兄が来たことにシャルルは何も感じてはいなかった。
亜子が現れたことは、良くも悪くも王宮を動かしている。彼女がここに留まらなければ動きはしなかっただろう。
彼女の言ったことは正しい。だが、この世界では命の重さはとてもとても軽い。
そして……貧富の激しいこの階級社会でトップに君臨しているのが皇族なのだ。
「これはこれは兄上。物々しいですね、相変わらず」
素っ気無く言ってやると、室内に足を踏み入れた兄は冷たく目を細めた。第一妃から生まれた長男・フレデリックだ。
「おまえは相変わらず、だな」
掠れた声で言うフレデリックは視線を動かす。
「……おまえの部屋に現れたトリッパーはどこだ?」
「さて? なんのことでしょう?」
「意味の無いことをするとは、随分と酔狂になった」
淡々と言う兄の目は軽蔑で染まっている。その横を、何かが軽々と通り抜けた。驚くフレデリックの前を、たん、たん、と軽やかにジャンプして、シャルルの真横に、彼の座る椅子の横に直立したのは赤茶の髪の少女だった。
茶色の瞳に、黄色の肌。黒と赤を基調とした軍服に似た衣服は、短い髪の毛の彼女によく似合っていた。
彼女はシャルルに目を伏せて言う。
「すみません。お傍を離れてしまいました」
「…………」
シャルルの瞳が大きく見開かれていた。驚きに、だ。
(なぜここに来た……?)
軽蔑したのではなかったのか?
不思議になっているシャルルの前で、彼女は両腕を背後に遣り、毅然と兄に視線を向けた。
フレデリックは現れた少女に呆然としていたが、外見特徴ですぐにトリッパーだと気づいたようだ。
「娘……おまえはトリッパーだな」
「いいえ。あたしはトリッパーではありません」
シャルルが教え込んだ言葉をはっきりと言い放つ。その度胸にシャルルはヒヤリとした。
(阿呆め。おまえの目の前の男が何者か知らないのか?)
知るはずがないのだ。彼女はこの世界に来て、それほど経っていない。皇帝の顔すら知らないだろう。
フレデリックは小さく笑い、傍の兵士に何か囁く。兵士は前に出てきた。刹那。
亜子のほうが早く動いていた。シャルルの手を引っ張って立たせ、ぐいっと彼女のほうに引っ張ったのだ。
兵士の剣先が、シャルルの座っていた椅子に向いていた。無礼者め、と内心舌打ちをした。
兄の余興に付き合う義理はない。シャルルは亜子に囁く。
「余を庇わずともよい。あれは余の兄だ」
「知ってます」
はっきりと言われてシャルルは目を丸くした。彼女はこちらを見上げてくる。
「でも、冗談でも剣を向けるのはいけないことだと思います」
「……おまえは阿呆だな」
心底馬鹿にしたように呟くと、彼女はムッと顔をしかめる。眉を吊り上げるが何も言い返してこない。
シャルルを背後に庇うように前に出た亜子は、フレデリックを真っ直ぐに見つめる。
「殿下に剣を向けるのはおやめください。あたしが相手になります」
! 口が過ぎる!
シャルルが亜子の肩に手をかけるが、彼女はそれを振り払った。
フレデリックは低く、そして愉快そうに笑う。
「なるほど。よほど忠義心が厚いのだな。面白いものを拾ったな、弟君?」
無言で受けるシャルルを見つめ、フレデリックは周囲の護衛兵たちに剣をおろさせる。
一見、戦闘する気をなくしたように見えるが亜子には伝わってくる。戦士でもない自分にでもわかる。
異常なこの、状態を。
フレデリックはまるで冷気を放っているようだ。目がまったく笑っていない。
隙あらば気に入らないやつは簡単に殺せる……そんな印象を受けた。
弟と違って華やかさのないフレデリックは目を細めた。刹那、声が聞こえた。
「通れないので、通していただきたいのですが」
あ、と亜子が目を瞠る。
ざわり、とフレデリックの護衛兵たちが騒ぎ、あっという間に道ができる。ドアのところからちょうど一人分通れる道が。
「どうも」
ふんわりと笑みを浮かべる少年はつかつかと歩き、フレデリックのところで止まり、彼を見上げる。
「久しぶりだな、ルキア」
「お久しぶりです。フレデリック殿下」
「奥方は元気かな?」
「妻は元気ですよ」
薄く微笑むルキアの目は笑っていない。彼が自分の妻にチョッカイをかけられることを非常に不愉快に思うことを、王宮内の人間はみな知っているからだ。
「勝手に呼び出しなどをしたら、次はありません」
警告だった。
シャルルは笑顔のルキアがこちらを見て、にっこりと微笑むのに冷汗を流す。
フレデリックは以前、王宮内で開かれた小さな宴にルキアの妻を招待したことがある。ルキアの家は下級貴族だ。断れる立場ではない。
ちょうど遠征に出ていたルキアは出席できなかったが、彼の妻は単独で参加することを余儀なくされた。着飾っても元が下町出身の平民の娘だ。華美なものなど一切ない、まして教養もない彼女はルキアの妻であることにだけ誇りを持って、やって来た。
彼女は宴に参加した者たちの格好の晒し者となった。毅然と顔を上げていた彼女は一人で過ごすことになっていたが、フレデリックが声をかけたのだ。
下町の娘にしてみれば、雲上の者の言葉に等しい。彼女は頭をあげることもできずに、フレデリックの前でずっとひざを折っていた。そこにルキアが現れたのだ。
家人から知らされたらしいルキアはあっという間に帝都に戻ってきて、そのまま王宮に乗り込んできたのだ。
膝を折ったままだった彼女を見て彼は静かに激怒し、フレデリックに魔術こそ使わなかったが思い切り殴ってから、倒れそうだった彼女の手をとって颯爽と王宮をあとにした。
無論、ルキアは処断……されるはずだったが、それをさせなかったのはルキアに反逆されると困る帝国側の都合だった。
ルキアはたった一人でも大勢の人々を殺すことができる魔術の天才児だ。その彼を敵に回すよりは、味方でいられるほうが好都合だったのだ。
「つくづく、変わり者が多い『ヤト』だ」
侮蔑を含んで笑みながら言う兄の言葉にシャルルは吐き気すら覚えた。
ルキアがどういう行動に出るかを見たくて、彼の妻を呼び寄せたことは予測できた。結果、ルキアは予想以上の反応をしたわけだが。
罰しないと格好がつかなかった手前、ルキアは謹慎処分で済んだが……本来は処刑されていてもおかしくはない。
ルキアはシャルルの傍まで来ると、くるりと身体を反転させてフレデリックを見た。
「また殴りましょうか? 歯が折れる程度で済めばいいですけどね」
さらりと笑顔で言うルキアの言葉には嘘はない。処断されないとわかっているからではない。罰がくだろうとも、彼は一向に構わない性格をしているからだ。
「おまえでも冗談を言うことがあるのだな」
飄々としているフレデリックにルキアは不思議そうに首をかしげた。
「冗談? そのような発言を自分はしていませんが」
大真面目な顔で言うので、ルキアの言っていることは真実なのだろう。
彼の足元に魔法陣が美しい模様を伴って光り輝きながら現出する。詠唱もせずに出現したのは、彼の感情が大きく揺らいでいるからだろう。
見た目は冷静沈着そうに見えていても、ルキアはここ数ヶ月の間に大きく変化している。結婚をしたのも、その一つだ。
風が魔法陣に吸い寄せられるように動く。人々の衣服が室内の空気に応じて大きくはためいた。
「ファルシオン!」
一喝するが、シャルルのほうをルキアはちらりと見ただけだ。そもそもルキアは皇帝の直属部隊にいるだけで、その子供たちの命令をきくような融通がきく男ではない。
「殿下……」
不安そうにこちらをうかがう亜子の気配は感じるが、シャルルは厳しい表情をしただけだった。
一触即発の状態に近い。ルキアを呼んだが、まさかこういう展開になるとは予想していなかった。そもそもルキアの到着が思ったよりも早かったためにある。
風が、ぴたりと止まった。
ルキアが魔法陣を消したのだ。
「びっくりです。もう少し自分を抑え込まねばなりませんね。精進が足りません」
右目につけている片眼鏡を軽く押し上げて呟くルキアは、シャルルのほうに向き直って頭をさげた。
「呼び出しに応じて馳せ参じました、シャルル殿下」
「…………」
つくづく、この男が自分の配下でなくて良かったと思わざるをえない。
人の手には余る、そう思えて気分が悪くなる。
ルキア=ファルシオン。「紫電のルキア」という名で呼ばれることも多い魔術の天才児。現在14歳。14歳のわりには背も低く、外見だけで判別するなら美少女に見えてしまう。
「私の目の前で、いい度胸だなファルシオン」
フレデリックの言葉にルキアは彼のほうを見遣る。
「あなたには呼ばれていないので。なにかご不満ですか?」
「相変わらず、無礼な男だ」
「無礼?」
ルキアは心底驚いているようで、首を傾げてみせる。
「どこか礼を欠いていたでしょうか? うーん……」
「兄上、ファルシオンで遊ぶのはやめていただきたい」
口を挟むと、フレデリックがシャルルを軽く見つめてきた。その瞳に光はない。兄なのに、血が半分は繋がっているというのに……なぜこれほどに「違う」のだろう?
違う人間なのだから当たり前だというけれど……。
シャルルはふいに視線を亜子に向けた。
亜子はフレデリックを凝視している。彼女の瞳は恐ろしいほどまっすぐで、シャルルは苦いものを感じてしまう。
(アガットは、何か勘付いているのやもしれぬな)
フレデリックは興ざめしたように目を細める。
「珍しいトリッパーのことも確かめたし、ここで帰ってやる。シャルル」
「はい、兄上」
「なにを企てているのか知らないが、くだらない謀など叶わぬと思え」
「肝に銘じておきます」
ぞろぞろと護衛を連れて部屋を出て行くフレデリックを見送り、シャルルは嘆息したい気持ちを抑え込んだ。
ああして兄が簡単に引き下がったのは、ここにルキアがいるからだろう。ルキアの存在は、フレデリックにとって鬼門に近い。
(それもそうか。みなの前で、兄上は醜態を晒したのだからな)
あの場にシャルルはいなかったが、話は聞いている。ルキアは兄に敬意を払いもしないし、恐れもしていない。
家族を人質にとったところでルキアが敵にまわって面倒なことになるだけで、兄には利などない。フレデリックはルキアを試すつもりだったのだろうが、それが仇になったわけだ。
(確かに……)
ちらりと視線をルキアに遣る。彼はドアのほうをいつものように笑顔で眺めていた。機嫌がいいのか悪いのか、判断しにくい。
(ファルシオンが血族にも、他人にも非情なのは有名だからな)
それゆえ、彼が結婚したと聞いた時は耳を疑ったものだ。なにか考えがあって、下町の平民の娘を娶ったのだと思ったのだが……この男が誰かに執着するとは思えなかった。兄も、そう考えたのだろう。
シャルルは一度だけルキアの妻に会ったことがある。滅多に晩餐会に出てこないルキアと共に参加していた、特徴のない娘だったが……じろじろと眺めているとルキアが不愉快そうな顔をしたのがかなり印象に強く残っている。
「奥方は元気か?」
そう声をかけると、ルキアが美貌をこちらに向けてきた。はっ、とするような美しさだが、そこには以前にはなかった男らしさが見え隠れするようになった。
「ええ、息災です。殿下によろしくという伝言をあずかっています」
「そうか」
「べつに自分は、殿下によろしくしなくても良いと言ったのですがね」
「…………」
思わず、頬にかけて汗が流れる。この男は、自分がどれだけ無礼なことをしているかわかっていないのだろう。
亜子が青ざめていることに気づいて、シャルルは苦笑した。
「相変わらずだな、ファルシオン」
「妻との逢瀬を惜しんで参上したのです、用件は早々に済ませたいのですが」
「……はっきり言い過ぎだ。首を刎ねられても文句は言えないぞ」
呆れたように忠告してやるが、ルキアはどうでもいいとばかりの表情になった。いつも笑顔の少尉がこんな表情をするようになったのは、結婚してからが多くなった。
彼は少しだけ不愉快そうな顔つきになったが、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「そういえば妻に注意されていたのを思い出しました」
「……おまえは奥方の言うことならなんでもきくのか」
「いいえ? 妻が嫌がることもしますけど」
平然と言うのでシャルルは頭が痛くなってきた。マーテットといい、本当に『ヤト』には変わり者が多い。
(奥方に同情してしまいそうになる……)
シャルルは初めてルキアに会った時のことを思い出してうんざりする。これほど皇族に無礼な者を見たことがない。
よぎった過去の出来事を手で追い払い、シャルルは気を取り直す。
「おまえを呼んだのは、ここにいるアガットに関してだ」
「でしょうね」
亜子がぎくりとしたように身を強張らせる。彼女はこちらをちらちらとうかがってくる。
ルキアは視線を亜子に移動させ、じっと定めた。
彼はふいに雰囲気を柔らかくした。微笑む少年の美貌に亜子が圧倒されるのがわかる。
「フレデリック殿下に立ち向かうとは、なかなか豪気のある方ですね」
「無謀なだけだ」
シャルルがハァ、と溜息をついた。心から賞賛しているであろうルキアは、フレデリックのことをあまり良く思っていない。もちろん、妻の一件からそれが顕著になっている。
「しかしな、ルキア。おまえは皇帝直属部隊なのだぞ? 兄上が皇帝になったらどうするのだ? 簡単に殺されるぞ?」
「利用価値がないならば、それも仕方ないでしょう」
さらりと言うルキアに、亜子は唖然として青くなっている。信じられないからだろう。……誰だってこの言動を信じたくはない。
(まあ余が皇帝になったとしても、ルキアは手放さぬな……)
これほど圧倒的な攻撃力を持つ魔術師をシャルルは知らない。そして利用価値の高さも。
戦争で初めて価値の出る男――。
確かに帝国では現在、大規模な戦は起こっていない。しかし、起こっていないように見せかけているだけにすぎない。
この小さな大陸を帝国はすべて掌握していないのがその証拠だ。小さな国は連合という形をとって、時々こちらに仕掛けてくる。
戦力差は歴然。だからこそ、彼らは策略を練ってくる。ありとあらゆる、だ。
ルキアは魔法院と呼ばれる学校を最年少で卒業し、その足で軍属となった。それは決定事項だったからだ。
そして最前線部隊へと配属され、敵国からの攻撃をほぼ一人で掃討してみせた。『紫電のルキア』という名はそこでついたものだ。
「あの、殿下」
どうすればいいのかと戸惑っていたらしい亜子に、シャルルはルキアに視線を遣る。
「皇帝直属の特殊部隊『ヤト』に所属している魔術師、ルキア=ファルシオンだ。マーテットと同じ部隊だな」
「あ、はい」
「なんだ? 驚かぬのだな」
「ご本人から聞いたので」
「なにっ!?」
さすがに驚愕するシャルルに、ルキアはにこっと微笑む。
相変わらず、小憎らしい子供だ!