Barkarole! インベル9

 リカンの入院手続きをしていたマーテットは、ふいに、違和感に気づいて「ん?」と顔をあげた。
 背後を振り返るものの、なにもない。事務手続きのために居た病院関係者である事務員の女性が「どうしました?」と声をかけてきた。
「いや……誰か通ったかなと思ってー」
 のんびりと洩らすと、女性の表情が曇る。
「アスラーダ様まで」
「ん? おれっちまで?」
「いえ、あの、例の患者がここに来てから、妙な夢をみるという報告が多くて」
 例の患者、というのはラグという青年のことだ。ルキア自らマーテットに託してきた患者なので、ある程度は気を配ってはいるが……夢?
「夢って、どんなの?」
 彼が入院してすでに三ヶ月は経過している。だというのに、そういう報告は受けていない。
 女性は苦笑して、軽く手を振った。
「いえ、あの、深く受け取らなくてけっこうですから」
「あっそう。でも気になるから、ちぃっと言ってみて」
 にこっと笑うが、マーテットはこういう時にルキアのあの無邪気な笑顔が羨ましくなる。自分の笑みでは、胡散臭さが際立つだけだろうからだ。
 女性は戸惑ったような仕草をしたが、貴族のマーテットの命令に逆らう気はないらしい。
「時々、あの青年が夢の中に現れると」
「へ?」
 さすがに目を丸くするマーテットだったが、女性が苦笑いを浮かべた。
「病院内の夢をみると、必ず彼がいて、ただ黙って通り過ぎるんだそうですよ」
「病院の中だけに限られるってことか?」
「まあ、はい。聞いただけではそうですね。うたた寝をした患者さんとかが、ひどく驚いて言ってきましたから」
「…………」
 マーテットは視線を少しだけ伏せて考える。
 昏睡状態のラグの魔術は少しずつ解けている状態にある。正直な話、そろそろ目覚めてもいいくらいだ。
 彼の意識が戻らないのは、問題がべつのところにあるからだろうか?
 夢、というのは意識の根底を映すものとも考えられている。
「うー……ん?」
 途中でぎょっとして、マーテットは背後を振り返った。また、だ。
 強烈な存在感を感じて振り向いたが、そこには誰もいない。開かれたドアの先には廊下があるが、なにもいない。だれもいない。
 その時だ。
 マーテットの視界が、ブレた。
 ズレた視界に、目を凝らす。間違いない。
 ゆっくりと視線を動かして、周囲を見つめる。
「結界……」
 誰かがここに魔法陣を敷いている。頭の中に地図を思い描き、マーテットは顔をしかめた。
 東西南北それぞれに何かを置き、その力を借りて強力にしてあるらしい結界の存在はわかった。中心部にナニかが置かれたために、結界が発動したからだ。
 本来ならば、四方に置かれたなにかを破壊するほうが容易いのだが、言ってみれば今は結界の「腹の中」にいるわけで、突き破るか、こちらから「吐き出す」ようにしなければおさまらないだろう。
「アスラーダ様?」
 怪訝そうな事務員に、マーテットは不機嫌そうな声で「ああ」と返す。
「ちょっくら行ってくるわ。リカンの検査が終わるまでにおれっちが戻らなかったら、適当に治療しといて」
「えっ!?」
 驚く事務員に背を向けて、白衣のポケットに両手を突っ込んでマーテットは部屋を出て行った。
 廊下がぐにゃりと歪んでいる。通常ならば気づかない誤差だ。よほど腕のいい魔術師なのだろう。
「ふーん」
 病院なんぞに結界を張って、なにがしたいのかわからない。マーテットは長い足を動かして中心部に進む。建物の中心に向かえば、おのずとそこには何かがあるだろう。
(えーっと、院内の配置図は、こんな感じだっけか?)
 脳裏に浮かべた地図。マーテットは面倒そうな顔つきをして、そこを目指した。
 途中で待合室を通り過ぎるが、亜子の姿がない。
「アト?」
 どこへ行ったのだろうか? 待っていろと言ったはずなのに。
「お手洗いか」
 ぽつんと呟いた己の声の反響さにちょっと驚く。
 なぜだろう。彼女はココにいると完全に妄信してしまっていた。いつかは……居なくなる存在なのに。
(ま、いなくなる前にあれこれデータはもらうつもりだけど)
 笑みを口元に刻んでマーテットは歩き出した。ふいに、また存在感に気づいて横を見る。誰かが通り過ぎた。
 あの強烈な存在感だ、と思った時には、視線が勝手にソレを追っていた。患者服の下に巻かれた黒い封印布をひらひらとなびかせながら歩く、セイオンの傭兵の姿を。



 白刃は、斬った。亜子ごと。
 ずん、と重い音がして視線がズレていく。斬られた場所がずずず、と音をたてて斜めにズレていく。
 なに、が。
 起こった?
 青年は剣を振り下ろした体勢のまま停止している。景色がずれていく。奇妙な光景に亜子は動けない。
 まるで鷹のような視線を、彼は亜子の背後に向けたままだ。
 すべてが、すべてが、斜めに。ずれ、て。
「彼女のいる場所で、勝手は許さない」
 はっきりと青年は言った。先ほどまでの暗い瞳と違い、真っ直ぐに相手を見据えていた。見惚れるほど美しいペリドット色の瞳だ。
 その言葉が合図だったように。

 亜子はハッ、と目を覚ました。
 自分はぶらん、と肩に担がれていた状態だった。
 見えるのは男の足元だけだ。
 なんとか頭をあげると、突っ立っているマーテットの姿が確認できた。廊下の中央部分で唖然とこちらを見ているマーテットは、やがてハァ、と溜息をついて丸眼鏡を押し上げた。
「カーティス=レイラー殿」
 明らかに面倒そうな声音のマーテットの視線の先には、亜子を抱えている男がいる。
「こんなところでなにしてるんすか? 確か、北東の第十八部隊に所属してませんでしたっけ?」
 ぞんざいに言い放つマーテットは、視線を亜子にちらりと向けた。そして彼はひどく狼狽したような表情を浮かべた。あまりに珍しい顔だったので、亜子のほうが驚いた。
「マーテット=アスラーダ殿」
 男の声は夢の中の時とは違い、微妙に重い。緊張を孕んだ声に亜子は自分の腕が痛みを訴えているのに気づいた。あれ? あれれ?
(あたしの腕、青くなってる……?)
 否、黒ずんでいる。見える位置の腕が、妙な方向に折れ曲がっているのだ。
 え、と亜子が目をみはる。
 マーテットが静かに怒りを滲み出させていることに亜子はさらに驚く。彼は恨むような視線で男を――カーティスを下から睨みあげるような奇妙なことをしていた。
 その威圧感が凄まじい。普段、のらりくらりとしているからこそ、怒りの感情が際立っているようだ。
「おいこら。おっさん、おれっちの実験体になにしてくれてんだ」
 低い声を発し、マーテットが片手をこちらに伸ばすようにあげた。そして、ぴたり、と人差し指を亜子の腕に向ける。
「『命の脈動よ』」
 呪文だ。詠唱を開始したマーテットに、カーティスはちら、と視線を亜子に向ける。朗々と紡がれる言葉に、亜子は意識がぼんやりとしてくるのを感じる。痛みが霞んでいく。
 霞んだのは、急激な眠気のせいかもしれない。亜子は自らの腕が奇妙に動き、元の位置へと導かれるように動くのを感じていた。
「『停滞は今ここに解かれり』」
 その言葉で締めくくった時には、亜子の腕は元通りになり、急激に疲労が襲ってきていた。まるで治療の反動だ。
 ぐったりとしている亜子を見遣ったカーティスは薄く笑った。
「相変わらず腕がいい」
「お褒めにあずかり、光栄だ。これでも軍医なんでね。医療の魔術に関しちゃ、それなりの腕を自負してますとも」
 わざとらしい言葉にカーティスは笑みを浮かべたままだ。確かにマーテットの魔術はかなり洗練されている様子がうかがえる。
 一歩だ。
 カーティスが一歩分だけ前に出た。
 途端、空気が変わった。
 緊張が駆け抜け、亜子は本能的に悲鳴をあげそうになる。
 マーテットの顔色がみるみる青白く染まっていった。
「な、なんで……?」
 疑問の声に、カーティスは笑う。底意地の悪そうな、凶悪な何かを秘めた笑みを口元にたたえたまま、カーティスは『発動』させた。
「『お互い』に、ダメージを与えるのに? って?」
 腕をあげ、ゆっくりと彼を指差す。そしてマーテットへと定められていたそれが、床へと移動する。
 ヴン、と耳障りな音と共に光の魔法陣が出現した。魔法陣はカーティスの足元まで伸びている。
「『ギアス』の陣……」
 悲嘆のような声を絞り出すマーテットに、亜子は戸惑う。ギアス? それはなんだ?
 カーティスは愉悦の表情を浮かべていた。そして亜子を、見ていた。
「『ヤト』に任命された者たちにだけ効く魔術だ」
「?」
 ヤト、というのはマーテットの所属する特殊部隊のはずだ。だがそれが一体なんだというのか。
 マーテットは一歩もそこから動けないようで青ざめたまま歯を食いしばっている。
「ふふ、ははは! 声も出ないか、アスラーダ!」
「…………」
「たとえルキア=ファルシオンでもこの陣を破れはしないだろうしな。おまえに勝ち目はないってわけだ」
 無言を貫くマーテットは拳を強く握り締めていた。血の気のない彼の拳は、ただ、白い。
「『現役』のヤトならば、きついだろう?」
 嘲りを含んだカーティスの言葉は、まるで呪いのようだ。
「…………」
 素早く、マーテットが何かを呟いた。聞き取りにくいその小ささに、カーティスは顔をしかめる。
「あ? なんだ?」
 だが亜子の鋭い聴覚には届いていた。
 ウゼェ。
 一言、彼は言った。
 続けて。
「雨音がする」
 とも。
 雨など、降っていない。亜子がこの世界に来てから、一度も雨の日に巡り合ってはいない。晴れているのが当たり前だと思っていたこの世界にも、雨はあるのだろうか?
「なんだ? アスラーダ」
 問いかけにマーテットは応じない。ただその瞳から生気が徐々に失われ、暗くなっていく。陰りを帯びた眼に、亜子は震えた。
 誰かに似ている。
 誰かの目に。
「う、あ、ぁ」
 亜子は恐怖に声を洩らした。
 コワイ。
 コワイよぉ。
「あ、ああ、ああああああああぁぁぁぁぁっっ!」
 身を捩って逃げようとする亜子に、カーティスが戸惑う。
 コワイ。
(やめて!)
 やめて!
 暗い、顔のない女性がみえる。顔のない、男性がみえる。振り上げられた拳。
「いやあああああああああああああああああああああああああああああっっ!」
 悲鳴は、暴力に重なった。


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