Barkarole!U シャングリラ2

 目を覚ました亜子は、長椅子で読書をしているシャルルに焦点を合わせ、毛布がかけられていることにぎょっとした。
(あ、あた、あたしっ……! 眠っちゃってた!)
 なんたる失態!
 亜子は慌てて立ち上がって、毛布を畳んで椅子に置く。シャルルはまったく気にした様子もなかった。
「す、すみません……殿下」
「なにがだ」
 ぱらり、とページを捲りながらシャルルが返してくる。
「ね、眠っちゃって……その……」
「良い。今日は休暇ゆえ、学ぶこともない。ゆっくりしておれ」
「勉強……」
 そうだ。彼はもしかしたら次の王様かもしれないのだ。勉強をするのはやはり、色々……なのだろう。
(あたしで手伝えることはなさそうだな……)
 過去の自分はどうだったのだろう? 思えば思うほど、喪失感に苛まれる。
 話しかけるのも失礼かと思って、亜子はじりじりと壁際までさがった。部屋の壁一面は書棚が占領しており、アルファベットや漢字があれこれと並んでいる。
 ちらりと見遣ると、政治や経済の本もあるようで、亜子は不思議そうにしてしまう。やはり執政をするうえで、知識はあるだけあったほうがいいのだろう。
(こうしてみると、殿下は勤勉家にはとても見えないけど)
 読書をしている彼の本にはカバーがかけられ、タイトルが見えない。なにを読んでいるのだろう?
 じっと凝視していると、シャルルがこちらを見てきた。
「なんだ?」
「え?」
「なにか言いたいことがあるのであろ? 言うてみよ」
「…………殿下の読んでいるものは、どういう本かなって思って……」
「恋愛小説だ。巷で今、流行っているそうだ」
 え?
 あまりの答えに亜子は目が点になる。恋愛、しょうせつ? 殿下が?
「なんだ。驚き方がすごいな」
「いえ! あ、の、イメージがなかったのでびっくりして」
「そうか?」
 平然と応えるシャルルは小さく笑う。
「まぁ皇族は恋愛とはあまり無関係に見えるから、そう思えるのかもな」
「………………」
 物語の中と違って、王族や皇族はたぶん……自由恋愛というものはできないのだと亜子は認識していた。
 政略結婚はほとんどではないかと……そう、思っている。だから恋愛というものは、きっと……奥さん以外の人としそうなイメージというか……。
 結婚相手が恋愛相手になる可能性だってゼロではない。だがかなり低いことだろう。
 シャルルにじっと見られていることに気づいて亜子は背筋を伸ばす。
「なっ、何か?」
「アガットの世界にも皇族はいるのか?」
「え?」
 記憶を探る亜子はごちゃごちゃとした知識の中から必要なものを必死に手繰り寄せる。
「い、います……。でも、…………あたしの国の皇族は、平和の象徴というか」
「平和の象徴?」
「はい」
「そうか」
 シャルルは興味をなくしたようで、本を開いてまた文字を追う作業に戻った。
(…………しっかしあの殿下が恋愛小説かぁ。に、似合わないなぁ……)
 彼はモテるだろうし、恋愛もいくつかしたはずだ。それに比べて自分は……。
(あたしはモテたことなんてなかったし……誰とも付き合ってなかったなぁ)
 ただひたすら……ひたすら?
 表情が歪む。なくしたものを思い出そうとすると苦痛な気分になる。
(殿下はより取り見取りなんだろうなぁ……遊び相手とかには困らないって感じもするけど)
 しかし不思議だ。そういう雰囲気が……なんというか、感じられない。亜子が感じないだけかもしれないが。

 結局その日は、シャルルの傍でひたすら過ごすことになった。



 亜子はあてがわれた部屋の寝台に寝転んで、シャルルにもらったナイフを眺めていた。
 やはり装飾が素晴らしい。鞘から抜くと、ぎらりと刃は光るがなんというか上品だ。
 寝台から起き上がって、亜子は窓に近づき、外を見上げる。綺麗な月が見えた。燃え上がるような衝動が襲ってきて、亜子は目を見開く。
 自身の肉体が変化していく。
 窮屈な短いズボンの裾から尻尾が垂れ、髪が真っ赤に染まる。瞳が猛禽類のような形に変わった。
「……ふ……っ」
 短い息を吐き出し、亜子はナイフを見遣る。そしてぶんっ、と振った。
 無駄な動きが「見える」。
(これじゃ、だめだ)
 だめだ。
 亜子は狭い室内でナイフを振り回した。相手がいれば言うことはないのだが、こんな練習を誰かに見られるほうが恥ずかしいので嫌だ。
 相手を脳内で考えて動くとしても、亜子は戦ったのは一度だけなのだ。だからわからない。
(やっぱり……もっとちゃんと練習したほうがいいよね)
 でもきちんと練習する方法なんて亜子はわからない。
 マーテットの顔が浮かぶが微妙な気分になる。彼は確かに軍人だが、軍医……つまり医者だ。
 室内をうろうろしていた亜子は今日の出来事を振り返る。たいして……役に立っていたようには見えなかった。
 ただ部屋で読書をするシャルルを眺め、食事をするために移動する彼の後ろを歩き、庭園の散歩に同行した……。本気で役に立っていない。
(まあ、あたしに役に立てとは思ってない感じはするんだけど)
 ただの女子高生だった自分に皇族に何か返せるとは思わなかった。
 シャルルはただ珍しがっているだけなのだ……きっとそうだ。
 寝台にどっかりと腰をおろし、亜子は嘆息した。
 こんな身体になって、何か役に立つのだろうか? 異界の人間だからと狙われ、殺されることもあるなんて。
 好きでこの世界に来たわけではないのに理不尽だ。
 だが文句ばかり言っていても誰も助けてくれない。政府は最低限のことしかしてくれないのだ。最低限のことはしてくれる、と考えたほうがマシな気がしてきた。
 頭を抱える亜子は、この先のことを考える。ここに居られるのは短い間だけだ。
 寝床も確保されているし、食事だって侍従たちと食べることになっている。
(あぁ、でもこの気持ち悪い衝動だけはどうにもできないな)
 窓から外を、うろんな目で見つめる。月が綺麗だ。ざわつく胸の奥で、自嘲してしまう。
 そう、興奮してしまうのだ。若干、ではあるが。
 戦いへの高揚とも似ているような気がする。
 シャルルが狙われたあの晩、亜子は彼を庇って傷を受けた。あの時、信じられないくらいに激怒した。自分はあんな性格だっただろうか? いや、違う。違うと言い切れる。
(そうだ……あたしは)
 苦い気持ちが広がっていく。
 我慢ばかり、してきた気がする。あんな風に感情を爆発させたり、発露することがあまりなかった。
 だからだろうか、気分が、いや、気味が悪い。今の自分が。
(不気味なっていうか、さ)
 それでも。
 それでも『ココ』が生きる世界なのだ。生きていく世界なのだ。だったら、覚悟をするしかない。するしか……ないのだ。
「………………」
 不愉快な気分が広がってくる。
 亜子はドアを開けて、ゆっくりと廊下を見回す。上流階級の者たちは、下働きの者たちを地下に住まわせるという習慣なのだろう。亜子の部屋はそれでも一階に用意されていた。
 ドアを閉め、今度は窓を開ける。そっと見上げ、窓の上の枠に手をかけて軽々と鉄棒で逆上がりをするような反動で少しだけ突き出したそこに足を置く。
 身軽になっている今の自分には造作もないことだ。
 そのまま二階のバルコニーへと足をかけ、跳躍して屋根の上まで到達する。
「…………」
 やはりでかい屋敷だ。
 王宮はあちらの方角だ。ここから近い。あそこもでかい。
 亜子は溜息をつきたくなってくる。
 こんなに不必要に広い屋敷に住む者たちの気持ちは、わからない。亜子にとっては広すぎる。
(感想も『でかい』とか……短絡的なものしか出てこないし……)
「アガット」
 小さな声だが聞こえた。
 ぴくんと反応して、顔を下へと向ける。
 3階のバルコニーにシャルルがいた。月光の下で見る彼はかなり幻想的だ。
「殿下……」
 呆然としているシャルルに、亜子は顔をしかめる。屋根を軽々と駆けて近づき、彼の居るバルコニーに一番近い場所に降り立つ。
「こんな夜更けに危ないですよ」
「おまえに心配されるとはな」
 苦笑するシャルルは、視線を真っ直ぐにした。その視線を、亜子も追う。
「なあ、おまえから見て王宮はどうだ?」
「…………広すぎますね」
「…………」
 唖然としたような視線を向けてこられて、亜子は肩をすくめる。
「あたしの国ではあんな豪華で豪勢な建物に住んでいる人はほとんどいませんから」
 遠目からでも、その豪華さはうかがえた。シャルルは納得できないような顔をする。
「ここでもそうだぞ」
「でも……なんていうか、『遠い』ですね」
「とおい?」
 亜子は思ったまま、王宮に視線を向けた。森に囲まれている王宮は、ただ広く、荘厳にそこに存在していた。壁がぐるりと囲んではいるが、それでも広大な敷地と建物だからか、距離は近く感じる。実際は思ったよりもっと遠くにあるはずだ。
「なんていうか、あたしは異世界出身だからかもしれないんですけど、あんな広い建物で、誰が何をしてるのか想像できないです。
 あそこには王様がいて、あ、皇帝ですよね。この国で一番偉い人がいて……でも、国のために何をしてるのかわからないっていうか……」
「………………」
「国や民のために色々考えてくれてるんだろうけど……あたしにはすごく『遠い出来事』に感じちゃう……」
「……そうか」
 ぼんやりとそう呟くシャルルの表情は読めない。
 亜子は考えてしまう。
 彼を守る役目にはついたが……具体的にどうすればいいのだろうか?
(命の危険から守る、かな? 普通は。でも全然想像できないっていうか)
 指南書みたいなものでもあればいいのに……。マニュアルってやつだ。でも……そんなものないだろう。
「憂鬱そうな顔だな?」
 言い当てられ、いつの間にかこちらを見られていたことに亜子は顔が熱くなる。
「いや……その……」
「べつにおまえに護衛が務まるとは思っておらん。ただ……そうだな、いつもと何か違うと思ったら余に伝えればいい」
「え?」
「些細なことで構わん。なんでもよいのだ」
 意味がわからなかった。
 亜子は「はあ」と曖昧に頷く。
「ところでおまえは屋根の上で何をしておったのだ?」
「いえ、あの……。じっとしていられなくて」
 正直に答えると、シャルルは目を丸くしてから楽しそうに笑い声をあげた。
(うっ。恥ずかしい……)
 咄嗟に洩らしてしまった言葉に亜子は羞恥した。
「この世界に来る前のおまえはどんなだったのだろうな? 活発な娘だったのだろう」
「かっぱつ?」
 違和感を受けて亜子が不愉快そうに顔を歪ませる。その様子が妙だったのか、シャルルのほうが驚いていたようだった。
 亜子には、違和感の正体がわからない。
「いえ……活発なほうじゃ、なかったと思います」
 なんだろう、これ……。
 記憶がないせいだろうか? なんだかやけに今晩は…………そうだ。『腹が立つ』『苛立つ』。
 視線を伏せる。
 ……このままでは、シャルルに罵倒を浴びせてしまいそうだ。
「あたし、行きますね」
 ひょいっと身を反転させて屋根の上にのぼる。シャルルの目が届かないように思いっきり離れた。
「…………」
 反対側のほうまで来て、亜子は腰をおろす。
 広大な庭が見える。そういえば……シャルルはなぜあそこに居たのだろう?
(ん? 殿下の部屋ってあそこだったっけ?)
 まだ屋敷内の地図が完全に頭に入っていない亜子にはよくわからない。
(護衛としては期待されてないみたいだけど……どういうことなんだろ……)
 よくわからない、あの皇子様は。
 わからないのは皇子だけではない。亜子はこの世界のことをほとんど知らない状態なのだ。
(本でも読んでみようかな……)
 即席でもいい。なにか詰め込んでおけば、なんとかなるような気がした。気がした、だけだ。

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