Barkarole! インベル7

 マーテットに抱きしめられて呆然としていた亜子は、徐々に頬が熱くなるのを感じていた。
 こんなに体格差があったのだろうか?
(う、わわ)
 意識すると彼の薬品臭さも気にならない。
 意識しつつ、視線を動かす。倒れていたはずの少女はいない。まるで、夢だったかのように、だ。
 けれどあれほど生々しく記憶が残っている。
「あの」
 そっと、抱きしめているマーテットに問いかけようと口を開いた。けれど言葉にならない。
 ここでなにがあったかを明白にする勇気が、亜子にはなかった。
 ただ意識が乱雑で、記憶も、断片的。
 けれども沸騰した意識でここに乗り込んでから、数秒の後にマーテットが現れたのは……夢でなければ現実だろう。
 泣いていた亜子は恥ずかしさにごしごしと手の甲で瞼をこすった。
「どうなったんですか?」
「……んー」
 のん気なマーテットの声に、亜子は驚く。つい先ほど、彼の優しい声を聞いたような気がしたのに。
(き、気のせいだったのかな?)
 内心首を傾げながら、亜子は戸惑いの様子をみせた。それに気づいたのか、マーテットが耳元で笑う。
「正義感が強いんだなー、アトは。あぁ、言っておくけど、事後処理はおれっちがやったよ」
「そう、ですか」
 やはり夢ではなかったのか。
 知りたいものの、聞くのがはばかられて亜子は口を噤む。
「アトはさぁ、ここで気ぃ失ってた。突っ立ったまま!」
 楽しそうに言うマーテットの身体が震えている。これは、笑っている。確実に馬鹿にしている!
「……あたし、どれくらい気絶してました?」
「んー。ま、ちょっとかな?」
「ちょっとは嘘でしょう、マーテットさん。だって、襲われてた彼女も、あの、男子生徒たちも見当たらないですけど」
「そりゃ、平民女はもう部屋に戻っちゃってるだろうし、馬鹿なことした連中はおれっちが教員たちに引き渡したからな」
 つまりは、それをするだけの時間、亜子はここでぼんやりしていたわけだ。
「あぁ、だいじょぶだいじょぶ。平民女は、明日一緒に病院連れて行くからさ」
「そう、ですか……」
 明日、というと……。
 考えて、まだ外が暗いことに気づく。
(いま、何時くらいなんだろう……)
「アトは部屋でゆっくり眠ってな?」
「は、い……」
 まるで魔法だ。亜子は急激な眠気に襲われてそのまま前のめりになっていく。それをマーテットが抱きとめた。

 亜子を背負って廊下を歩きながら、マーテットは考えていた。
 あの心象風景は、現実か、それとも亜子の作り出した幻か。
(どっちもなんだろうけど)
 マーテットは背後ですやすや眠る亜子をうかがう。
 彼女が職業を決めるまで時間はそれほどない。一応、マーテットが保護をしているわけだが、彼は彼女が選択をする手伝いをする気はないのだ。
 ただ……そう、ただ。
 あれこれ考えて、ハァ、と溜息をついた。
 なにも亜子のことだけに時間を割いているわけにはいかない。マーテットにはマーテットの、『ヤト』の仕事がある。
 そのことを考えると億劫だった。ここの研究室にこもってあれこれやっている時間が一番好きなのだが、その時間を得るためには代償が必要なのだ。
 そしてその仕事……任務はもう始まっている。
(ルッキーを帝都に呼び戻す、か)
 かつんかつんと、誰もいない廊下にマーテットの軍靴の音が響く。
 マーテットは眉根を寄せる。ルッキーこと、ルキア=ファルシオンは、いわば兵器そのものの魔術師だ。人間だからあれこれ加減はできるけれど、基本的には残虐だと思う。
(ルッキーを戻すってことは、ヤバそうだよな〜)
 やだな〜。
「……ばかだよなぁ、アトは」
 呟き、小さく笑ってみせる。



 目が覚めると、マーテットの姿がなくて安堵した。また一緒に眠っていたらと思うと、恥ずかしすぎる。
 支度を整えて研究室を覗くと、マーテットはむずかしい顔で手紙を読んでいた。亜子に気づくと彼はそれをアルコールランプのようなものの上にかざして、燃やしてしまう。
「? いいんですか、燃やしちゃっても」
「いいんだ、べつに。ただの召集命令だから」
「召集?」
「仕事」
「あ、し、仕事、ですか」
 亜子はいまだにマーテットの仕事がどんなものか理解できない。
 時間が許す限りはこの研究室にこもっているし、何をしているのか亜子には理解できないからだ。
「そうそう、今日はあの食堂の平民女を病院に連れて行くから、アトも一緒に行くか」
 返事をしようとした際に、ノック音がする。
 誰だろうと思って振り返った亜子は、ドアを凝視する。と言っても、透けて見えるわけではないので見つめているだけなのだが。
 マーテットは半眼になってからイスから立ち上がり、つかつかとドアに近づいた。そして思い切り、無遠慮に開ける。開けたそこには、食堂のあの少女が立っていた。
 手当てはされているが、痛々しい様子がうかがえた。打撲のあとがあちこちに見えているが、包帯でなんとかぎりぎり隠している感じだ。殴られた顔には青あざが残っている。
 彼女は部屋の奥に亜子がいるのに気づくと、食堂でよく見せていた笑顔を無理に浮かべた。
(? ……なんで?)
 理解、できなかった。
 ショックではなかったのか? 辛くはないのか?
 だって。
(だってあたしは……)
 視界が暗く歪んだ亜子は近くの机に手をついた。かろうじて体勢を保てて、不可思議そうに眉をひそめる。
(あたし、は?)
「アト」
 呼ばれてハッと我に返ると、こちらをマーテットが見ていた。その、なんだかガラス玉のような瞳にゾッと悪寒が走る。
 これは、コレは、なんだ?
(え?)
 違和感を覚えるが、理由がわからない。
「お世話になります」
 ぺこりと頭をさげる少女に、マーテットはべつだん反応もしない。
「んじゃ、行くか」
 すたすたと研究室を出て行くマーテットに戸惑いながらも、亜子はその背中を追いかける。亜子は出入り口で待っていた少女を見遣り、どうしても表情を暗くしてしまう。
「よろしくお願いします」
 亜子にまで頭をさげてくる彼女に、なんと言っていいのかわからない。亜子はほぼ反射的に視線を逸らした。

 用意された馬車に乗り、三人は先日訪れた病院へ向かっていた。
 亜子はここにきて、沈黙が苦手だと気づいた。一人でいる時はいいが、他人がいる時の沈黙は心に重くのしかかる。
(どうして……?)
 マーテットが言っていた言葉を思い出す。
 アトは静かなの苦手だろ? そんな、意味の言葉を。
(苦手じゃない。なのになんだろうこの感じ)
 強いプレッシャーを感じながら、馬車の揺れが相まって、亜子は徐々に視界が暗くなっていく。
 あぁ……そうだ。狭い、狭いあそこにあたしはずっといて、ひたすら……。
 パン!
「っ!」
 掌の打つ音がして、亜子はハッとした。
 マーテットが両の掌を打ち合わせた音だった。
「アート、どした?」
「え? あ、いえ、なんでもないです」
 平気だとアピールして微笑むが、自分の横に座る少女の視線は、こちらに向いたままだ。
 亜子はちらりと視線を彼女に向けて、口を開く。
「あ、あの、大丈夫……痛くない?」
「大丈夫です。アスラーダ様が治療してくれるそうなので」
「?」
 あれ? おかしい。
(マーテットさん、まだ治療してないの? そういえば、傷が治ってない……)
 疑惑の瞳をマーテットに向けると、彼は「ん?」と呟いた。
 どうしよう。きこうか。どうしよう。きかないほうがいい?
 迷っているうちに、馬車が停まる。病院に着いたようだ。
 マーテットが率先して降り、少女と亜子に降りるように促す。昨日も来た、大病院だ。
(ん?)
 視線を感じたと思って亜子は周囲を見回す。だがそれらしき人物は見当たらない。
 行きかう人々。そして緩く進む馬車たち。
 誰も、亜子たちに注目はしていない。
(気のせいか……)
 目立たないようにと外套を羽織ってきて、フードまでかぶっているのだ。よもや、亜子の容姿が誰かの目につくことはないだろう。
 マーテットは待合室で亜子に待つように言って、少女を連れてどこかへ姿を消してしまった。
 残された亜子は昨日と同じ席に座り、考えてしまう。視線を伏せ、己の拳を見つめる。
 時計を持っていないので、太陽の方角でしか亜子は時間がわからない。しかも、だいたい、だ。
(マーテットさん、遅いな)
 あの女の子も大丈夫だろうか? いや、大丈夫なわけはない。
 苦悶していると、背後に気配を感じてどっと冷汗がでた。

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