Barkarole! インベル3

 研究室に戻ったら、ここを出るなと言ってマーテットはどこかに姿を消した。
 残された亜子は研究室の中を見回す。じっくり見るいい機会だ。
 仮眠室よりは広いし、裕福な家の個室程度はありそうだ。しかし、雑多に物があるせいで、窮屈に感じる。
(あ)
 そうだ。何かに似ていると思ったら、理科室だ。
 ここは学校の理科室みたいだ。
 改めて観察すると、実験器具はそれに似通っている。棚のほうに目を遣れば、ぎゅうぎゅうに押し込まれている本の棚もあれば、引き出ししかないものもあった。
 立っていてもすることがないので、亜子は本棚に近づいて1冊抜いてみることにする。
(む)
 力を入れるが、引っ張っても本がこちらに動かない。どういうことだ。
 眉をひそめて亜子は指先に力を入れる。
 びくりともしない本に悪戦苦闘するが、仕方ない。諦めて肩を落としたら、耳に軍靴の音が響いてきた。どうやらマーテットが戻ってきたようだ。
 バタンとドアを開けて、彼が入ってくる。手にはなにやら衣類。
「ほら、着替え」
「え?」
 ずいっと突きつけられて、亜子は受け取ってしまう。
「ほらほら、早く着替えろって」
「え。あ、はい」
 頷いて仮眠室へと行こうとしたら、肩を掴まれた。
「んん? どこ行くんだ?」
「どこって、着替えに……」
「べっつにここでいいだろ。ついでに見立てがあってるかも確かめたいし」
「っ!」
「目測はおれっちには造作もないことだけど、きちんと測定してないからな。アトの身体検査の報告書に目を通したかったのに、許可おりなかったし」
「…………」
「くっそー。やっぱり生きてるトリッパーの情報は開示されないのか」
 拳を握って悔しそうに言うマーテットの姿に、どう返していいかわからない。本当に奇妙な人物だった。
 まじまじと見ていると、視線に気づいたマーテットが見返してくる。
「? なんだ?」
「…………」
「あれ? もしかして着替え方がわかんねーのか? 仕方ねぇなぁ。手伝ってやるから、さっさとしろよもー。おれっちは侍従じゃねえんだっつーの」
 文句を言いながらすいっと手を出して、亜子の衣服のボタンに手をかけてくる。あまりの自然な動作に、対処が遅れた。
「めんどくせー。女物ってなんでこんなボタン多いんだよ? いや、軍服もけっこうなあれか。しっかし安っぽいつくりだなー。生地がぺらぺらだろ」
「うわあああああ!」
「へあ?」
 亜子の悲鳴にマーテットはちょっと驚いただけのようだ。慌てて彼の手から逃れ、壁際まで逃げる。
 その様子に、彼は無言になってから手帳を取り出した。さらさらとまた、書き込んでいく。
「羞恥心あり。対処が遅れる」
「声が洩れてますって!」
「洩らしてんだよ、意図的に」
「!?」
「まぁまぁ、ほらほら、さっさと着替えろ」
 わけのわからない亜子に微笑みかけ、マーテットは背中を向けて椅子に腰掛けてしまう。まさにあの夜襲の時と同じ光景だった。
 じっと見ているのもどうかと思い、仮眠室に引っ込んで渡された衣服をベッドの上に広げてみる。
(……なにこれ。変わってる、というか……)
 ナース?
 色が黒なので一見そうは見えないが、デザインが限りなく近い。ナースキャップはないので、衣服だけだが。
 膝丈のタイトなスカートにはスリットが入っている。黒のストッキングもあるではないか。
 赤いボタンが可愛いデザインに見えるようになっているので、なんだかそう悪くもない。
(ストッキングに近いけど、薄い靴下みたいだなぁ……)
 早速着替えて、全身を見下ろしながらくるりとその場で右に回転してみせる。
(どうかな。変じゃないといいけど)
 亜子は仮眠室のドアをそっと開けて、外を覗く。マーテットは机に向かって書き物をしているようだ。難しい表情をしている。
 思い切って部屋から出てドアを閉める。音で気づいたのか、彼はひらひらと手を振っただけだ。
(なんか感想とか言ってくれないのかな。いや、似合ってないって言われたらおしまいだけど)
 見もしないというのはどういうものなのか……。
 落ち着かない亜子に、マーテットは声をかける。
「とりあえず、なんか読みたいものとかあるか? 今日はおれっち、仕事で忙しいし、明日は回診あるから出かけるし」
「回診?」
 医者なのか、やはり!
 衝撃を受けている亜子に、マーテットは「うーん」と唸る。
「ルッキーの知り合いで、ちょっと厄介な患者がいるんだなー、これが。そいつの診察ってわけ。
 ま、おれっちとしてはあまり見ない症状だから面白くていいんだけど」
「じゅ、重病なんですか?」
「病気じゃあねえよ」
 笑って答えるマーテットは、やっとこちらを見た。
「あぁ、うん、いいんじゃねーの。平民女の服よりましかな」
「そんなにまずかったんですか、あの服」
「まあなー。ここは貴族どもがうようよいるからな。おまえは貴重なトリッパーだし、バカどもに手ぇ出されたら困る」
(……あくまで実験体としてなのか)
 呆れても仕方がない。これが、マーテットの考え方なのだ。
 トリッパーであるからマーテットは目をかけてくれているのだ。今は、まだ。
 だがトリッパーであるだけで、亜子は元の世界ではただの女子高生だった。しかも、受験のために詰め込んだ知識はほぼない状態だ。マーテットの役に立てるとは思えない。
 亜子は己の姿を思い出す。こちらの世界に来てから、そう見た目は変わっていない。異能が発動すると、確かに肉体変化は起こるが、発動させなければ普段どおりだ。平凡な顔立ちの自分は、この世界では目立つが……いくら珍しいからといって、何かしてこようとする人々の心理が亜子には理解できなかった。
 自分に魅力らしいものが備わっていないことなど、承知している。それに。
(殿下を見ちゃったら、そりゃ……普通は落胆よりも、諦めちゃうよね)



(ん〜、なんか背中痛い……)
 亜子は瞼を閉じたまま、眉間に皺を寄せる。
 丸まって寝ていたせいか、姿勢が極端に悪い気がした。
 何度か瞬きをして起き上がった亜子はぎょっとして動きを停止する。すぐ後ろで寝ていたマーテットの姿に気づいたのだ。
(は?)
 なにこれ。
 困惑する亜子とは違い、長身のマーテットは窮屈そうにベッドに横になっている。
(え? だって、昨日は先に寝ちゃって……え?)
 ええ??
 真っ赤になって硬直している亜子は、とりあえずそそくさとベッドを降りて研究室へと避難した。
 ばくばくと心臓が鳴っている。
(な、な、なん……)
 完全に混乱状態に陥った亜子は、マーテットが起きてくるまで本棚に背中をずっと押し付けていた。

 朝食をとりに食堂へ向かっていた亜子は、昨日マーテットが通った道筋を歩いていた。背後にはアドバイスもしないマーテットがいる。
「で、ここをまっすぐ……」
 ぶつぶつ言いながら亜子は歩き、視線の先にお目当ての食堂を見つけて安堵に胸を撫で下ろした。
 入り口には昨日と同じく本日のおすすめメニューのことが書かれたボードがある。
 一応目をそちらに遣りつつ、亜子は食堂に足を踏み入れた。そこは大勢の生徒であふれかえっていて、ぎょっとしてしまう。
(う、わ)
 やはりここは学舎なのだ。改めてそう感じつつ、食堂の出入り口付近の生徒たちの視線が一斉にこちらに集まるのを感じた。
 目を逸らすもの、背けるもの、なにかをこそこそと囁きあう者、さまざまだ。
「?」
 事情がよくわからない亜子は、背後のマーテットに目配せする。彼はにやにや笑って生徒たちの様子を眺めていた。
(す、すっごく悪い笑顔してる……)
 なにが愉しいのかわからないが、マーテットには相当愉快なようだ。彼はすたすたと長い足を動かして注文カウンターへと向かう。
「おはようございます!」
 昨日と同じくそばかすの残る少女が出迎えてくれた。彼女は毅然としているが、なにやら様子が違う。
 マーテットに気づいて深々とお辞儀をした。
「失礼しました、アスラーダ様」
「ああ? べつに気にすんな。で、朝食セットAな。あと、コーヒー」
「はい!」
「おーい、アトはなんにする?」
「え?」
 驚きつつも、亜子もマーテットと同じものを注文した。飲み物は……よくわからないので水、だ。
(牛乳があるのかわからないし、ジュースもあるかわからないし)
 いくら地球に似ているからとはいえ、キメラの剥製のことなどを考えると文化が違うと痛感するしかない。
 ここにしかない食べ物も多いだろう。
(勉強していかなくっちゃ……)
 そうだ。そうして、いか……。
 意気込んだ矢先、ぐらりと眩暈が起こる。踏ん張った亜子は、自分自身に動揺して困惑の眼差しを足元に向けていた。
「どした? 立ちくらみか?」
「え? あ、大丈夫です」
 マーテットに応えて、亜子はトレイに乗せられた食事を持ったまま空いた席へと歩く。
 賑わう食堂の片隅の席に腰掛け、向かい合って亜子は食事をする。スクランブルエッグのようなものと、トースト、それに野菜のサラダとスープ。……という見た目の食事だ。
 明らかに周囲の視線が集まっているのに気づいて、亜子は居心地が悪くなった。
(なんだろう、これ……)
 畏怖? 恐怖? よくわからないが、戸惑いの中にそのような感情の波をそれとなく感じる。
「あの」
「ん? どした?」
 いつもの調子で微笑むマーテットに、亜子は恐る恐る質問してみた。
「マーテットさんて、怖がられてるんですか? 生徒さんにまで」
「え? んー、まあ現役の軍人だからしょうがねぇだろ。ああでも、昨夜のことが響いてんのかもね」
「昨夜?」
「ちぃっとお仕事しただけだから、気にすんな」
「?」
「ふわあ、まだねみぃ」
 欠伸をするマーテットを、亜子は不審そうに見つめることしかできなかった。

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