Barkarole! インベル8

「アスラーダの連れかね?」
 聞いたことのない声だった。しかも油断していた!
 亜子はそっと、振り返る。
 中肉中背の男が立っている。それほど目立つ容姿ではない。年齢は四十代に差し掛かったくらい、だろうか? もっと若いようにも、老けているようにもみえる。
 純白の軍服を着ていることから、彼が軍人であると判断して、亜子は軽くお辞儀をした。
「こ、こんにちは。マーテットさんのお知り合いですか?」
「知り合いとも、そうでもないとも言えるかな」
「?」
 わけがわからない言い方をされて、亜子は眉をひそめる。
 背後に立っていた男は亜子の横に腰掛けた。背中を、正面に向けて。
(あ、れ?)
 なんだかおかしい。
 亜子は周囲にさっと目配せをする。いくらニブい亜子とて、気づく。
 人の気配がない。
 待合室は昨日もそれほど人がいたとは言えないが、それにしたって……。
 つぅ、と足元に何かが走っていく。なんだろうかと視線をおろした。そしてその瞬間、亜子は大きく目を見開いた。
 いつの間に。
 壁という壁。床という床。ありとあらゆる箇所に大きくべったりと、まるでペンキか何かで描かれたように紋様が記されている。
 異様な光景に圧倒され、腰を浮かしかけた亜子に、男は声をかけてくる。
「元来、魔術というのは、他者を惑わす、『まじない』から由来しているという説もある」
「…………」
「ところでお嬢さんは、最近よくアスラーダの近くで見かけるが、トリッパーなのかな?」
 柔らかい口調だが、まったく感情がこもっていない。ぞわりと悪寒が走って、亜子は今度こそ立ち上がった。ぐらり、と平衡感覚がにぶる。
 揺れてからその場に膝をつく亜子に、彼は立ち上がって前に回りこんだ。
「好機とみた」
「こう、き?」
「そう。現在この帝都には、他国が攻め込んでいる」
 聞き捨てならない言葉だった。いったいどこに? こんなに平和だというのに?
 怪訝そうにする亜子を嘲笑するように、男は唇の端をあげた。
「アスラーダからは、まぁ、何も言わないか。あの男は」
「…………」
「この機に乗じて、オレはオレの目的を果たす」
 男は片膝をついて、亜子の顎を掴んで上向かせる。フードがぱさりと乾いた音をさせて、背後に落ちる。
 亜子の赤茶の短い髪と、茶色い瞳が露になった。
「やはりトリッパーか。遠目では視界を曇らせるように施しているようだったが」
 初耳だった。亜子が不審そうな瞳をしたことに男は薄く笑う。
「だがまあいい。いい人質となるだろう。なにせやつは」
 やつは。
 聞きたくない、と亜子は反射的に思った。
 耳をふさぎたい。聞きたくない。だって。だって!
 コノ人は、コワイことを言う。
「あいつは――――」
 聞こえない。
 なにも、聞こえない。
 亜子の髪がざわざわと騒ぎ、赤色に染まっていく。瞳が見開かれ、金色に染まっていく。
 室内の空間はゆがんでいく。だがその歪みに、抗おうと亜子の本能が反応しているのだ。
 ほぼ反射的に亜子は男の手を振り払って高く跳躍し、天井でダン! と足をついてからくるくると体を一回転させて床に着地した。
 室内は薄闇に染まっている。まだ、朝だというのに。
「あなたは誰」
 睨むように、そして鋭く言う亜子に、男は腕組みする。
「なるほど。見たところ猫の毛色の強い異能か。キメラに近い印象を受けるな」
 きめら?
 その単語には聞き覚えがあったが、思い出せない。
(窓の外が、曇りガラスみたいになってて見えない)
 これは魔術というやつだ。きっとそうだ。
 亜子はただ動けない。どう出ればいいのか判断できないからだ。
 魔術。
 そもそもその呼称は、亜子の世界には存在してはいても、あるかどうかはわからないものだ。それなのに、この世界には「目に見える形で存在している」。
 マジュツというものがどういうものかを、亜子は理解できていない。だから、対処ができない。
 床や壁に広がっている巨大な図柄の意図するところを、亜子は読み取れない。
 カツー……ン。
 甲高い靴音が響く。ぞっとする亜子は、振り向いた。
 待合室に続く廊下に、男が立っている。
(え!?)
 目の前に、立っていたのではないのか? 距離をとっていたはずだ。なぜ、後ろに居る?
「ルキアが帝都に戻っていなくてよかった。やつがいれば、あっという間にこの陣が破られてしまうからな」
 声まで同じだ。
 亜子は振り返った姿勢のまま動けない。前を向けばあの男はいるはずだ。けれど、では、こちらの男は?
 幻か? それとも、分裂?
 恐怖に金縛りになっている亜子は呼吸が徐々に整わなくなっているのに気づいた。
「ふふっ。なかなか面白い反応だ。トリッパーの世界には魔術がないというのは真実だったのか」
 ひとりごちる男に、亜子は沈黙したままだ。怖くて。怖くてたまらなくて。
 視界が、暗く、染まりかける。
 足に力を入れている亜子は飛びかける意識を繋ぎとめておくので精一杯だった。
「種明かしをしてあげよう。ココは、夢の中」
「ゆ、め?」
「深層意識というやつを、繋ぎ合わせた状態だ。この病院だけに限ったものだが」
 では。
「あたしは、眠ってた?」
「そういうことだ」
 いつの間に、と亜子は顔をしかめる。
「ああ、君だけじゃない。薬の匂いが嗅ぎ取れる場所にいたものは全員眠っているだろう。この病院のどこかにいるはずだ」
「…………」
 わけが、わからなかった。
 この男の目的がわからない。
「現実のオレは、今まさに君の体を抱えてこの先へ進んでいる」
「……え?」
「この病院すべてに結界を張り、閉じた世界を作り出した。アスラーダに用があってな。逃げてもらっては困るのだ」
「逃げる?」
 マーテットが逃げる様子が想像できずに、亜子は問い返す形となった。
 男は愉快そうに笑う。
「ああ、知らないのだな、アスラーダのことを。やつは元々魔術師になる予定だったのを変更して、医者になったような男だ。才能がないことを認め、そこから逃げたのだ」
 ニゲタ?
 マーテットの姿や性格からその言葉が結びつかない。
 男は亜子に迫ってくる。
 上から、覗き込まれるようにされて息苦しさを覚えた。
「今では『ヤト』に所属しているが、それまでは中央本部に勤務していた。なぜか、わかるか?」
「…………」
「争いから、すべてからヤツは逃げていた。外界を拒絶していたのだ」
 地下の、あの研究室を思い出す。
 マーテットは始終あそこにこもっているし、なにか実験らしきものをしてはいるが……どこかへ帰る様子はみせない。
 彼は貴族のはずで、そして帰るべき屋敷もあるはずだ。そのことに思い至り、亜子が困惑と恐怖で顔を歪める。
「だが」
 男はぐっ、と背筋を伸ばす。
「逃げられなくなった。『ヤト』に属したばかりに」
「え……」
「けれど、きっとあの男は探しているはず。そして、手がかりでもなんでも、見つけているはず……」
 独り言のように呟く男は、は、とした顔をみせた。亜子は男の顔色が変わったのに気づき、視線の先を見遣る。
 まっすぐに伸びた廊下の先に、褐色の肌と、白い髪の青年が立っていた。彼は患者服のままではあるが、露出している肌のあちこちに、黒い包帯を巻いている。
 彼は、すぅ、と視線を細めてこちらを見てきた。
 男は、声にならない悲鳴をあげた。
「ば、バーサーカー……!」
 患者服の青年には見覚えがある。トリシアが看病していた彼だ。そして、マーテットが診ていたセイオンの青年だ。
 男は逃げるように後ずさる。だがそれを許すまいと、無言でこちらを見据えていた青年が、背後からぬぅ、と大きな太刀を取り出した。
「聞いていない! ここにバーサーカーが居るなんて!」
 男はみっともなく逃げようとした。けれども、青年が駆け出すのが見えた。
 あっという間に距離を詰めて青年は剣を振り上げる。
 亜子ごと真っ二つに斬るつもりだ……! 大きく目を見開き、目の前で閃く白刃を凝視していた亜子は――――。


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