Barkarole!U 序章6

 シャルルの馬車に再度乗り込んだ亜子は、マントをゆっくりと取って、シャルルに返した。
「あの、ありがとうございました殿下」
「…………」
 彼は頬杖をついてこちらを一瞥した。そして意地悪そうに笑う。
「数分間だけなのか?」
「え?」
「元の姿だ」
 ほれ、と指差され、亜子は慌てて前髪を引っ張って視界に入れる。赤茶の色に戻っている。
 尻尾もなくなっている。耳も尖っていない。
 安堵している亜子は恥ずかしくてもじもじしてしまった。
 だがシャルルは愉快そうに見てくるだけだ。
(も、もしかして殿下って……けっこう意地悪?)
 話しかけてもいいものやらわからなくて黙っていると、シャルルがフンと鼻を鳴らした。
「やはりトリッパーなのだな、おまえは」
「え……?」
「実在するトリッパーに会ったのは初めてなのでな」
「そ、そうなんですか……?」
「嘘を言う必要性もあるまい?」
「そ、そうですね……」
 俯く亜子は、手枷が目に入る。自分は逃げられないし、行くあてもないことを強く思い出された。
 そう……。
(あたしは……あたしは……)
 モドレナイ。
 強烈な飢餓感のようなものが襲ってきて、思わず自身の喉に手を遣る。
 記憶が、曖昧。そして、妙な姿に変わる肉体。これがトリッパーだというのか? 来たくてこの世界に来たわけでもないのに。
 理不尽を通り越して吐き気が湧き上がってきた。
 意識が……闇に沈んでいった……。



 薄い冊子を亜子はめくっていた。あの白い部屋の中で。
 部屋は闇に包まれ、亜子の視線は格子のはめられた窓に向けられる。見える空には月。地球と変わらないその様子に、だが、亜子の心臓がどくんと大きく鳴った。
 肉体の内側から強烈な力が沸き上がり、髪がざわめく。赤茶の髪が燃えるような炎色に染まり、瞳が月を映すように鈍い金色になる。 
「う、あ、ぁ……」
 亜子は急激な肉体変化に意識がついていかない。爪が長く伸び、尻尾が生え……。

 ハッとして瞼を開けた亜子は、覗き込んでいる美貌にぎょっとする。
「うなされておったぞ、アガット」
「……で」
「で?」
「殿下……」
「そうだが?」
 またも気づいて亜子は彼から距離をとろうとして身をよじった。途端、壁にぶつかって鼻をしたたかに強打した。
 そこは亜子がいるようにと促された部屋だった。白く、狭い部屋だ。
 手枷はいつの間にか外されていて、亜子は驚きながら痛みに顔をしかめて起き上がる。
「低い鼻がさらに低くなったのではないか?」
「ひっ、ひど……!」
 鼻をおさえながらシャルルのほうを見ると、彼は室内にいつの間にか豪奢な椅子を置き、そこに座っていた。いきなりの不釣合いな光景に亜子は目を剥く。
「で、殿下……? そういえば、なんで殿下が?」
「昨日、馬車の中で気を失ったのを憶えていないのか?」
「え……?」
「余の屋敷に連れ帰るのは許されなかったゆえ、仕方なく余から来てやった」
「……いつから?」
「そうだな……」
 シャルルは少々考えるように顎に手を遣る。どんな動作をしていても気品があって、美しい。
「一時間ほど前だな」
「ひっ! 起こしてください!」
 寝顔をずっと見られていたのだと思うと恥ずかしい。真っ赤になる亜子とは違い、シャルルの態度は変わらない。
「なぜ余が?」
「……いえ、それは、だって……」
「いや〜、殿下ぁ、いくらトリッパーとはいえ、相手は女の子っしょ?」
 もう一つの声に亜子は驚いた。部屋の隅にひょろりとした男が立っている。丸眼鏡の彼は、たしか……。
(マーテット……さん?)
 白い軍服の上に白衣を着ているし、髪は相変わらずぼさぼさだ。
 こうして明るい光にさらされた室内で見れば、マーテットは明らかに小汚いイメージまで受ける。だが彼なりに身なりは整えてきたのか、昨日のだらしない様子は少しない。
 ドアを開けて昨日会った女医が入ってきて驚いて動きを止めた。
「こ、これは、あの」
「ああ、気にしないで。お忍びなんでね〜」
 にっこり笑うマーテットに女医は怪訝そうにしていたが、彼が軍服を着ているのに気づいて慌てて頷いた。
 女医の女性は亜子に近づき、視線を合わせてくる。
「肉体変化のほうは、報告を受けたわ。トリッパーとして登録は完了したから、あとは職業登録だけよ。
 猶予は一週間。滞在場所は下町の西区よ。一番治安がいいわ。中央広場で乗合馬車を降りて、案内させるから」
「あの……一週間後まで、なんですよね?」
「そうね。正確には6日後ね。迎えが行くから、道順を覚えるのよ」
 親切に微笑する女医が腰をあげて部屋を出て行ってしまい、亜子は不安に顔を俯かせる。猶予はたった6日しか与えられなかった。

 建物を出るとそこには一台の馬車が待っていた。亜子が乗るべき馬車だろうか? それにしては豪奢すぎるというか。戸惑っていると、シャルルがずんずんと歩いてこちらを振り返った。
「なにをしている。行くぞ」
「え……あの、ついて来てくれるんですか?」
「行くのは余の屋敷だ」
 …………え?
 目を剥く亜子の横を通りながら、マーテットが「へへっへ」と奇妙な笑い方をする。
「まあ諦めるんだなー。下町にはあとでおれっちが連れていってやるよ」
 とんとん、と白い階段を降りていくマーテットの後ろ姿を眺め、亜子は意を決して歩き出した。
 そうだ。歩き出さなければ……結局前へは進めないのだ。



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