Barkarole! インベル2

 朝から妙なものを見せられ、亜子はぼんやりしながらマーテットの背中を眺めて歩いていた。この奇妙な人物は、そもそもなにを研究しているというのか。
 医者というにはあまりのも不似合いな職業だ。
 廊下は静まり返っている。どうやら講義が始まっているようで、廊下には亜子たち二人以外は見当たらなかった。
「この先をー、まっすぐ。一人で行けるようになれよ。おれっちが急に留守にすることもあるからな」
「は、はい」
 慌てて頷くが、マーテットはこちらを振り向きもしない。長身の彼は長い脚でずんずん亜子を引き離すので、亜子は小走りになりがちだった。
 あまりにも遠慮がないというか、こちらに気遣いを一切しないので、亜子としては対処に困る。
 到着した食堂には、まばらに人が居て、なにやら勉強をしている者もいれば、のんびりとお茶を飲んでいる者もいる。全員が校章入りの短いマントをつけてはいないので、教員かもしれなかった。
 テーブルとイスが用意された食堂は、やはり学校のイメージにそぐわないものだった。入り口に飾って置いてある黒板には、白いチョークで『本日のオススメメニュー』と絵入りで説明がされていた。
「庶民ぽくて笑えるだろ」
 マーテットはそう言って、すたすたと行ってしまう。庶民ぽいことが、愉快なのだろうか?
 彼に追いつくと、無造作にトレイを渡される。
「ほれほれ。ここに居る間はおれっちが奢ってやるから、遠慮しなくていいぞ」
「いえ、あの、でも」
「食堂が広いのはいいけど、ほんっと面倒だよなー。料理くらい運んで来いってんだ。でも弁当だとなー。温度がさがると不味いものもあるし」
「…………」
「んお? どした? 急に黙って」
 亜子がついて来るのを待つわけもなく、マーテットはさっさとカウンターへと歩き出す。続く亜子は、余裕がないせいで彼に倣うしかないと緊張していた。
 これが昼時や夕時になれば、食堂がごった返すのがわかる。もたついて、背後で待っている者を苛立たせるのも申し訳ない。
 マーテットはカウンターに行くと、作業をしている若い女性に大きく声をかけた。
「本日のおすすめー。ついでにコーヒー」
「え、わっ、あたしも本日のおすすめで! あの、水をください」
「はいな」
 すぐさま返事をしてくるのは、そばかすの残る娘だ。彼女は食器を洗っていた手を止めて顔をあげ、こちらを見てぎょっとしてくる。
「ヒッ! アスラーダ様!」
「……おまえ、新人か?」
 いきなり声のトーンが下がる。マーテットが顔をしかめていた。
 娘は平伏しかねない勢いで頭をさげると、がたがたと震える。マーテットは溜息をひとつつくと、「早くしろ」と短く命じた。
 料理人たちは一斉に調理にとりかかり、あっという間に並べたトレイの上に料理を置いてくる。最後に飲み物も乗せられた。
 美味しそうな料理に亜子はどきどきしてしまう。サービスなのか、小さなアイスもつけてもらってなんだか得をした気分だ。
「じゃーなー。ま、せいぜいがんばれ」
「はい! ありがとうございますッ!」
 気合いを入れた声で頭を下げてくる先ほどの娘から早々に離れて、マーテットは窓際の一角の席に座った。亜子は向かい側にするか横にするか迷ったが、向かい側の席に腰掛ける。テーブルの上に運んできたトレイを置いた。
 ふいにカウンターへと視線を遣ると、そばかすの娘と視線が合う。彼女はこちらを凝視していたのか、ハッとしてすぐさま奥へ引っ込んでしまった。
「……マーテットさんて、怖がられてるんですか?」
「んん?」
 早速食べ始めたマーテットは、亜子の視線を追ってからすぐに興味が失せたように食事を再開した。
「ま、現役の軍人だから、怖いのかもなー」
「そ、そうですか」
「べつに暴れたりしねーけど。どーせすぐに辞めるだろ、さっきの女も」
「え?」
 聞き返す亜子の前で、マーテットはもぐもぐと口を動かしている。
「馬鹿なガキがうようよいるからな。慰み者で済めばまだいいほうか」
「なぐさみもの……」
「平民の女に発情するってのも、考え物だなぁ」
 決定的なことを言われて、亜子は頭をハンマーで殴られたかのように、手にしたフォークを停止させた。
 目を見開いている亜子を眺め、ふところから手帳を取り出してマーテットはペンを走らせる。
「ふむふむ。反応は平凡。もっと青ざめるかと思ったけど」
「ま、マーテットさん、い、今の……つまり、えっと」
「そのままだ。身なりがよくなかったし、ありゃあ平民だな。わりと小奇麗なほうだけど、ま、地味だ」
「わかっているのに放置するんですか? 助けてあげないんですか?」
「そんなのおれっちがやるわけないだろ。盛ってるガキどもをどう取り締まれってんだ。軍人は役人じゃねェーんだぞ」
「で、でもっ」
 なおも言い募ろうとして、亜子はどうしていいかわからなくなる。
「あ、あのっ、そういうの、罰せられないんですか?」
「バレれば処罰対象にはなるけど? 退学させるか、謹慎させられるかはわかんねーな」
 当たり前のことのように言うマーテットの前で、亜子がわなわなと震えた。バッと振り返ってカウンターを見る。彼女の姿は見えない。
「おーい。忠告したって無駄だからやめとけ。わかっててここに居るんだし、覚悟はあるだろ」
「覚悟があったって、遭遇しなきゃわからないことだってありますよ!」
 非難する亜子に、マーテットは食事を再開させて頷く。
「まーな。でも四六時中見張ってるわけにはいかねーよ。隠れてうまくやる馬鹿はどこにでもいるし」
「…………」
「そんなに心配なのかぁ? アトだって、階級は平民なんだから危ないんだぞ? 自分のことだけで精一杯だと思うんだけどなぁー」
 なんだって?
 表情が強張る亜子をまたじっと見てから、手帳にさらさらと書き込んでいく。
「フーン。ふむふむ」
 なにやら勝手に納得している様子。だが亜子は気が気ではなかった。ここは魔法院という名の学び舎ではないのか? いくら階級社会とはいえ、平民を弄んでいいわけがない。そもそも人間にそんな権限はないはずだ。
 だがしかし、現実問題として、亜子にはわかるような気がする。亜子の世界でも、差別はあるからだ。
 大人しくなった亜子をちらりと見て、マーテットは食後のコーヒーをすすった。亜子は一気に食欲が失せてしまい、目の前の食べ物を睨んでしまう。
「ひと気のないところには行かないこと。見た目でわかんねーと思うから、誰かについて行ったりしないこと。いいな?」
「あ、あの人は……」
「…………」
 冷ややかに見てくるマーテットはやれやれと席を立った。そのまますたすたと歩いてカウンターに近づくと、奥へ向けてなにか言っている。
 短いやり取りのあと、彼は戻ってきて椅子に座った。どこか不機嫌そうだ。
「あの……」
 うかがうと、彼はコーヒーをちびちび飲みながらなんでもないことのように言う。
「解雇してきた」
「ウソッ」
「嘘だよ。人事権はおれっちにはねーし、あの女は女給として職業登録されてる。軽々しく撤回できるわけねーよ」
 一気にほっとする亜子だが、ならば彼はなにをしにあそこまで行ったのだ?
 首をかしげていると、「食べたら?」と促された。渋々手をつける。口元に運ぶ前に、マーテットは言い放った。
「とりあえず忠告はした。厨房の連中にも目を離すなとは言ったけど、どうなるかな」
 わかんねぇなぁ。
 ……その呟きに亜子が動きを停止させるのを見てから、マーテットはまた手帳になにか書き込んだ。
 もしや自分の反応をわざと見ている?
 無理に手を動かしてフォークを口に運んだ。一口食べて、かなり美味しいと噛み締める。これが食堂レベルとは思えない。
「美味そうに食べる。現金」
 呟かれた一言に視線を向けると、マーテットがまた手帳にペンを走らせている。確かにちょっと軽率だった。
「んお? ほらほら食え」
「マーテットさんて、他人をよく怒らせませんか?」
「よくわかったな。早く食べないとアイスがとけるぞー」
 すでにとけかかったアイスを一瞥し、亜子はフォークを動かしてたいらげ、スプーンに持ち替えてアイスを食べた。こちらは甘くて美味しい。
「甘味に対しての味覚は正常」
「…………」
 あの、声がもれてますよ?
 言ってやりたいが、言ってもムダかもしれない。彼が変わっているのはわかっていたことだ。
「そういえば、その服」
 マーテットがびしっと指差してくる。亜子は己を見下ろしてから、再び視線をマーテットに向ける。
「研究室に戻ったら着替えたほうがいいな」
「えっ、へ、変ですか?」
「べつにいいけど、襲われたいならそのままで」
「お、おそっ?」
 コーヒーをすするマーテットは、瞼を閉じた。
「危機感が薄い。バカ」
 ばか?
「他人のことにかまける。問題」
 もんだい?
「あー、そうか」
 瞼を開いたマーテットは、納得したように何度か首を縦に振る。そしてそのまま手帳に書き加えてコーヒーを飲み干した。
 無言で見つめている亜子を見遣り、彼は首を傾げた。
「なんだよ」
「いえ……。
 あ、あの、さっきはありがとうございました」
「さっき? なんかあったっけ?」
「食堂の」
 カウンターへとちらりと視線を遣ってから、マーテットにぺこっと頭をさげる。
「さっきの女の子に知らせてくれて」
「ああ。そーゆーこと。
 いいよべつに。おれっちも、馬鹿なガキは嫌いだから。見つけたら、見逃すとは思えねーし」
「え? そうなんですか?」
「これでも現役軍人なんでね。視界に入ればやむを得ない場合もある」
 不本意ではあるが、軍人である以上は助けてやると言っているのだ。
 誰かのために動くマーテットが想像できず、亜子はちょっと苦笑いをした。

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