Barkarole!U シャングリラ3

 一夜明けて、亜子はうっすらと瞼を開ける。びくっとして硬直すると、覗き込んでいたシャルルが小さく笑った。
「面白い反応だ」
「で、ででで殿下」
「うん?」
 顔を押し退けるわけにもいかないので、亜子は自らの身体を下へと移動させてから起き上がった。
「ど、どうして勝手に入ってくるんですか!」
「ここは余の屋敷だ。勝手に入って問題あるか」
「…………」
 問題は大有りだが、それを口に出すことはできない。
 無言でむすっとする亜子はベッドから降りた。
「……おまえは、屋根の上で寝ているのかと思った」
「そんなわけありません」
 夜着用にと与えられた衣服のまま相手を睨む。いつでも動けるようにと、普通の寝巻きとは違うので恥ずかしくない。
 シャルルは小さく笑い、「まあそうだな」と呟いた。
「おまえは余の護衛だ。今から礼拝に行く。来い」
「礼拝?」
「……そうか。おまえは聖女イデムを知らないのだな」
「いでむ?」
「イデム教の祖となった娘だ。行くぞ」
 きびすを返すシャルルはさっさと部屋を出て行ってしまう。待たせるわけにもいかないので、亜子は慌てて着替える。
(顔も洗ってない!)
 残念な気持ちでドアを開けると、そこには少人数ではあったがシャルルを囲んで待機している人々が居た。
 いきなり視線を一斉に向けられ、肩身の狭い思いをする亜子など気にせず、シャルルが歩き出す。
 そっと亜子に近づいてきたレラが小声で囁いてきた。
「次からは気をつけなさい」
「……はい」
 前もって言って欲しかった。いや、でもどんなことでも対処できるようにしておかなければ護衛など失格だろう。
 亜子は辛い気持ちになりながら、シャルルのものものしい行列に加わる。20人くらいの中に割り込んだ形になった亜子は、萎縮しながらイデム教とやらのことが気になる。あとで調べておこう。
 皇子が礼拝に行くということは、この国では主宗教なのだろう。宗教なんてものがあるというのも、亜子としては驚きだった。
(屋敷内に礼拝堂でもあったのかな)
 そういえば屋敷の中の配置もきちんと把握していないことをまた自覚してしまう。
 一人で勝手に落胆していると、到着したようで列が止まった。べつになんということもないような気がする。ただそこが、屋敷の最奥だというだけだ。
 両開きの扉がゆっくりと護衛の手で左右に開かれて、亜子はぽかんとしてしまった。そこだけ異様に広い。
(え? ええ?)
 教会のようなものを想像していただけに、あまりにも殺風景な部屋で亜子はびっくりしてしまう。そこには一番奥に台座がある以外、なにもなかった。
 列が前進を開始したので戸惑いながら従う。護衛たちは部屋の壁際に一気に広がったので、亜子も慌てて空いている場所に立った。
 中央をシャルルが進み、台座へと近づいた。そしてゆっくりと彼はひざまずく。その姿はまるで、忠誠を誓う騎士の姿だった。
 あれ? なんだろう?
 不審に顔をしかめてから、亜子は「ああ」と納得した。
(そうか……頭を下げてる様子が、黙祷に近いのか……)
 数十分のこのわけのわからない行為に付き合い、亜子の1日は慌しく始まった。
 憶えることは山ほどあり、この日の亜子はレラを終始いらつかせ、亜子は目眩をそのたびに起こして倒れていた。
 あまり頻繁に目眩を起こすものだから、さすがにシャルルが心配そうに見てきた。時刻は昼を回ってから、お茶の時間になっていた。
「貧血なのか?」
「いえ、そういうわけでは」
 シャルルに失望されるのが怖くて、亜子は曖昧な笑みで誤魔化す。貧血とは思えないが、それでもあまりにも目眩が起き過ぎだ。
 ちょうどレラはお茶の準備をするためにここには居ない。肩を落としている亜子を眺めて、シャルルは手招きする。
 素直に従って近づくと、彼はふんぞり返って座ったまま、にやりと笑う。
「?」
 怪訝そうに首を傾げた亜子に「口を開け」と命じてくると、ふところから紙包みを取り出してきた。まさか、お菓子?
「早くしないとレラが戻ってくる」
「ええっ! あ、は、はい」
 口を開くと、そこに何かをひょいと入れられた。口内に甘味が広がり、亜子は口をもぐもぐさせながらすぐさま壁際まで後退する。
(なんだろ。前にくれたのとは違うなぁ)
 これも美味しい。
 表情を緩めてしまい、ハッとする。シャルルがこちらを観察していたのだ。彼は楽しそうに微笑む。
「少しは元気が出たか?」
「あ、は、はい!」
 何度も頷いている亜子は、また黙って、もらったお菓子を咀嚼する。なんだろう。生地がもちもちしている。
 ごくんと飲み干した矢先、ドアが開いてレラと2人のメイドがワゴンを押して入ってきた。どきっとして視線をはずして、そ知らぬ顔をする亜子を、レラは怪訝そうにみてきた。
 目の前でシャルルのために用意されていく焼きたての菓子やお茶に亜子はなるべく視線を向けないようにする。
「殿下、お待たせいたしました」
 頭をさげるレラの言葉にシャルルはなんの返事もせずに、お茶の時間を開始した。
 亜子に対する態度と差があるのはなんとなくわかる。
 いや、実際はこれが通常の態度なのだ。亜子に対してシャルルは必要以上に干渉しているのだろう。
 茶器や食器がさげられた間隙に、シャルルは亜子を再び手招きした。
(あたしが敵だったらどうするんだろ)
 やたらと無防備に感じるのは気のせいか? もっと警戒心を持ったほうがいい。
「これをやる」
 先ほどの包みを差し出してくるシャルルを、亜子は凝視してしまう。
「どうした?」
「いえ、殿下はいつもお菓子を持ち歩いているのかなと……ちょっと思いまして」
「持ち歩いているわけがないだろう」
「で、ですよね」
 引き下がる亜子は、いつの間にか菓子を握らされていた。しまったという顔で慌ててふところに隠して、壁に後退する。
 レラが戻ってきて、じろりと亜子を睨んでくる。な、なんだ? バレた?
「先ほどとは立っていた位置が違うようにみられますが、あなたはじっとしていることもできないのですか」
 硬質な声の叱りつけに、亜子はしょんぼりしてしまう。お菓子のことはバレてはいないようだが、やはりあれこれ動くのは護衛としてはだめらしい。
(しかしよく見てるなぁ。立ってた位置なんて、注意して見てないよ普通)
 いやいや。そんな考えではダメだ。
 亜子は考えを改めつつ、表情を引き締めた。



 亜子がこの世界にきてから色々と気づいたことがある。まず肉体の変化だ。かなり身体が軽い。
 動体視力がよくなった。それに思い描いたように身体が動く。ただ、体重を乗せなければ亜子の攻撃はかなり軽い。
 視力も、聴力も嗅覚も随分と良くなった。
 だからだろう。
 シャルルが食事のためにテーブルについた刹那、亜子はすぐに気づいてしまった。亜子は壁際に立ち、護衛らしくただ黙ってシャルルの食事の様子を眺めることになっている。
(ん?)
 かぐわしい匂いだ。美味しそうだ。確かにそうだ。だが。
(……スパイスっていうか、香辛料? ききすぎじゃないかな?)
 今日の朝食はなんだろうと怪訝そうに眉をひそめていると、シャルルが視線を伏せている亜子に気づいた。
「どうしたアガット」
「え?」
 声をかけてくるなど、異常もいいところだ。非難の視線は亜子に一手に集まる。亜子の態度に慣れたらしいメイドのレラでさえ顔をしかめている。
(うぅ)
 身を竦めていると、シャルルが再度声をかけてきた。
「何か気になるか?」
「…………あ、いえ」
「はっきりしないな」
 頬杖をつく皇子の態度はよくない。マナー違反だろう。だが彼に意見をする者はここにはいない。
 亜子は口を閉ざしていたが、緊張に耐えられなくなって喋りだした。
「香辛料がきついなと思っただけです」
「香辛料?」
「はい。殿下は薄味を好まれるので、いつもより過剰に入っているのが気になって」
(いつもと言っても、昨日までだけど)
 シャルルが表情を引き締めた瞬間、テーブルの上の料理の乗った皿を一気に腕を払って床へと叩き落した。
 仰天したメイドたちや護衛兵たちの前で、彼は立ち上がった。
「今日のコックは誰だ。ここへ呼べ」
 有無を言わせぬシャルルの声に、とんでもないことを言ってしまったと亜子は青ざめた。
 床に落ちた料理に視線を遣る。湯気を立てている料理たちは無残な姿へと変わり果てていた。
 やがて現れた男を前にシャルルは近づいていく。萎縮している男へと近づく彼は、亜子に視線を遣る。
(?)
 怒られるだろうかと不思議にしているが、シャルルは一瞥をくれただけだった。
「今日の料理の味付けを濃くしたのは、何か理由があるのだろうな?」
「た、たまには殿下も……」
「毒を盛るのには味を誤魔化すしかないものな?」
 先手を打つようにシャルルが言い放つ。コックが喋っていた姿勢のまま硬直する。
「でっ、殿下、なにを……?」
「言い訳をするか。ではそこに落ちた料理を食べろ」
 非情な言い方にコックが身を一歩分引く。その時だ。コックが胸元から何かを素早く取り出して振り上げた。
 亜子には、みえて、いた。
 短刀を引き抜き、亜子は一瞬でシャルルの前に出てコックの振り下ろした包丁を受け止めていた。
 ぎんっ、と鈍い音が室内に響き渡る。
(お、重い……!)
 本物の剣ではないだけマシだろうが、コックはかなり体格がいい。丸太のような肉体をしているだけに、体重をかけられると亜子の細腕ではどうにも対処できない。
「でっ、殿下、さがって……」
 ください、と言おうとした横から、シャルルの持つ細身の剣がぬぅっと出てきてそのままドスン、とコックの胸元を突いた。
 まるでフェンシングのような動きだと思ったが、おそらくシャルルは渾身の一撃として繰り出したのだ。コックの肉体を剣が突き抜けている。
 心臓を、一撃で。
 目の前で男が苦痛に顔を歪めて力を抜いていく。いや、抜けているのだ。否応なしに。
 男はそのまま膝を床につき、倒れた。…………絶命したのだ。
「片付けろ」
 シャルルの言葉に兵士たちが動き、死体を運び出していく。メイドたちは落ちた料理を片付けていた。
 呆然と突っ立っているのは亜子だけだ。痺れた掌を見遣り、背後の皇子を見る。
「……なんで殺したんですか?」
「なぜ殺してはならぬ?」
 問いかけに、亜子は眉をひそめた。
「意味が、わかりません。毒を盛ったとしても、情報を聞きだすために捕らえれば良かったじゃないですか。殺す必要はなかったはずです」
「…………」
 黙ってしまった美貌の少年に、亜子は首を緩く振る。
「簡単に奪っていい命なんてありません! あたしの世界では、そうでした! ここでは違うんですか!?」
「違うな」
 あっさりと言われたことに、亜子は己の耳を疑う。
「え……?」
「この世界では命は軽いぞ。荒野に行けば、死体はあちこちに転がっている。平民の中でも、貧しさに飢えている者はどんどん死んでいる。今、この時でさえな」
 平然、と。
 カッと頭に血がのぼった。亜子は気づいた時にはシャルルの頬を平手で打っていた。
「『あなた』がそれを言ってはいけない!」
 彼は皇子なのだ。皇帝になるかもしれない人物なのだ。一番偉く、国民を愛さなければいけない立場になるかもしれない人物なのに!
 それなのに人民の命を軽んじている!
「なんてこと!」
 レラが亜子を抑えにかかるが、亜子は抵抗してレラを突き飛ばした。
 シャルルを睨みつけるが、彼は平然としている。失望する亜子は唇を噛み締めた。
「失望しました」
「そうか」
 シャルルの声は平坦で、感情がこもっていない。亜子は打ちのめされたような気分になった。
 優しい人だと思っていた。感情も豊かで、亜子にこんな好待遇まで用意してくれて。
(ばかだな……あたし)
 勝手にシャルルに期待して、勝手に失望している。押し付けがましい。
 そうだ。
 押し付けがましい……のだ。
 一瞬で血の気が引いた。青くなる亜子がゆるゆると顔に手を遣って悲鳴をあげた。
「勝手に期待しないで!」
 意識が、闇に呑まれた。

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