Barkarole!U シャングリラ9

 怒らせたとしょんぼりしていた亜子に、ルキアが声をかけてくる。
「あのー。暇ならちょっと付き合いませんか?」
「え?」
「どうせ夕食時まで護衛は外されたままでしょうから」
 ね? と微笑むルキアは颯爽と歩き出す。振り向きもしないルキアに、亜子はついていくしか選択肢がなかった。
 時刻はまだ夕暮れになっていない。じきにオレンジ色に空が染まっていくだろう。
 亜子は空を見上げながら、元の世界のことを想う。ここにも太陽があって、月がある。大地もあり、海もあるというのに……なんて違うんだろう。
 正面玄関まで来ると、ホールを横切ってルキアは護衛兵がいるのに無言でドアを開け放った。兵士たちのうんざりとした表情をしたのが見えたが、いつものことなのだろう。
「ルキアさん、何かあるんですか?」
 外に出たルキアは、そこで佇んでいる。何かを待っている?
「お弁当を待っています」
「お弁当?」
 奇妙な単語が出たので亜子は不可思議そうに眉をひそめた。ちょうど馬車が一台、庭園に入ってきた。
 ルキアは飛び上がらんばかりに大きく右手を振った。
「ここです〜!」
 ええっ!?
 仰天する亜子の横でぴょんぴょんと幼子のように飛び跳ねるルキアは、馬車の到着を待ってうきうきと体を揺らしていた。
 目の前で停車した馬車のドアが開き、淡いグリーンのドレスを着た娘が降りてきた。ルキアがさっと手を差し伸べて、降りるのを手助けする。
 彼女は年齢が亜子とそう変わらないようだった。くせのあるくすんだ金髪を後頭部で結い上げてお団子にしている。控えめな真珠を垂らしたような髪飾りをさしているだけだ。
(メイドさん? にしては、格好が立派というか)
「トリシア!」
 ルキアがいきなり彼女に抱きついたものだから、横にいた亜子がぎょぎょっと目を剥いた。
「きゃあ! いきなりはやめてって言っているじゃないですかっ!」
 バスケットを振り回すまいと我慢する彼女は、必死にルキアを引き剥がしにかかっている。
 しかしルキアの握力は相当なものらしく、激しく抵抗するものの……まったく状況が変わっていない。見かねて亜子がルキアの肩に手を置く。
「ルキアさん、あの、その人嫌がってますから」
「嫌がって!?」
 びっくりして動きを止めたルキアが、恐る恐る女性を見上げる。娘は彼を見下ろした。瞳がかち合う。
「あ、あの、あ、嫌いになりました?」
 少し潤んだ瞳で問いかけられ、少女は真っ赤になって仰け反る。その気持ちは亜子も痛いほどにわかった。
「なるわけないでしょう! ほらこれ、お弁当ですッ!」
 半ば怒るように押し付けたバスケット。受け取ったルキアは彼女から離れて照れ臭そうに微笑んだ。それは少年の顔だった。
「ありがとう。嬉しいですよ、トリシア」
「ど、どういたしまして」
 ぷいっと顔をそむけるトリシアは、亜子に気づいて怪訝そうにした。
「あの、そちらは?」
「アガット=コナー。シャルル殿下の護衛兵です」
「っ!」
 目を見開くトリシアはルキアと亜子を見比べ、どうすべきか困惑したようだ。ルキアが小さく笑う。
「あんまり可愛いとキスしたくなるので、そういう顔は人前でやめるように。いいんですよ、トリシア。アガットは平民です」
「…………」
 前半の部分で彼女はなんだか複雑な表情をしたが、すぐに姿勢を正して軽くお辞儀をした。
「トリシア=ファルシオン。ルキア=ファルシオンの妻です」
「つっ!?」
 亜子が思わず大声を出しそうになり、慌てて口を両手で覆った。
(う、嘘! じゃあこの人がルキアさんの奥さんってこと!?)
 ちょっぴり可愛いだけで、本当に特徴らしきものがない。ルキアが横に並ぶと壮絶にその差がわかってしまう。
 同じ女の子として、彼と結婚した勇気を褒めたくなってきた。同時に、同情もしてしまう。
 事情を聞けば、トリシアは家を出る時に、昼食前と、夕食前にはお弁当を届けてくれと言っていたのだという。どういうつもりだろうかと亜子が首を捻っていると、ルキアが笑った。
「愛する妻の作ったものを食べたいというのが本音なんですが……殿下の屋敷の食事は口にしたくないのですよ」
「ルキア様!」
 叱責するトリシアに、ルキアは構わずに続ける。ここには御者を含めて4人しかいないからだろう。がらんとしていて、まるで他に人間がいないようにすら感じてしまうほど……広い。
「……毒、ですか」
「簡単に言えばそうです」
「毒見係は……」
「いても、今朝の事件は防げなかった。違いますか?」
「っ」
 亜子は唇を噛み締めた。そうだ。毒見係は罰せられはしなかったのだろうか? そういえば、そういった話はきかない。
 亜子はしょせん、ここに一時的に身を置いている客人なのだ。侍従たちも必要外に会話をしてくれない。そのことに気づかねばならなかったのだ。
 ルキアの言葉は正しい。ここにはシャルルの味方がいないのだ。いや、きっと……どこにも。
「ご、ごめんなさい。ルキア様、どうにもはっきりと言ってしまうところがあって。不快に思っても許してね?」
 トリシアが必死に言うが、亜子の表情は晴れない。
 亜子は拳を握り締めた。そして顔をあげる。
「お二人にお願いがあります!」



 シャルルは耳を疑った。ルキアからの提案は、毎朝行うイデムの礼拝の後にされたことだったからだ。
「奥方を滞在させろ!? というか、させているだと?」
 なぜ事前ではなく、事後なのだ?
 半眼になるシャルルに、ルキアは平然とした顔でついて来る。その数歩あとを亜子がついて歩いていた。なんだろう。様子が変だ。
「あ、大丈夫です。営みはしておりません」
「ぶっ!」
 思わず吹き出すシャルルだったが、そうなりそうになったのは何も彼だけではない。周囲についていた男性陣全員が同じ反応をしたのだ。
「迫ったら『嫌いになる』と脅されましたので……。本当に辛いですよ」
 どこが?
 誰もがつっこみそうな顔をしていたが、何も言わない。
「神聖な礼拝のあとでおまえという男は……」
「昨日よりは元気になりましたね、殿下」
 その言葉にシャルルは愕然とした。軽くルキアを睨むが、彼は微笑み返すだけだ。
 こういうことを、考えてやっているとは思えない。ルキアはそういう男ではないからだ。
(だから、怖いし、味方にしたいし、敵には絶対に回したくない)
 けれども手に余る。今の自分には。
 味方になってくれと言ったところでルキアは絶対に聞き入れないだろう。『ルキア=ファルシオン』は民のものであり、皇帝のものだからだ。
「しかし珍しいな。おまえたち『ヤト』が帝都にほぼ集まっているなど」
 昨日のヒューボルトといい、話に出てきたロイといい、『ヤト』の面々は軍の本部である中央部にいないことのほうが多いのだ。いつも何か命令がくだっていて、任務に赴いているせいもある。
 ルキアはちょっと真面目な顔になり、小さく笑った。
「殿下はお気になさらなくともよいことです」
「…………」
 つまりは、秘密裏で彼らは動いているということなのだろう。皇帝の命令で。
 ルキアだけは許可が下りているからここに居てくれているだけだろう。2日という期限もついている。
 ずらずらと付き添いの者たちを連れて歩くシャルルは、黙ったままの亜子を見て不審そうにした。
(昨日と様子がまた違う……)
 何があった?
 尋ねたいが、気まずかった。
 ルキアが提案したことは、亜子にとっては一番魅力的にみえた道だろうからだ。彼女の身体能力の高さはセイオンの戦士に匹敵するものになる。
 だが、安直に軍属になどになれば、平民としての地位もあり、彼女は奇異の目で見続けられるだろう。
 トリッパーが地学者となってあちこちに移動するのは、顔を覚えられないためと、身軽に逃げ出すことができるからだ。
 彼らは常に命を狙われている。そう、自分のように。
 この世界に来たばかりの亜子は、泣いた。目の前で。
 彼女は迷子になったのだ。だから、その迷子に道を示してやろうとした。それだけ、だ。
 立って歩けないなら手をしばらく引いてやろう。立ち上がれないなら手を貸して立たせてやろう。
 だがそれは一時的なものだ。どうせ彼女もいなくなる。
 この手には何も残らない。
 だからどれだけ嫌われてもシャルルは構わなかったのだ。シャルルにはそもそも、王になるつもりがないのだ。
 第二皇子だからと、帝王学を学ばずに遊んでいるわけではない。ありったけの知識や剣術や体術も毎日毎日やらされている。
 けれども王位継承権は第二位なのだ。兄が死なない限り、きっと覆らないことだろう。だがここで悲嘆に暮れるほどシャルルは馬鹿ではない。
 帝位につけないなら、その補佐につけばいい。より良い執政をおこなうことが民のためになる。
 だがそうは思っていても、重い。貴族たちの思惑。元老院に居る者たちの発言権。特権階級意識の塊ども。それらが否応なくのしかかってくるのだ。
 兄もそうなのだろうか? 尋ねてみたいが、兄は自分を嫌っている。……嫌われる理由も充分理解していた。
 ぴた、と亜子が動きを止めた。そして足早にルキアに近づいて耳打ちする。ルキアは眉をひそめたが、すぐに頷いた。怪訝になってシャルルは問う。
「? なんだ?」
「席を外します。アガット、後は任せます」
「畏まりました」
 頷く亜子に、シャルルは驚愕の目を向ける。本当に軍属に下る気か?
 ルキアがきびすを返してすたすたと立ち去る姿を見送り、シャルルは歩き出す。これから食堂に移動して、朝食だ。
「アガット」
「はい」
 彼女は声をかけられたことに多少驚いたようだが、平時のようにすぐさま返事をする。
「ファルシオンに何を?」
「……奥様が呼んでおられたのでお伝えしたまでですが」
「…………」
 沈黙が重くなる。
 シャルルは溜息をつきたくなった。
 恋は人を変えるとは、よく言った。

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