が見えた。彼は屈んでくれる。視線は合わせないので、顔は見えない。
「ちーっと八つ当たりしちまった。ごめんな?」
 まったく謝っている口調ではない。むしろ、なんだか愉しそうだった。
 腹が立って、亜子は顔を跳ね上げる。
「あたしは人間だ!」
「うん」
「人間なんだよ! 同じ赤い血が流れてるんだ!」
「そーだな」
 頷くマーテットは、それでも……それでも違う。わかってしまった。彼は亜子を同じ人間として見てはいない。
 必死に訴えても、言葉が届かない。むなしい。それでも亜子は叫ぶ。
 涙を流して。
「あたしは、マーテットさんの玩具じゃないよ!」
 誰かに。
 それはマーテットを通して誰かに対してのメッセージだった。言いたくても言えなかったことだ。けれど、誰にかはわからない。
 マーテットはしばし口を噤んで、それから「そう」と肯定の言葉を発して頷いた。それだけだった。
 そして、見た。
 褐色の肌の青年が、マーテットの背後にぬぅっと立っているのを。
「え」
 目を見開く亜子は、患者服を着ている彼が剣を振り上げているのを見て声をなくした。
 大振りの剣は夢の中と同じで、一刀両断するために振り上げられたものだった。
 喉元まで出掛かった悲鳴は、声に遮られた。
「ダメよ、ラグ!」
 ぱたぱたと走ってくる音と一緒に、彼女が青年の動きを止める。背後に青年が立っていることにマーテットはやっと気づいたようで、振り仰いだ。そして「ワオ」と微妙な驚き方をする。
「だけどトリシア、こいつ、女の子、いじめてた」
 たどたどしい言葉遣いをする青年に、トリシアが抱きついてなんとか動きを止めようとする。
「止めるにしても乱暴すぎるわよ!」
「? 柄のところで後頭部を殴ればいいかなと思った。手加減、する?」
「そういう問題でもなくて!」
 必死なトリシアは、腫れぼったい目をしている。あ、と亜子が気づいた。泣いた痕跡だと気づいたのだ。
「へへっへ!」
 楽しそうなマーテットの笑い声に、一同が動きを止めた。
「ぶははは! なにこれ。新手の漫才とかそんなのかー? いくらなんでもショボい!」
 ばんばんと己の膝を叩くマーテットは、驚いている青年ににやっと笑って眼鏡のブリッジを押し上げた。
「起きてる時に会うのは初めてだなー。おれっち、マーテット=アスラーダ。ルッキーと同じ『ヤト』の軍医をしてる。ヨロシク」
「…………」
 差し出された手を見遣り、それから青年は戸惑った様子で口を開いた。
「ラグだ。よろし……」
 く、と掌を握ろうとした矢先にマーテットが手を引っ込める。青年はその行動に驚いて目を瞬かせた。
「ぎゃははは! 素っ直〜!」
 からかわれたことに気づいて、青年がむっ、と眉をひそめる。そして彼は亜子のほうを見遣り、また瞬きをした。
「トリッパー……」
「っ」
 ぎくっとして硬直すると、彼はなんだか懐かしそうに微笑んだ。まるで大型犬のようだ、と亜子は思った。
「ハルとルキア、どうしてるかな……」
 そんな呟きをして、それから彼はトリシアを振り向き、思い切り抱擁した。
「ただいま!」


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