Barkarole!U 序章7

 亜子にはこちらの世界の衣服一式が用意されていた。とはいえ、これは6日限定の衣服らしい。職業登録を済ませたら、まず賃金を与えられ、そのお金で職業に相応しい衣服を自分で揃えなければならない。らしい。
 下町の住人の平均的な衣服は軽く、また質素で、明らかにシャルルやマーテットの着ているものとは生地の質が違っていた。あっという間にぼろ雑巾になってしまう類いの布だろう、自分のものは。
 薄い冊子を片手に馬車に揺られていた亜子は、向かい側に陣取るシャルルを見た。瞼を閉じている彼は少し不機嫌そうだ。
 亜子の隣に座っているマーテットは代わりに上機嫌で、こちらを時々楽しそうに見てくる。……正直、勘弁してもらいたい。
 馬車がついたのはかなり時間が経ってからだった、と思う。時計がないので正確にはわからない。
 馬車から降ろされたのは庭先だった。屋敷というからには、と想像した通り、中庭のような場所は広大で、色々な花が咲き乱れていた。
 シャルルはずんずんと大股に庭を横切り、マーテットも続く。仕方なく亜子もそれに倣った。
 護衛の兵士がいないことに、亜子は不思議そうにする。昨日のデライエという人物は今日はいないのだろうか?
 迷いのない足取りで進むシャルルは、ふいに思い出したように方向転換をした。庭の奥にあるあずま屋は美しい薔薇で彩られ、まるで恋人たちが語らうのを待っているかのようだった。
 綺麗な作りのその場所へ向かうシャルルを見遣り、不似合いさに不思議になる。彼が誰かに愛想を良くし、愛を語らうシーンなど、まったく想像できなかったからだ。
 シャルルはあずま屋に入ると、掃除の行き届いているのを確かめてから長椅子に腰をおろした。
「座れ」
 ぞんざいに二人に命令をしてくる。マーテットはあっさりとシャルルの向かい側に腰掛けた。どうしようか迷い、亜子はマーテットの横に座る。いくらなんでも王子様の横に座るのはたぶん……失礼だと思う。
 彼はまずはマーテットを見た。
「では昨日の続きだ。トリッパーについて知っていることを話せ」
「こんな、誰が聞いていてもおかしくない場所でっスかぁ?」
 おちゃらけた様子で笑うマーテットにシャルルは不敵そうに笑う。
「どこで話しても同じだ。邸内にも、耳ざとい連中は多い」
「まぁ、そうっスね」
「アスラーダ、余は待たされるのは嫌いだ」
 ぎくっとしたようにマーテットは動きを止める。
「……ほんと、困った御人だなぁ……。じゃあどこから?」
「……アガットのようなトリッパーは多いのか?」
「記憶障害や、肉体変化ですか? まあ、十割十分、そうっスね。
 でも、精神障害に同一の症例は多かったように記憶してっけど、肉体変化が一致してるトリッパーはいないはずっスよ?」
「なぜそう言いきれる?」
「まあそれは企業秘密なんでね……。医者をやってると、トリッパーの遺骸も多く診るし」
「い、いがい……?」
 思わず呟いてしまった亜子のほうをマーテットが見てくる。
「ああそっか。アトは知らねーのか。トリッパーの知識を狙う傭兵集団もいるし、トリッパーは狙われることが多いんだぜ?」
「で、でもあたしは、記憶が曖昧だし……ただの高校生なんです!」
「コーコーセイってのがなにかは知らないが、連中には関係ねーだろーな。ひでぇ拷問をして、色々吐かせる『咎人の楽園』なんかが、傭兵ギルドでは有名だしなぁ」
 拷問?
 亜子が真っ青になるのを見ても、シャルルは声もかけてくれない。
「寿命で死ぬのは、中央都庁で働いてる連中くらいじゃねーのかね。でもアトは記憶が足りないし、特技もなさそうだからあそこで働くのは無理だろうなぁ」
「と、特技がない人はどうするの?」
「だいたいは地学者になるなぁ。遺跡を回って、調査して報告書を提出すれば、帝国が賃金をくれるし。安全な職といえば、それだな」
 地学者……。亜子は冊子を開いて確認する。
 遺跡を探査する者。簡略的な説明しか載っていない。
「あ、あのっ、地学者っていうのは具体的になにをするんですか?」
「さあ? 遺跡の調査がほとんどだって聞くけど……噂によればトリッパーは帰り道を探して地学者になるって聞くぜ?」
 帰り道?
 その言葉を頭の中で繰り返す亜子は、ああそうか、と納得した。その発想が自分になかったのは……自分が遺跡に出現しなかったからだ。もし遺跡に出現していたら、その遺跡に真っ先に行こうと考えるはず。
(地学者……あたしの世界への帰り道があるかもしれない『遺跡』)
 そういえば昨日の女医の説明にもそんな内容があった。
 示された一本道が、確かなものへと変わる。そんな感触がしたが――――。
「やめておけ」
 シャルルの言葉で思考が中断された。
 彼は青緑色の美しい瞳でこちらを凝視している。
「トリッパーでいまだ誰一人、元の世界に戻った者はいない。儚い望みだ」
「まあその通りだけど、それでも故郷に戻りたいって願うのはしょうがないんじゃないっスか?」
「……そうだな」
 椅子に深く座り込むようにしたシャルルは昨日とは衣服が違う。だが今日もそれなりに華美な格好だ。似合っているので文句は言えないが、かなり目立つ。
(王子様だから、しょうがないのかな)
 不思議になるが、こちらの世界のことだからよくわからない。亜子は面倒なことは考えるのを放棄しようと考えた。どうせまだ知らないことだらけだ。この二人が親切にすべてを教えてくれるとは思えないので、今は深く考えるだけ疲労するに違いない。
「それで、アスラーダ。アガットのような肉体変化の者はいないと言ったな?」
「あい? あぁ、そうっスね。知ってる限りじゃ、いないっスね」
「アガットの肉体変化はどのようなものなのだ?」
「本人に訊くのが一番、と言いたいところだけどー……まだ自覚症状はないし、自覚したくない時期だろうなぁ」
 後頭部を掻くマーテットの言葉に亜子は激しく頷いた。
 まだわからない。自分が「なに」に成ってしまったのか。
 シャルルは少し考えていたようだが、今度は亜子に目を向けた。
「記憶が曖昧になってしまったと聞いたが、まことか?」
「……はい」
「憶えていることで、話せることはあるか? 余は異界に詳しくない。話せ」
 話せと言われても……。
 だがこれはいい機会だ。自分がどこまで「憶えている」か、試すいい機会だろう。
 亜子は神妙に頷いた。
「あたしは、地球の、日本という国に住んでいました。住んでいたところは……すみません、これは思い出せません」
「チキュウのニホン?」
「はい。あ、地球っていうのは惑星の名前なんです。惑星の大陸の一つの島国の名前が日本といいます」
 ぽかんと口を開けているシャルルとマーテットに、亜子は不安そうな目を向ける。
「あ、あの……?」
「ワクセイとはなんだ?」
 険しい表情で言うシャルルに亜子は驚いた。どう説明しようかと困惑していると、マーテットがぐっと近づいてくる。
「すっげー! もっともっと!」
「え、ええっと、惑星っていうのは……あの、空の太陽とか月とかと同じで、丸い星のことです」
「はあ?」
 二人の声が見事にハモった。亜子は自分の、少ない知識を総動員して、なんとか説明する。
「たぶんなんですけど、ここも同じように丸い星なんだと思います」
「……丸いのに、なぜ大地が平坦なのだ?」
「それは、星そのものがとても大きいから住んでいる人たちにはわからないんです。宇宙……って、あたしたちの世界では言ってます。つまり、えっと、月みたいなところからこの星を見下ろせばはっきりすると思いますけど」
「月に!? ど、どーゆー世界なんだ、異界ってのは……」
 マーテットは頭の上に疑問符を浮かべている。
「月には、シャトル……ロケットとも言うかな。それでいきます。と言っても、訓練された人しか行けませんし、宇宙ロケットを作るにはすごくお金がかかるので、たくさんは作れません」
「あー、もしかしてクルマと同じ類いの機械?」
 マーテットが少し困ったように尋ねてくるが、亜子は首を振った。
「車とは全然違います。すごく大きいですし、かかる費用や燃料も違うので……」
「……殿下ぁ、異界の人間はあの空に浮かぶ月にまで行くんですってー」
「違いないか、アガット」
「違いません。月に行ったり、宇宙ロケットとは違うんですけど、衛星と呼ばれる無人の機械を打ち上げて、星を観察するんです。
 あ、でも……あたしの世界に、宇宙に行かなくても地球が丸いって証明した人はいます。名前は……」
 勉強したはずなのに、出てこない。悔しそうに唇を噛み締めて、亜子は搾り出すように言う。
「すみません……思い出せません。でも、いました。えっと……星の動きで……それを……それを、証明した人がいたんです」
 どうしてだろう。受験勉強のためにあれこれと憶えたはずなのに、ほとんど思い出せない。断片的な記憶だけが脳裏を掠めるので余計にイライラした。
「あたしは……日本という小さな島国で育ちました。両親と……えっと、……」
 愕然とする。本当に……本当に思い出せない。
 記憶喪失者がよく映画などで演じるような痛みを訴える警告などはない。ただ「そこ」だけがすっぽりと抜け落ちているのだ。
「家族構成は、あんまり思い出せません。両親は確かにいました。あたしは、17歳なので高校に通っていました」
「余と同じ年齢か」
「えっ」
 シャルルのほうを慌てて見る。
(殿下とあたしが同い年……?)
 信じられない。同じ年齢でも、彼のほうが落ち着いているし……こんなに綺麗だ。……ずるい。不平等すぎる。
「コウコウっていうのは、魔法院みたいなものなんだろー?」
「え? えっと、あたしはマホウインっていうのがよくわからないから……」
 マーテットに苦笑で応じると、彼はにんまりと笑った。
「魔法院ってのは、そのままだ。ま、魔術とか、医術とか、魔術関連のことを習う場所だな」
「ああ、じゃあ魔術の学校ですね」
 元の世界で見た……タイトルの思い出せない映画を思い出す。
 魔法の学校で、様々な魔法を学ぶ生徒の映画を観た記憶はあるが……内容はほとんど思い出せない。
「医術が魔術の関連なんですか?」
 素朴な疑問を口にした亜子に、マーテットは目を丸くする。この人のこんな表情は珍しい。
(こんな表情もするんだ……)
「そりゃそうだろ。魔術なしじゃ、医術の発展はしねぇよ」
「?」
 亜子の世界では医術というのは、生物に関するもので……べつに魔術などなくても薬や、対応を知っていればなんとかなることもできた分野だったはずだ。
「薬とか、手術とかを魔術でするんですか?」
「へ?」
 きょとんとしたマーテットは、亜子をじろじろ見てくる。あまりにも無知だと思われたのかもしれないが、わからないことを訊くのは仕方ないことだと思う。多少……恥ずかしいが。
「薬は薬草を使う。でもこれはあくまで魔術の補助のため。シュジュツってのはなんだ? 解剖の類似言葉か?」
「解剖と似てますけど……手術は、たとえば……癌とか、肉体の内部に悪い部分がある人の体を切って、中を見て……悪い部分を切除したり、うまく繋げたりすること……です」
「……そ、そんなので治るの? 異界の人間は」
「え? こちらでは違うんですか?」
「違うな」
 即答したのはシャルルだ。
「不知の病ならともかく、大抵の病には魔術が効く。怪我も同様だ」
 信じられない言葉にぽかんとした亜子が、眉根を寄せる。病気が魔術で治る? そんなこと……いくらなんでも無理なのでは?
(でも、あたしは『魔術』に詳しくない。この人たちが言うなら、そうなのかも)
「コウコウ、というのはどういうところだ?」
「勉強と、共同生活を学ぶところです。あと、一般的な教養も、かな……。年齢で入る学校も変わってきます。だいたい15歳か16歳の人から高校に入ります。あたしは高校三年生でした」
 でした、と過去形で言うことに亜子は少しためらう。
 まるで元の世界に戻れないような、決定的ななにかを言ってしまったような気分になったからだ。
 苦いものが口の中に広がるような錯覚……。亜子は気分が悪くなって顔色が徐々に青ざめていく。
「顔色わりぃな」
 マーテットが亜子の顎を掴んで顔を覗き込んでくる。
 よく見ればマーテットの顔立ちは悪くない。近距離でそのことに気づいた亜子は目を見開き、彼から距離をとった。
「だっ、大丈夫です」
「そうかー?」
「朝から何も食べていないせいではないのか?」
 シャルルに指摘されて、亜子はそのことを思い出した。空腹を知らせる音が小さく響き、恥ずかしさに消えたくなる。
 マーテットとシャルルはごそごそと白衣のポケットと懐を探していたが、同時になにかを掴んで差し出してきた。
「ほれ、飴玉」
「焼き菓子だ」
 マーテットは紙包みにくるまれたもの。シャルルは紙袋に入った、なんだか硬そうな菓子を出してくれた。
 受け取った亜子が奇妙に見ていると、マーテットが説明してくる。
「おれっちのは、あとでいいと思うぞ。腹が膨れるのは殿下のくれたクレバの菓子のほうだろうしなー」
「クレバの菓子?」
「あ、そっか知らねえか。有名な菓子店なんだぜー。硬いけど、携帯食に向いてるし美味いしな」
 そうなの? という表情をシャルルに向けると、彼は無表情でいた。そういえばなんだか彼は今日、あまり笑っていない。というか……表情に変化がない。
 亜子はシャルルからもらった菓子を一つ摘み、持ち上げた。丸い菓子は丸薬のようにも見える。思い切って口に入れると甘みが広がり、口の中で徐々にとけていく。不思議な感触だった。
「お、おいひい」
 もごもごと口を動かして感動を言葉にすると、マーテットが「だろー?」と喜んだ。しかしシャルルは「そうか」と小さく言っただけだ。
 クレバの菓子は確かに噛むと硬い。ゆっくりと舌の上でとかすように食べるもののようだ。



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