亜子はナイフを引っ込めた。そして静かに怒りをフレデリックに向ける。いや、それは筋違いかもしれない。
どういう世界なのだ、ここは。人の命をなんだと思っているのか! どうかしている!
「まともじゃない……」
にじみ出るような声で訴えるが、フレデリックはまったく動じない。
この皇子も、シャルルも、しょせんは国のための存在に過ぎないのだ。軍隊の者たちも、だ。
すべてはこの帝国を支える存在。
(国のために命を捨てろって……? どこの時代だ)
そこに誇りがあるわけでもない。彼らはその役割を与えられているから従っているだけだ。
この世界では命は軽いものなのだ。それこそ。
(あたしの命だって!)
「殿下があなたの身代わりをするとは思えない」
「たとえ憎んでいようと、やつは身代わりを引き受けるしかない」
「あたしに人質の価値はない。意味がない」
「ここにファルシオン夫人が居る、ということに意味がある」
ぎょっとして亜子はトリシアを振り向いた。彼女は青ざめ、それからしっかりと両の掌を合わせてフレデリックを見つめていた。
無言でいた彼女は、静かに呟く。
「夫は必ず私を見捨てます。過大な意味など、私にはありません、殿下」
「そうかな?」
頬杖をついて、フレデリックはぼんやりとした瞳を向けていた。この彼の症状も、『血の呪縛』によるものだ。蓮国は帝国に次いでいる国。けん制を与えるために政治的な取り決めでフレデリックの婚約者は蓮国の王女になっているが、そこには血の契約がある。
婚儀を結ばなければ徐々に互いの生気が枯渇するという呪縛だ。もはやこれは魔術ではなく、呪術の分野に近い。
フレデリックから聞かされても、亜子はそれがどれほどおかしなことか、ということしかわからなかった。
彼は嫌がるでもなく、なんでもないことのように話した。どうでもいいことなのかもしれない。けれど。
(もし、殿下が同じような症状だったら……)
彼も受け入れただろうか? 前を向けと、立ち上がれと言ってくれたあの人が。
まともじゃない? でも、あたしもまともだろうか?
異常とはどこからで、まともとはどこからなのか。線引きはどこだ? 人道的か、否か、か?
ココは亜子の世界ではない。だからこそ、その違いが辛い。
シャルルは、未来の自分の姿をフレデリックに見ていたのだろうか? 諦めているのだろうか?
(あたしはずるい……)
自分は逃げたのに。シャルルには逃げないで欲しいと願ってしまう。立ち向かって欲しいと身勝手なことを思ってしまう。
ああ……!
(あたしは、殿下が好きなんだ……)
必ず手を引いてくれるから? 理由なんて、わからない。いつからなのかも、わからない。
でも、恋しい。愛しい。あの人の傍に行って、ひとりじゃないと伝えたい。
けれどこの恋は同時に破れるものだと亜子にはわかってしまった。亜子はしょせん、トリッパーで、彼の恋人にはなれないだろうから。
身分差の障害も、なんとなくしか理解できないが……彼は亜子のことをそれほど大事とは想っていないだろう。
きっとそう。
(フレデリック殿下はシャルル殿下の『未来』で、あたしは『過去』だった……)
逃げられない未来を約束させられたフレデリック。そしてまだ見ぬ未来がある亜子。シャルルは現れた亜子を、振り返ってしまったのだ。まるで、過去の自分を見るように。
選択肢がいくつもあった頃の、いいや、そう錯覚していた頃の自分に。
悔しさに亜子が顔を歪ませている間にも、フレデリックは生気のないような表情でトリシアと対峙していた。
「ルキアはおまえに執着している」
「していません」
「しているのを確かめた」
「! お、夫は、任務を優先します! 私の命など!」
言い張るトリシアは徐々に涙目になっていく。彼女が崩れ落ちそうになるのを亜子は支えた。
「ずるいわ……! ルキア様はいつだって、国のため、民のために戦っているのに! どうしてあの人を孤独にしようとするの!」
「やつは孤独を理解できていない。だから強いのだ」
「欠落者だから!? あの人はそのことを恥じているのに!」
「そなたの自己満足で国の防備を疎かにするわけにはいかぬ」
「っ」
息を呑むトリシアは心底憎そうにフレデリックを見遣った。亜子はぼんやりと視線をさげたフレデリックが笑うのを見た。
「あの男にまともに戦ってもらうために、そなたの安全を確保しているのだ、夫人」
亜子はその言葉に戦慄をおぼえた。ルキアにとって、トリシアがどれほど大事なのかは見ていれば充分だった。彼はトリシアを失ったら……。
(殿下……)
不安がじわりと広がる。自分がどこに立っているのかわからなくなるこの感覚……。
(たすけて……)
もがくように。水中の重い体を引きずるように亜子はフレデリックを見た。彼の背後には皇帝がおり、この国がある。
トリシアは顔を覆って呻いた。泣いているわけではないようで、ひたすらに苦悩しているようだった。
「いじめないでくださいよ、妻を」
ふいに聞こえた声に目を剥く。ドアのところにルキアが立っていた。彼は無表情で、フレデリックを見ていた。
フレデリックが唇をゆがめる。
「オスカーの仕業か。減俸で済めばいいな」
「少佐は関係ありません。自分が勝手にここに押し入りました」
「奥方を連れ戻しに来たのか、ファルシオン」
「いいえ?」
ルキアは顔をあげて、己を凝視している妻に近づき、微笑んだ。
「ここに居てください、トリシア」
「で、でもルキア様! わ、私、あなたの重荷にしか……」
「それがわかっていて、結婚してくれたのでしょう?」
「……はい」
俯いて頷くトリシアに、ルキアは力強く笑いかけた。亜子は呆然とする。
(気配が、ない)
彼に影が存在していないことに気づいて真っ青になった。震える手足に必死に命じて、動揺を悟られまいとするしかなかった。
(まさか、ルキアさん……死んで……?)
最悪の状況が浮かんでしまう。ルキアは亜子の視線に気づいたようで、視線を合わせると「しぃっ」と人差し指を唇の前にあげる。
彼はトリシアに近づきはしたものの、決して触れようとはしない。励ましているだけだ。
「トリシア、いいですか。絶対にフレデリック殿下かアガットから離れないように」
「はい、ルキア様」
「気を張っているのはよくありません。『眠りなさい』」
亜子は急に支える重みが変わって動転してしまう。腕の中のトリシアは眠っているだけのようだ。
ほっとしつつ、亜子はルキアを見た。彼は室内の明かりの届かない場所に立っていて、絶妙に隠している。亜子の瞳は夜行性だから気づいただけなのだ。
強烈な存在感があるルキアは、まるであたかも実体がそこにあるかのように振舞っていた。フレデリックもそれにだまされているようで、面白くなさそうに顔をしかめた。
「お優しいことだな。たかだか女一人のために」
「あなたを守るのは、トリシアがここに居るからだということを忘れないように、殿下」
笑顔で言うルキアに、フレデリックが嘆息する。
「……結婚してから、冗談が多くなったな」
「どうでしょう?」
可愛らしく小首を傾げてから、亜子に彼は視線を投げてくる。にっこりと微笑んでくる。
「大丈夫。シャルル殿下は無事ですよ」
室内の明かりが一瞬、フッと消えて暗闇に包まれる。「風よ」というルキアの呟きからも、彼の仕業だとわかったが……。
明かりが戻ったそこにルキアはいない。ドアの閉まる音も風の音にかき消されてわからないようになっていた。彼は巧妙だ。
無言で亜子はルキアが立っていた場所を凝視していた。
彼は、死んではいないかもしれない。けれど、危うい状態なのではないのか?
鼻につく匂いに亜子は顔をしかめた。遠方から風に乗って流れてきたその香りは……。
(火事?)
亜子はトリシアを床に横たえると、慌しくフレデリックを押しのけて窓の外を見た。暗闇にすっかり支配されたそこでは、遠方の森が真っ赤な光を発して燃えているのが見えた。
驚愕してフレデリックを振り返ると、彼は視線を逸らした。