Barkarole!U シャングリラ10

 亜子の報告は間違っていない。だが、実際は「違う」。
 遠距離からの聞き分けの訓練にトリシアは協力をしてくれているのだ。朝からなのだが、ちょうど今、ルキアに使者が来たことを彼女が玄関で話していたのが聞こえたから伝えた。
 シャルルは鋭い。『ヤト』が集められているのには理由がある。
 彼らは皇帝の直属の命令で動いている。内容は教えてもらえなかったが、ルキアはシャルルの命令と同時にこなしているらしく、器用この上ない。
(ん?)
 聞き覚えのある足音がする。亜子はどうするべきか悩む。
(この足音はフレデリック殿下のものだけど、どうしようかな……。もっと、集中!)
 耳を澄まし、音を聞き取るのだ。雑音が入ってくる。邪魔だ。もっと、もっと!
 まるで情景が見えるような錯覚に陥る。
 正面玄関ホールでは、フレデリックがルキアとトリシアと対峙していた。ルキアが鋭い表情で何か言っている。うまく聞き取れない。
 対峙しているフレデリックは大勢の護衛を連れているが、なにか言って……。
「……長く、ない……」
 聞き取れたのはこれが精一杯だ。
 荒い息を吐きたいところだが、そうもいかない。シャルルに訓練は秘密にしているからだ。
 亜子がファルシオン夫妻に申し出たのは、自分の能力をきちんと把握したい、ということだったのだから。
「良い判断ですね」
 ルキアは極上の笑顔を向けてくれたが、妻のトリシアは心配そうだった。
 玄関ホールまでの長距離の言葉を聞き取れたのは奇跡に近い。亜子はぐったりとしそうになるが、なんとか堪えて歩き続けた。

 廊下を護衛して食堂までついていく。これにもさすがに慣れると違ってくる。
 ルキアに注意されたことを亜子は忠実に守った。
 まずは常に集中し、シャルルを狙う者がいないか注視することだ。集中がどれくらい続くのか、亜子自身が知るいい特訓である。
 ファルシオン夫妻の滞在は今日で終わる。だからできるだけのことはしたかった。
 視覚、聴覚、嗅覚は異能としてもかなりのものだとルキアから言われているだけに、この能力を伸ばさない手はないだろう。
(殿下に心配させてばかりじゃいけないもんね)
 手を引いてもらってばかりではいけないのだ。
 朝食が運ばれていくのも目の前で凝視し、匂いを確かめる。通常と違っていたら必ず殿下に申告しなければならない。
(あれ?)
 周囲の視線が亜子に集まっている。思わず運ばれていく料理から目を離して顔をあげると、一斉に逸らされた。
「?」
 なんだろう……。
 嫌がらせ、だろうか。いい気分はしないが、コックを殺させてしまったのは亜子が軽率に言ってしまったせいでもある。今度は気をつけなければ。
(今度……)
 今度、などという概念を持ってはいけないとルキアに言われた。昨日の模擬戦闘の後でも、だ。
「殺さなくてはならない場面というのはありますから、躊躇ってはいけませんよ」
 忠告は重く、亜子には、自分ができるのか判断できなかった。
 料理に問題はないようだ。亜子は視線をあげて、今度は別のことに集中する。この雑多とした匂いの中での嗅覚の訓練だ。
 一つのものに集中するのではなく、あらゆるものに神経を尖らせる。
 メイド長レラはいつもの香水をつけているようだ。護衛兵の中には、少し汗をかいて緊張している者がいる。緊張?
 そっと視線を遣る。
(発汗しているのは緊張してたりするからだって、言われたけど)
 注視しろ、というのはこのことだろうか?
 亜子はその護衛兵をじっ、と見つめた。兵士は亜子の視線に気づいて視線を向けてくる。ぎくっとしたように身を強張らせる。
(?)
 慌てて視線を逸らされた。不審な動きをしないか見張っていなければ。
 こんな状態で朝食が終わり、今度は学問の時間になる。とはいえ、護衛である亜子にはすることがないので、ドアの前でひたすら待つことになるのだが……通常二人つく護衛と一緒にいても意味はない。
 シャルルが勉学に時間を費やしている間はファルシオン夫妻に会うことになっていた。
 足早に向かうと、彼らはまるで隠れるように巨大な庭園に設置されているベンチに座っていた。
 近づかなくても食事中だとわかる。
「早めの昼食ですか、ルキアさん、トリシアさん」
 トリシアの作ったサンドイッチをもぐもぐと食べていたルキアはこちらを振り向いてにこっと微笑んだ。トリシアも軽く頭をさげてくる。
 ルキアはここに滞在している間、トリシアの作ったものしか食べないことにしているらしい。あまりの徹底ぶりに驚いたが、彼にとっての味方はシャルルよりは多いが、決して「多数」ではないだろう。
 焼き立てらしいパンに具材が挟まれている、工夫のされたサンドイッチは亜子から見ても美味しそうだ。
「見つかっちゃいましたねえ」
 苦笑するルキアに、トリシアも笑う。わざとこんなところにいたのは、亜子に見つけさせるためからだろう。
(いいなあ。あたしも結婚したら、こういう夫婦になりたいなぁ)
 うらやましい。
 そう思って見つめていると、なにかが重なった。
 口うるさく罵る――と、拳を振り上げる――だ。
 一気に気分が悪くなって、亜子は片膝をつきかける。なんとか持ちこたえたが、トリシアが支えてベンチに座らせてくれた。
 いくら広く作ってあるとはいえ、三人で座ると少々狭く感じる。季節の花に囲まれたここは、まるで秘密基地のようだ。
「すみません、トリシアさん」
「べつにいいの。それより顔色が悪いけど、大丈夫?」
 気さくな彼女は元々が平民だけあって、亜子にも親身になってくれる。ありがたくて嬉しくなってしまう。
「大丈夫です。時々めまいが起きるだけなので」
「めまい?」
 トリシアが心配そうに覗き込んでくる。亜子は「大丈夫です」と繰り返した。
「大丈夫ではないでしょう」
 サンドイッチを食べ終えたルキアの言葉に、亜子はしょんぼりしてしまう。
「アガット、度々めまいで倒れていますね?」
「頻繁ではないです、けど」
「貧血気味なのかしら?」
 トリシアがルキアの顔色をうかがう。だがルキアは笑ってもいない。珍しい表情だ。
「いえ。推測するに、アガットの『持病』のようなものでしょう」
「持病?」
 そんなもの、あっただろうか?
 亜子はのど元をおさえて、恐ろしさにおののく。
「『音よ、途切れろ』」
 短い詠唱の直後、おかしな耳鳴りがした。思わず耳をおさえる亜子とは違い、トリシアは不思議そうだ。
「妻の周囲だけ音を遮断しました。あなたは本当に耳がいいようですね、アガット」
「ど、どう、し、て」
 甲高い音が延々と続く。苦痛だ、これは。
「聞かれてはならない話だからです。アガット、あなたには記憶障害がありますね?」
「! は、はい!」
「そのせいで、時々思い出したくないものが意識を邪魔するのでしょう」
「? でも、記憶は失くなったって聞きましたけど」
「失ったものと、思い出せないものとにわかれているのでしょうね」
 散れ、とルキアが短く言うと、元の状態に戻った。きょとんとしたトリシアが、すぐに事情を察したのか、ルキアをうかがう。
「言ってくれれば席を外しましたけど」
「離れるとあなたが危険です。ここに居なさい」
「もう。心配性ですね。誰がこんなところで私を狙ったりするんですか?」
「自分は、フレデリック殿下がしたことや、メーデン夫人がしたことを忘れたわけではありませんよ」
 凄みのある声で言われて、トリシアは硬直してしまう。そして身を縮めて「はい」と大人しくうなずいた。
 ぴくん、と亜子が反応する。すぐさまルキアに言う。
「ルキアさん、兵士が探しています」
「わかりました。アガット、妻を頼みます」
「…………」
 頼りにされている、とはっきりわかる言動に感激してしまう。何度も頷くと、彼は微笑んで席を立ち、颯爽と行ってしまった。
 残されたトリシアは「ふぅ」と息を吐き出す。
「お疲れですか、トリシアさん」
「ルキア様がかなりぴりぴりしているから、伝染したのかしら……」
「え? ぴりぴりですか?」
 どこが???
 怪訝そうにしていると、トリシアがくすくすと笑う。
「いいのよ、気にしないで」
「あ、はぁ……。あ、あの、さっきのはどういうことなんですか? 訊いても良ければ、ですけど」
「ああ、フレデリック殿下とメーデン夫人のこと?」
「はい」
 頷くと、トリシアはちょっと困ったような顔になる。けれど彼女は口を開いてくれた。
「私は平民の出身なの。いくらルキア様が下級の貴族とはいえ、貴族が平民を娶るなんて、常識じゃありえないでしょ?」
 まあ、そうだろう。亜子の世界の物語でもそこは大きな障害としてよく描かれていた気がする。
「ルキア様って、本当に女性に興味がないというか、他人にあんまり興味がない人なのよ。夜会とか晩餐会とか、舞踏会、ほとんど参加されていなかったしね」
「そ、それは、あの、すみません。あたしも教養がないほうなので、大事なことなのでしょうか?」
「貴族は貴族同士の繋がりを大事にするの。権力とか、まあ、色々あるから。でもルキア様も、そのご両親もそういうものに頓着しない方で、必要最低限にしか他者と接触されなかったのね」
「はぁ……」
「正直、かなり貴族の付き合いというのは疲れるわ。肩が凝るし、面倒だしね」
 肩をすくめてみせるトリシアは、空を見上げた。
「私が嫁いで、よく貴族のお茶会に招かれる機会が増えたの。ルキア様の名誉を損なうのも嫌だったから参加していたんだけど、嫌がらせをいっぱいされたわね」
「いじめ、ですか」
「そうね。でも私は平民で、あの人たちに文句を言えるような立場じゃないの。だから我慢するしかなかった」
 しみじみと言うトリシアは、そこでふっ、と笑う。
「でもね、ある日、遠征から帰ってきたルキア様が一緒に舞踏会に行ってくれるって言ってくれて! すごく嬉しかったの!」
 いつも一人で参加するだけだったトリシアからすれば、嬉しくてたまらなかっただろう。舞踏会だって、きっと壁の花になっていたに違いない。
「もう感激したったらなかったんだから! すっごくかっこよくて、でもね、舞踏会でも女性と男性は常に一緒に行動するわけじゃないから、どうしても私は一人になる時間があるのよ」
「そうなんですか」
「女性客たちに囲まれるともうだめね。そこをね、ルキア様が颯爽と割って入ってくれて」
「へえ!」
 乙女心がくすぐられるエピソードだ。思わず身を乗り出すと、トリシアが顔を真っ赤にしてしまう。
「いじめを中心的にしていたのは、メーデン夫人という方だったの。上級貴族よ。でもその方に向かって、ルキア様がまぁ、言い返してくれたの。びっくりしたわ。ルキア様があんまり口汚く相手を罵る場面って想像できなかったから」
 ――え?
 守ってくれたのはいいが、あのルキアが罵詈雑言を吐いたのだろうか? 信じられない。
「あとね、フレデリック殿下の時はもっとすごかったわね。殿下はルキア様が駆けつけるとは思ってなかったでしょうし、私も驚いたから……」
「な、なにしたんですか、ルキアさんは」
「殿下をね、殴っちゃったの。思いっきり。歯が折れたって聞いたけど」
 苦笑いというより、無理に笑みを浮かべて誤魔化そうとしているようだ。トリシアの心情を思うと、亜子でさえ血がざああ、と下がる気分に陥った。
 皇子を殴った……? 信じられない。
(ああ、そういえばフレデリック殿下の前で、ルキアさんてすごく攻撃的だったような……!)
 辻褄が合えば、なんてことはない。ルキアは妻を侮辱されたことをまだ恨んでいるのだ。
 思わず女性二人で唸ってしまう。いくらこちらの世界に詳しくない亜子でも、ルキアがまずいことをしたことくらいはわかる。
「アガットさんは、シャルル殿下の護衛なんでしょう? でも変わった制服だから、最初軍人さんだって気づかなかったわ」
 笑顔のトリシアに、亜子は申し訳なくなる。
「いえ、あたしはまだ正式には軍人ではないんです」
「……職業登録は? もしかして途中で辞めちゃったとか?」
 トリッパーであることは隠してあるし、言う必要もない。おそらくトリシアは勘付いているだろうが、知らないふりをしてくれているのだろう。優しい女性だ。
「どうしようかな、って悩んでます」
「そう……」
「トリシアさんは、13歳の時、何にしたんですか?」
 国民全員にこの制度が適用されているということは、目の前のトリシアも13歳を迎えたときに職業登録をしているはずだ。
 その感覚が亜子にはよくわからない。なぜなら、亜子の世界では、まだ義務教育の途中で、夢も未来も、何も見えない人がほとんどだからだ。
「私は弾丸ライナーの添乗員になったわ」
「え? だんがん、らいなー?」
「世界を走る、列車。その中でも一番速い列車ね。まさか配属先がそこになるとは思ってなかったし、運が良かったわ」
「……どうして、添乗員になろうとしたんですか?」
「たいした理由はないわね。旅がしてみたかったのと、帝都から離れたかったからかしら?」
「帝都から……」
 アタシだって、アソコからハナれたかッタ。
 頭痛が襲ってきて、亜子は右手で側頭部をおさえる。トリシアが「大丈夫!?」とうかがってくる。
 ルキアの推測は当たっている。おそらくは、この亜子を悩ませる目眩や頭痛は元の世界でのことが関連している。思い出したくなく、こと、か。
「アガットさん、やりたいことがあるならそれを優先するべきよ。職業は絶対ではない。途中で変えることも可能だし」
「? なにか、不安があるんですか?」
「軍人はあまり好きじゃないの」
 驚く亜子に、トリシアは苦笑してみせる。
「ルキア様がああだから余計にね。彼は死ぬのが怖くないから」
 そういえば、彼は恐ろしいことを訊かれていなかったか? 奥方と民を天秤にかけたらどうする? とか。
(この溺愛ぶりからして、想像できないけど)
 ルキアは残酷な男だ。そしてこの世界では命の価値は軽い。改めてそのことを考えて、亜子は渋い表情になった。

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