Barkarole! インベル5

 マーテットは亜子に留守番をするように言い渡して出て行ってしまった。
 こんな夕方から、と一人ぼっちになった亜子は、とりあえず食堂に向かう。食堂には話をつけてあるらしく、亜子が言っても金銭を払う必要はないようだ。
 マーテットには世話になりっぱなしだ。……そのことを考えると、やはりあまり強くなにか意見をすることは躊躇われた。
 食堂への道には生徒がまばらにおり、それぞれ楽しそうに談笑している。教室の中はよく見えないが、そこには生徒がいる気配はうかがえた。
 ここは学校なのだ。
(ガッコウ、か)
 亜子の微妙な記憶に残っているのは学校の残滓だけだ。あまり学校そのものに思い入れはない。
(なんでなんだろう。あんなに……勉強したのに)
 嫌っていたのだろうか? よく……思い出せない。
(あ、そうだ、夕食)
 研究室を出て、亜子は食堂へと向かう。
 夕食をとるのは遅くまで残っている生徒と、教師たちだけだ。朝や昼のような喧騒がないだけましの気がする。
 ぼんやりしていたらあっという間に陽が傾き始めている。窓から差し込む太陽の光は橙色で、優しくもあり、残酷でもある。
 亜子は夜になると早々に眠るようにしているのだ。これは、夜になるとやたらと肉体が活性化することに関係している。
 亜子の異能体質は、化け猫に起因している。身体能力が著しく向上しているのは、やはり人間ではないものに変質しているせいだろう。
 そして……亜子の元の世界で登場する「化物」という存在は、みな、夜になると活動する印象が強い。闇に紛れて行動するそれらは、やはり亜子も例外とはしなかった。
 亜子は夜に差し掛かるとざわざわと落ち着かなくなった。そして、急に苛立つ。感情がやたらとむしゃくしゃして、気分の上下が激しくなる。
 だからまず、夜になってからは心を落ち着けるようにしている。地下という場所も、おそらくよくはないのだろう。閉鎖的な場所は元々嫌いではないのだが、気分が高揚してくると、どうしても外に出たくなる。
 マーテットが居る手前、夜の散歩に出かけるのも悪い気がして、言い出せなかった。
(今日は、ちょっとくらいはいいかな……)
 夜の風に吹かれながら、ちょっと一人で考え事をしたかった。
 これからのことを……真剣に考えていかなくてはならない。亜子はこの世界で一人なのだ。生きていくことを、真面目に考えなければいけないのだ。
 とぼとぼと歩いていると、食堂に辿り着いていた。相変わらず、入り口にご丁寧にメニューの書かれた素朴な掲示板がある。
 中に足を踏み入れて、亜子はあれ、と不審に思った。
 カウンターに居るはずの人物がいない。あの少女はどこに行ったのだろう?
 視線を食堂内に移動させ、見回すが、それらしき人物は見当たらない。
 恐る恐るカウンターに近づくと、べつの人物が顔を覗かせた。
「あぁ、アスラーダ様のお連れ様ですね」
 丁寧に言うのはいつも奥のほうに居る青年だった。亜子はカウンターの奥へと視線を遣る。
「あの、彼女は?」
「彼女?」
「ええ。あの、そばかすの残った、」
 言い終える前に、青年の顔色が変わった。なにかある。
 亜子は一瞬にして血の気が引いていくのがわかった。
「それが、今日は夕方の仕込み前から姿が見えなくて」
 青年はそう言っているが、嘘は言っていないだろうが、何か隠しているのはうかがえた。
 亜子はすぐさまきびすを返し、走って食堂を出て行く。長い廊下を走り、そしてきょろきょろと見回す。
 名前も知らないあの少女を探すのは難しい。こんな広い学校で迷子になることは、あることはあるだろうが、それでも……。それでも!



 荒い呼吸を繰り返して、流せる汗をぬぐうこともできずに亜子は佇む。
 現実というものは、どうしてこう、突然、こわいものを突きつけるのだろう?
 きぶんがわるい。
 激しく上下に揺れる肩と、胸をどんどんと叩くように鳴っている心臓。
 必死になった結果が「間に合わない」というのはどんな悲惨なものか。
 そもそも自分は、ヒーローにでもなる気だったのか? 偽善者にすぎないではないか。
 ギゼンシャ。
 マーテットとの会話を思い出す。彼は自分より大人だ。だから、どうあっても手から零れていくものがあるのを認識している。
 最善の手は尽くした。
 彼はしてくれた。それ以上は、彼には関係のないことだ。
 目に映ることすべてから悪意を取り去れというのは、無茶な願いだ。
 自分に好意的に接してくれた、そう印象を受けた人物だけを救うというのは明らかに「区別」で、よくない。
 だというのに。
 亜子は、目の前に広がっている光景を目に焼き付けた。
 身体が震える。
 同情? 憐憫?
 そんなものは、憤怒の前ではどうでもよくなる。
 げらげらと笑う、下品な声たち。
 部屋の外にまで漏れ聞こえるそれらに、亜子は目を細めた。
 廊下に入ってくるのは優しいはずの月の光。だがこちらの世界の光は、優しいとはまったく思えない。むしろ冷たい。凍てつくようだ。
 光を背中に受けつつ、亜子は重くなっていく足を引きずって、部屋に踏み込んだ。
 闇に支配された室内に踏み込む直前、見えたのは彼女の髪の色が燃えるような赤色だったこと……。

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