Barkarole! インベル6

 世界は綺麗なんかじゃない。
 ハッとして、亜子は目を覚ました。
「あ、れ?」
 ここ、どこ?
 ぼんやりとした意識を覚醒させようと、軽く頭を振る。
 自分は突っ立ったまま気絶でもしていたのだろうか?
「ばかだな」
 そんな声が聞こえて、背後からゆっくりと抱きしめられる。優しく抱擁されて、亜子は最初戸惑った。
「ほんと、おまえって、ばーか」
 声に棘がない。
 誰の声だろうと不思議になっていて、気づいた。
「マーテットさん……」
 安堵してしまうのはなぜだろう? この校内に味方が、少なくとも味方と思える人がこの人だけだからだろうか?
 そもそもなぜ、自分は彼に抱きしめられているのだろうか?
 ここは……どこかの教室?
 首を傾げながら亜子は、ぎょっと目を見開き、それから耳を塞いだ。
「違う!」
 否定の声を鋭く喉から発し、亜子は大きく震えた。
 悪夢だと言って欲しい。お願いだから、違うと否定して欲しい。
「嘘だ……」
 弄ばれる一人の少女。救いを諦めて虚ろな瞳をしていた少女。どうでもいいと言わんばかりの表情をしていた少女。
 亜子は間に合わなかった。
 少女は殴られ、蹴られ、玩具みたいに扱われ、彼らの鬱憤を晴らす標的にされた。
 フラッシュバックする光景に、亜子は涙を流す。
 室内に踏み込んだ亜子は、笑い声を止めた少年たちに一斉に視線を向けられた。彼らは一瞬で、亜子がマーテットの連れだと理解し、そしてすぐさま悲鳴をあげて逃げ出そうとしたのだ。
 それを見送ることしかできなかった。
 そこにマーテットが現れたのだ。
 愉快そうに笑う彼は、いつも以上に目を細め、ばしんとドアを乱暴に閉めた。
 亜子は、呆然とそれを見ていた。身体が動かなかった亜子は、彼らを見逃すところだった。
 締め切られた室内に、少年の短い悲鳴が聞こえ、途絶えた。

「あのさぁ、おれっち、戦闘能力とか高くないわけ」
 くっくっくっ、と喉の奥を鳴らすマーテットは、さも興味がないように言ってのける。
 廊下の中央に佇む長身の、白衣の男の態度は明らかに異常に見えた。
 6人の少年たちは恐怖に歪んだ目をしている。
「医者って、言ってみれば魔術の延長上にあるからさぁ、ま、おれっちも魔術師の端くれってことだからさ」
 誰に説明しているのか、そんな独り言を洩らして、マーテットは白衣のポケットに両手を突っ込んだ。
「さーてと、生徒手帳出してもらおっか。んでもって、学科も確認しねーとな。あ、階級権利行使しようとしても無駄なのわかってるよな? そんな震えなくてもおれっち、乱暴なことしねえって。まあ信用ないだろうけど。ほんとだって、だってまぁ、子供をぶちのめすとか、ルッキーじゃあるまいし、やらねーって」
 だってさあ。
「身体にしろ、精神にしろ、傷めつけたっておれっちになんの得もねーし? むしろめんどくさいし?」
 だからさあ。
「おまえら、まだ恵まれてるよ? おれっちだもん、見つかったの。フフ、なにそのカオ。すっげぇカオで笑える。やば、お、おかし……」
 笑い出すマーテットを、少年たちは畏怖の目で見つめていた。
 軍医、マーテット=アスラーダ。確かに戦闘能力は秀でていないだろう。『ヤト』の中では。
「んーでも、そうだなぁ、あれだけ牽制したのに手ぇ出すってことは、おれっちはなめられてるのかなぁ」
 まあ、と彼は肩をすくめた。
「今まで放置しといたし、今回もお咎めなしとか思ったんだろうけどもさー、あー」
 後頭部を掻く彼は、目を細めた。
「どうしよっかなー。おまえらの家を潰すなんて、造作もないんだけど」
 その言葉の意味に、少年たちは目を大きく見開く。非現実的な言葉すぎて、理解することができなかったのだ。
 マーテットの家である、アスラーダ家は上流貴族だ。とはいえ、上流貴族ではその中間から下層に位置している。アスラーダ家よりも上の位置にいる階級の少年にはわからなかった。
 今まさにここで、マーテットは階級権利の行使が無意味だと言ったではないか。ではどうやって?
 マーテットは彼らに近づき、一人の首を遠慮なく片手で掴んで軽く持ち上げた。上へと身体が引っ張られ、呼吸がしにくくなる。
「まああの平民女も、あれっくらいでヘコむようじゃ、これからやってけないだろうし。人生はまだまだこれからだろうし? いい教訓になったとは思うけどー」
 語尾を伸ばしてから、マーテットは愉快そうににっこりと微笑んだ。
「うんまあ、おれっちの実験材料に精神ダメージを『勝手に』負わせるのはちぃっと許せなかったりして?」
 本当に本当に、それはもう愉しそうに。
 彼はふいに手を離した。どしんと尻餅をついた少年の一人は、ぜぇはぁと荒い息を吐き出す。
「ほらほら、生徒手帳だして。あとさー、まぁ、覚悟しとけば?」
「どういうことだよっ」
 小さな反抗的な声を洩らしたのは、一番奥の少年だった。彼はマーテットを、震えながら睨みあげている。
 マーテットはひょいと屈んでその少年に近づくと、無造作に手を握った。そして、気軽にもう片方の手で掴んでいる少年の手の指を一本、ぱきょ、とへし折ったのだ。
「ぎっ……!」
 悲鳴をあげる少年に、「シーッ」とマーテットが静かにするように合図する。
「あーあ。だめだめ。大声あげたらおれの大事な実験材料が驚いちゃうじゃない? だめだってー。大声あげるならもっとやろうか?」
 ぱきっ、とまた一本へし折る。
「足の指は折りにくいから嫌いなんだけど、やろうと思えばできるからなー。あ、嫌なら爪はがすほうでもいいけど。でもそっちって、手間かかって面倒なんだよなー」
 彼は短く詠唱をする。そして、魔術を具現化させた。折れたはずの指が元通りになっている。
「ほらほら、泣くなってば。でもほら、指折っただけでそんだけ痛いってわかれば、自分がなにしたか、ちょっとはわかるかな?」
 優しく諭すように言うマーテットだが、また、少年の指を無造作に折った。悪びれもせずに、彼は。
「ア……っ」
「シーっ、って言っただろー?」
 素早く口元を手で覆い、マーテットは眼鏡の奥の瞳を細めた。
「また治してやるから大丈夫だって。便利だろ、こういう時。おれっち、べつにいじめてるわけじゃないんだぜ? たださぁ」
 ただ。
「言うこときかない馬鹿、すごく嫌いなんだよね」

 逃げ出そうとする少年たちをもれなく全員縛り上げて、マーテットは取り上げた生徒手帳をまじまじと観察して中を見た。
 どいつもこいつも、なかなかに優秀な血統じゃないか。
「へへっへ。おっかしぃの」
 なにが不満なんだろうか? なにが足りなくて、あんなことをしていたのか。
 考えれば予想がつくけれど、あまりにも馬鹿なことを考えるのも嫌で、マーテットは笑いをとめた。そして気絶している少年たちに視線を向ける。
 室内の亜子は、ぼんやりと突っ立っている様子がうかがえる。怒りの矛先を見失ったのだ、当然だろう。
「うーん。でもまぁ、校長なんかに突き出したところで権力行使されてオシマイってなりそーだし、ちょっと大人気ないけど」
 亜子がいる方向へむけて、彼はにぃ、と薄気味悪く笑って見せた。
「オッスの旦那に相談してみっかな」
 生徒手帳を白衣のポケットにぎゅう、と押し込んでマーテットは教室のドアをがらりと開ける。
 ドアの向こうで、ぼんやりとしている亜子がいた。
「アト」
 声を軽くかけたのだが、彼女には聞こえていないようだった。
「ん?」
 様子がおかしいことに気づき、マーテットはひょいひょいと近づく。彼女は泣いていた。
 涙だけが流れていくのに、亜子は瞬きを繰り返すだけでほかの動作をしない。
「アト? おい、どうした?」
「……めて」
「?」
「やめて、おとうさ……」
 やめて。なぐらないで。
 彼女の髪の色は真っ赤に染まっており、暗闇でもわかるほどに輝かしい金色の瞳になっていた。明らかになにかが彼女に起こっている。
 どこを見ているのかわからない瞳で亜子は宙を凝視し、それから薄く目を細めた。あぁ、と溜息が洩れる。それは――諦めだった。
 マーテットは彼女を観察し、それから眉をひそめる。
 シャルルとマーテットの共通認識は、『ただの』異邦人ではない、ということだった。
 トリッパーというのはそもそもが遺跡の中、またはその付近に出現することが多く、遺跡を探査している者たちに早期発見されて帝都まで送られてくる。
 しかし亜子にはそれがなかった。
 彼女は気づいていないが、どうも……様子がおかしい。
 失礼なことかもしれないが、マーテットは亜子が完全に寝入ったあとで、彼女の寝巻きを脱がせて入念に身体をチェックしたのだ。
 ただの人間とどこも変わった様子がなかった。肌が黄色を帯び、やや顔立ちや体型に差異はあるが、人間であると断じられる。
 そして、どこにも折檻された痕跡はなかったのだ。だから見当違いかとマーテットは不審に思ったほどだ。
 マーテットの予想では、亜子は親か、または親戚に虐待されていたのではと踏んでいたのだ。亜子は気づいていないが、時々卑屈に他者の顔色をうかがっている。
 自信がどこにもないような様子で、時折、悔やんでいるように、それとも嘆きのように表情を歪める。
 そして今、亜子は、閉じている扉の隙間をマーテットに見せている。
 何かを思い出している。再現している。
(それは、なんだ?)
 トリッパーの世界を、みせろ。
 マーテットは彼女に一歩近づいた。
 亜子は微笑んだ。明らかに作り笑いだった。
「大丈夫だよ。あたしはここにいるから。うん、うん」
 相槌をうつように頷く彼女は、見えもしない相手に同意している。
 マーテットとしては、彼女に同情など一切感じない。亜子のような身の上の者は世界にはあちこちに存在しているし、もっと苦境を与えられている者もいる。
 物乞いをするために、わざと腕や足を切り落とす者だっているのだ。生きることにただ必死な者からすれば、亜子は「恵まれている」部類に入る。たとえ、亜子自身が不幸な状況下にいてもだ。
「アト」
 声をかけるが、彼女は反応しない。作り笑いをして、安堵させるようにしているだけだ。
 誰を、そうさせていたかはわからない。
 複雑なものが亜子にあるのは間違いなかった。マーテットは面倒そうに後頭部をがしがしと掻いて、彼女に触れた。
「おい!」
 やや乱暴に揺すると、まるで反射的に彼女はマーテットの手を振り払った。
 剣呑な光を瞳に宿した彼女は、そのまま立ち尽くして視線を伏せた。押し黙ることが義務のように。堪えているように。
(うーん)
 マーテットは亜子に異性としてまったく興味を持っていない。目の前にいるのはただの実験体としか認識していないのだ。
 様子がおかしいが、原因がわからない。おそらくこの状況から彼女が覚醒したら、今のことを忘れているはずだ。
 マーテットはとりあえず奥で倒れている少女に近づいた。
 うわぁ、と苦い表情を浮かべる。まあ、予想はしていたことだった。
 かなり乱暴に扱われたのだろう。けれどもマーテットはその姿にも同情すら感じなかった。
(これがララ姐さんだったら、血管ブチ切れそうだけど)
 男性だから、女性だから、というものが原因ではない。マーテットは人間そのものに、総じて、憐憫の感情を向けたことがなかった。どの生物に対してもだ。
 医者になるうえで、どんな時でも動揺しないことがマーテットの持論だった。そして。なるべく公平な目で観察すること。
 「なるべく」としたのは、どんなにやっても不公平さが生じてしまうのを理解しているからだ。
 だから亜子の身体をあれこれ調べた際も、まったく欲情しなかったし、なんとも思わなかった。
 どうするべきかと考えて、病院を手配することにした。治療を施し、とりあえず個室に入れておく。心の整理ができるかどうかは本人次第だ。助けてやれるのはここまで。これ以上するのはマーテットとしては大きなお世話だと思っている。
(ん?)
 マーテットは彼女の様子を観察して、不思議になった。
 少女は気を失っていたので、ここぞとばかりに近づいて様子を観察する。悪い癖だとライラに叱られはしたが、一向に直る気配はない。
 床を見て、それから少女を見る。
「おい」
 声をかけると、少女はぱち、瞼を開けた。呼吸音が眠っている時のものとは違っていたから気づいたのだが、本当に意識があったとは。
 ここまで酷い仕打ちを受けて彼女はまだ意識を保っていた。
「名前は?」
「……リカン=ドワウズ」
「フーン。とりあえず治療は『最低限』してやる。あと、病院の個室も用意してやろう」
「すみません、アスラーダ様」
 どこか訛りのある喋り方をする少女は、ぼんやりとした瞳を天井に向けた。
「せっかく、全生徒に対して注意喚起をしてくださったのに」
「……べつに」
 半眼になるマーテットは本気でそう思っていたのだ。亜子があまりにも気にするので、職員に掛け合い、生徒たちに不埒な行為をすれば厳罰を与えると言っていたのだ。もちろん、この権限はこの魔法院を守る、という前提で居座っているマーテットに許された権利だった。
 現役軍人なうえ、皇帝の直属部隊『ヤト』であるマーテットに逆らえるはずもない学院は、あっさりと承諾した。そもそも風紀を乱すことはよくない。
 上半身を起こした彼女は、頬を殴られ、唇も切れている。ぼろ雑巾のようになっている衣服のまま、彼女は苦笑いをした。
「実は、実家に居た時に実の兄に何度か乱暴をされているので、耐えられると思っていたんです」
「…………」
「でも、まさか多人数でこられるとは思ってなくて。うまく、流せませんでした」
 同情なんて、しない。
 家庭の事情なんて、色々あるし、マーテットは踏み込むべきではないと判断した。
 彼女は吐露したがっているだけで、マーテットに本気で助けて欲しいなどとは思っていない。
「人間なんてみんな、汚い」
 吐き捨てるような彼女の言葉にマーテットは目を丸くし、それから笑う。
「綺麗な人間なんて、おれっち、見たことねーぞ」

 亜子の意識が戻ったのはリカンが身支度をとりあえず整え、頭を下げて教室から出て行ってしばらくのことだった。
 我に返るまでの亜子を終始観察していたマーテットは、ゆらゆらと亜子の感情が瞳に揺れているのに釘付けだった。
 まるで見えない天秤が、左右に激しくがたんがたんと重石を乗せられて動くように、亜子の感情は嵐のように静かで、激しかった。
(うー!)
 うずうずしていたマーテットは耐え切れなくて、持っていた薬の瓶を取り出した。彼は確かに医療術に長けてはいるが、魔術師としては同僚のルキアの足元にも及ばないのだ。薬を補助に使えばある程度は強力なものも使える。
 そう、「意図した魔術」が、だ。
 苦手なジャンルの魔術なので、注意が必要だった。
(アトがなに見てるのか、気になる!)
 彼女の瞳は、彼女の……マーテットの知らない世界を映しているのだ。いったいどんな世界なのだろう? 見てみたい。
「『そは』」
 深呼吸して、呪文の詠唱にかかる。
「『夢の中。幻の時間の中に立つ者よ』」
 薬品を補助に使い、亜子の世界をこの教室に投影してみようというのだ。かなりの無謀と、無茶だった。
 しかし興味の強いマーテットはとうとうやってしまった。元々、あまり我慢のきかない性格なのも災いした。
 彼は詠唱を終えて一息つき、うっ、と硬直した。
 亜子の周囲はまるでざらざらとした砂嵐のようなものだった。途切れ途切れになにかの光景が浮かび、消えていく。
(そうか。アトは記憶混濁だった! 正確に思い出せるわけなかったの、忘れてたぜ)
 しまったと思うが遅かった。
 亜子の記憶を映し取った光景は、まさに、心象風景だった。
 そしてマーテットは悟る。予感は的中していたのだ、と。

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