馬車が停車する。亜子はどくんどくんと己の心臓が強く鳴っていることに気づいていた。
嫌な予感がしている。
ドアが開かれ、並走していた兵士の一人が言ってきた。
「どうぞ。到着しました」
「違うわ。ここはどこ? ファルシオン邸じゃない」
「あなたには皇帝から直接お呼びがかかっております」
「皇帝……!」
愕然としたように目を見開くトリシアは、まるで貧血でもおこしたかのように仰け反る。
亜子は兵士を睨んだ。
「奥様にはあたしが一緒についていく。邪魔をするなら、おまえたちでも容赦しない」
兵たちが鼻で笑うのがわかる。だが亜子にはそうやって虚勢を張ることしかできない。
これから何が起こるのか、何が待ち受けているのかわからない。
亜子は先に馬車から降りると、ルキアがよくやっているようにトリシアをエスコートして降ろした。
そこは狭い場所だった。だが、目の前には城壁が見えている。ここは裏手のようで、ひと気がない。辺りはすでに日が暮れかけていた。
ここがどこなのか、亜子は見当がついて顔が強張った。
(王宮……!)
シャルルの屋敷から見たあの巨大な宮殿だ。なぜこんなところに?
「申し訳ないが、裏口から入っていただく」
兵士が示したのは、料理人たちが材料を運び込むのに使う勝手口だった。こんなところから?
トリシアは不審そうにしていたが、皇帝の命令だと知って素直に従う気になったようだ。だが亜子は違う。
亜子はこの世界の人間ではない。皇帝がどれほど偉い存在だろうとも、その「価値」をほとんど理解していないのだから。
いつだって反逆できる立場にいる亜子は、トリシアをなんとしてでも守らねばならない。
(殿下……)
屋敷に残っているシャルルに伝言もできないなんて……。勝手に出てきてこんなことになろうとは……。
勝手口から中に入ると、雑多に置かれた料理道具や具材が見えた。あらゆる匂いが一気に押し寄せてきて、亜子は何度か咳とくしゃみを繰り返す。
まずい。この能力のスイッチを入れたままにするのは危険だ。
(で、でも、このままでいないと、トリシアさんを守れない)
兵士たちに促されるように歩くトリシアは、亜子の三歩前を歩いている。亜子は注意深く周囲を、そして兵士を見つめた。
階段をのぼり、上へ上へと向かう。
石造りの階段を上り続け、そして廊下を進む。方向感覚がおかしくなるような作りだったが、トリシアも亜子も足取りはしっかりしていた。
(っ!)
びっくりして思わず亜子は足を止めた。
「おい!」
叱咤する兵士の一人にハッとし、亜子は歩き出す。この先には部屋がある。そしてそこに誰が居るのかわかってしまった。
(やっぱり罠だったんだ)
逃げ出すべきだろうか? だがどうやって?
トリシアに直接の危害は加えられていない。それに自分はたった一人だ。大勢で囲まれてはトリシアを連れて逃げられない。
あちこちで足音がする。それは軍靴特有の音で、兵士たちが王宮内を歩いている証拠だった。何人かまではさすがにわからない。
音を遮断したい。匂いを遮断したい。衝動にかられるが、亜子はなんとか己を奮い立たせる。ルキアに任された意味を、知らなければならない。
細長い廊下を歩いていき、ふいに小さな扉の前で兵士が立ち止まった。
「入れ」
短く命令をされる。開かれた扉の先には、亜子が予想した人物が椅子に腰掛けて窓辺から外を眺めていた。室内を照らす明かりは壁際の台に置かれているランプだけだ。
「ふ、フレデリック殿下……」
驚愕したトリシアが、慌てて最上の礼をとろうとするが、彼はそれを制した。亜子ははなから彼に礼など取る気はない。この男はシャルルを嫌っている。
薄く笑うフレデリックには護衛がいないようだ。ドアが閉められ、室内は三人だけになる。
気配だけならば、ドアのすぐ外には兵士が四人はいる。
「どうして殿下がこちらに? 私に何か御用でしょうか?」
「私もそなたらも、人質だ」
「人質?」
「そう。夫人、あなたはルキアの人質なのだ」
「? 夫は私の命など微塵にも障害としません。任務を遂行します。無駄なことです」
「そうかな?」
フレデリックはさして興味がないように、ぼんやりと外ばかりを眺めている。
「アガット。おまえはシャルルの人質だ」
「あたしが!?」
そんな価値はないとばかりにフレデリックを睨むが、彼は半笑いを浮かべたまま続けた。
「シャルルはおまえに危害を加えられるなら、黙って従うだろう。そう、私が進言した」
「たかが……一、平民に、皇族が心を砕くとは思えません」
トリシアが援護するように言い放つ。亜子も頷いた。
「どうかな?」
フレデリックは軽く首をかしげた。長い髪がさらりと揺らぐ。
「アガットは縛り上げてこちらに送るつもりだったのだが、まさか夫人と一緒とはな。ルキアめ、知っていたか」
「夫が?」
「それとも途中で気づいたか……。あいつは勘もいいからな」
「…………」
思い当たる節でもあるのか、トリシアが押し黙る。そして彼女は神妙な顔で俯いた。
「この王宮が攻撃されるのですね?」
「えっ!?」
ぎょっとしたのは亜子だけだ。亜子はトリシアが毅然と顔をあげ、まっすぐにフレデリックを見つめるのを、横で見ているだけしかできなかった。
王宮が攻撃? 誰に?
フレデリックが視線だけをトリシアに向ける。だがすぐに興味を失ったように外に向けた。
「ど、どういうことですか、トリシアさん?」
慌てて尋ねる亜子に、トリシアは向き合う。
「この陸土すべてを帝国が支配しているわけではないのは知っている? 小国はまだ幾つか残っていて、抵抗しているの」
「抵抗って、でも戦力差が違いますよね? それに、その国はずいぶんと遠くに……」
ある、と言おうとして愕然とした。気づいてしまった。
内部に内通者が存在し、徒党を組んでこの王宮を攻撃してくるとしたら?
「フレデリック殿下も人質ということは、攻めてくる中心国は蓮国ですか」
れんこく?
戸惑う亜子に、トリシアは告げる。
「蓮国の第一王女が、フレデリック殿下の婚約者なの」
「そ、んな……」
「殿下との婚約を破談するために仕掛けてきているわけではないなら、目的は一つですね、殿下」
「ほぅ、ルキアから情報は聞いていないのに、たいした推理力だ」
感心したようにフレデリックが呟く。
(目的ってなに……?)
花嫁を取り返しに来るならわかる。けれども、フレデリックはまだ独身だったはずだ。だったらなぜ……。
困惑しつつも、亜子は唇を噛み締める。
よくはわからない。国の情勢など亜子にはわかるはずもなかった。だが、わかっていることは、ある。
シャルルやルキアが矢面に立たされようとしていることだ。
妻であるトリシアをここに連れて来ていることからも、ルキアにここを死守させるつもりなのはなんとなく予想ができる。そうでもしなければ、公衆の面前で殴った相手を守りはしないだろうと踏んだのだろうか?
ではシャルルは?
(殿下……!)
フレデリックは、亜子を人質にすると言っていた。人質の価値など、ない。けれども本当にそれほどの価値があるとすれば、シャルルに何かをさせる気なのだろう。
亜子の髪が瞬時に燃え上がるように真っ赤に染まる。ぎらつく金の瞳を隠しもせずに、一瞬でフレデリックの喉元にナイフの刃を突きつけていた。
「言え。殿下に何をさせる気だ!」
*
馬車を降ろされて、いつもはあるはずの絨毯もない道を歩くシャルルは、王宮の様子に怪訝そうにするしかない。
何かが起きているのはさすがにわかるが……これは一体なんだ?
シャルルは早々に兵士たちに案内され、オスカーたちと引き離される。別れ際にルキアに「お気をつけて」と小さく言われた。どういう意味かとうかがったが、ルキアは小さく微笑んだだけだった。
長い廊下を歩き、広間に辿り着く。ざわり、と悪寒が駆け抜けた。
足元を凝視しているシャルルは、ずるずるとその場に座り込んだ。
「な、にを……」
した?
彼を案内するように、護衛するようについていた兵士たちは一斉にそこから離れた。そして広間に別の人物が現れ、兵士たちは敬礼をする。
シャルルは立ちくらみでも起きているような脱力感に苛まれつつ、その人物を見た。皇帝の腹心でもある、『ヤト』のリーダー、ギュスターヴ=シャーウッドだ。特別部隊を率いる彼は執政には口を挟みはしないが、よき相談役として、友として皇帝に仕えている。
驚愕するシャルルはすぐさま意図を読み取り、小さく笑い声を洩らした。
「おまえがここに居るということは、ヤトは全員集合というわけか」
オスカーやルキアは召集されたのだ。そしてその任務内容にシャルルが関わっている。
「殿下」
ギュスターヴは静かに言う。
「殿下の大事なトリッパーは、北の塔におります」
「……は?」
唐突になんだ?
わけがわからないシャルルに、ギュスターヴは続けた。
「そこには兄君と、ファルシオン夫人も居ります」
「! 兄上が……」
なんだその組み合わせは。理解できないでいると、やがてシャルルは敷物の下に緊縛の魔法陣が描かれていることに気づいた。
(念の入ったことだ。消せないように敷物の下か)
ギュスターヴが近づいてこないことからも、一人分の陣なのだろう。だが、踏み込めば、シャルルの二の舞になるのだろう。
「不敬罪に処するぞ、シャーウッド」
短く言うと、彼は無表情で続けた。
「皇帝陛下の命令であります。抵抗されますと、トリッパーの娘と夫人は命がないものと思っていただきたい」
「そんなものに余が従うとでも?」
「温情を与えた特別な娘を、見捨てると?」
ぎくっとしてシャルルは硬直する。頬を叩いて、怒った亜子の姿が脳裏に過ぎった。
「それもよいでしょう。ですが、理解はできますな?」
それが何を引き起こすのか。
二重の人質として、シャルルはここに連れて来られたのだ。それはフレデリックのために犠牲になること、だろう。
シャルルが抵抗すれば、亜子とトリシアは殺されてしまう。そうなれば、ルキアがどう出るか予想できない。あの少年の手綱を握っておくために、トリシアと亜子をまずは塔に閉じ込め、シャルルを呼び寄せた。
「……アガットは、余の命など、欠片も惜しくはない。やめておけ」
忠告する。彼女は異世界の少女なのだ。自分のわがままに振り回されているだけなのだから、大人しく従うはずがない。
小さく抵抗するシャルルは惨めな気持ちでいっぱいだった。シャルルの命を惜しむ者など、この世には存在しない。自分を生んだ母親もそうだろう。
「それは殿下が決めることではありますまい」
「わかるのだ」
それよりも。
「ファルシオンの暴走を抑え込むためとはいえ、余の命も使うか。おまえは本当に冷酷だな、シャーウッド」
「国の為に、皇帝の為に我が命はあります」
「……よい。兄上を守れと申すのだな」
「お早いご理解で助かります」
戦え、と。
この男は言っている。兄の身代わりになってここで命を使えと言っているのだ。
「蓮国が徒党を組んで攻めてきたか。少数とはいえ、手だれなのだろう。おまえが『ヤト』全員を呼び寄せるということは」
「お早いご理解で」
「血の呪縛を解きにきたとしか思えないからな」
薄い笑みを口元に浮かべながら、シャルルは立ち上がろうとしたが、できなかった。情けない。
兵士の一人がギュスターヴの合図で巨大な盆を運んできた。中に満ちているのは異臭のする水だった。
亜子の目の前でこんな姿を晒さなくて良かったと思うしかない。大人しく瞼を閉じると、水が頭からかけられる。全身が筋肉痛を起こしたように痙攣を訴えた。
シャルルは歯を食いしばって耐え、それからギュスターヴを睨んだ。
「良い。兄上の身代わりとするがいい、シャーウッド。許す」
「それでこそ、殿下です」
どういう意味で言ったのかはわからない。シャルルは髪の色が変わり、雰囲気ががらりと変えられていた。兄の持つ気だるさと、髪の色へと。
傍目には、フレデリックとシャルルの気配が同一になり、見分けがつかなくなったと思い込むだろう。なぜならこれは。
(魔術)
魔法陣の効力をギュスターブに消されたのだろう。目の醒めるような思いと共に、シャルルは立ち上がった。
腰に佩いている細身の剣を抜き、その先端をギュスターヴの喉元に突きつけた。
「余の命、とくと使え。見事、蓮国の連中を打ち払ってみせよ、シャーウッド!」
「…………」
黙って敬礼をするギュスターヴから剣先をさげる。シャルルは自嘲気味に笑うしかない。
亜子どころかトリシアまで人質にされては、シャルルとしても動きようがない。シャルルは帝国の皇子だ。軍人同様、この国の為に存在している者なのだから。
濡れた髪を掻きあげ、シャルルは大声で周囲に言い放った。
「別ルートで到着する『シャルル』を盛大に迎えよ。『フレデリック』がここに居ると知らしめるのだ!」