Barkarole!U 序章5

 馬車が着いて降ろされた先には広大な庭が広がっていた。そして巨大な門。門の上の壁にはなにか文字が書いてあるが、読めない。それもそうか。ここは日本ではないのだ。
 シャルルが亜子の手を軽くとって歩き出した。
「こちらだ、来い」
「でっ、殿下!」
 背後でデライエの焦る声音が聞こえたが、シャルルは無視をして門を迂回して右手の建物に向かった。
 学院と言われるだけあってかなり大きな建物だ。それに夜だからかなり静まり返っている。ところどころ、部屋に灯りがあるのは見えるが、残っている生徒か教師でもいるのだろう。
「正面から行くよりも、早いからな」
 楽しそうに言うシャルルは建物の前に立つと背後のデライエに命じた。
「さあ、あやつのところまで案内せよ、デライエ」
「…………」
 渋面を浮かべるデライエは仕方なくドアを開けた。特殊な鍵でも必要かと思ったが、あっさり開いたので亜子のほうが驚く。
 いや、それとも……彼はなにかしたのだろうか?
 この世界には「魔法」が存在するようだ。つまりは、ファンタジーの世界なのだろう。
(ふぁ、ファンタジーとか、本気でありえない……)
 眉を吊り上げながら軽く息を吐く亜子は、ぴくりと小さく反応した。
 地下だろうか? なにか、大きな音がしている。いや、亜子にだけ「大きく聞こえている」のだ!
(あたし、耳がどうにかなっちゃったの……?)
 恐れながらシャルルに手を引かれて歩く。長い廊下が待っていた。
 静まり返っている廊下の先を歩くのはデライエだ。手に持っているのはランプのようだが、なんだか不思議な形をしている。
(なんか変な世界……中世のヨーロッパっぽいけど雰囲気は)
 小さな灯りだというのに、デライエの足取りには迷いがない。それは、ここの道に慣れているということだろう。
 数人の足音だけが不気味に響く。反響するのが亜子にはうるさいと感じてしまうほどに。
(やっぱり……なんか、おかしい……)
 息苦しさのようなものを覚えていると、デライエがある場所で立ち止まった。ドアがあるが、そこには「立入禁止」と書いた札がさがっている。
 札をどけて、デライエは先に進んだ。そこは地下に繋がっている階段のようで、暗くて先がまったく見えない。見えないはずなのに。
(…………見える)
 亜子は何度か瞬きを繰り返した。
 デライエが持っているランプが邪魔だと思えるほど、暗闇のほうが好ましい。だって「見えて」いるのだから。
 明らかに自分自身に何か異変が起こっている。……このことは、隠さなければ。
 階段を降りていくと、その先は広間のようなものがあって、一つだけドアがある。そこにも「立入禁止」の札があった。だが。
「マーテット! 殿下がお越しだ!」
 乱暴にノックをしたデライエが、ドアをいきなり蹴破る。
 突然の乱暴な訪問に、室内に居たらしき人物は驚くこともなく、奥の机に向けていた身体をこちらに反転させて目を細めた。
「嘘言って邪魔しようなんてするなよ、オッスの旦那ぁ」
「オッスではない! 少佐だ! それに、嘘でもない」
「はあ? なんで皇子殿下がこんなとこに来るんだよぉ? 意味わか……」
 と、こちらに気づいて青年がぎょっとしたように目を瞠る。やたらと目の細い、見る人が見れば、姑息なイメージを受ける男だ。年齢はまだ二十代の前半だろう。
 白衣を着ている青年は、その下はデライエと同じ軍服だ。
「ええええ〜!? なんでここに第二皇子殿下来てんの? なにやってんだよぉ、オッスの旦那はぁ!」
 ゴン! と、痛い音がした。デライエが青年の頭を殴ったのだ。
「口を慎め」
「良い良い。では話はこやつとするので、デライエは外で待っておれ」
 シャルルが平然とまたも無茶なことを言い出したので、デライエが困ったように眉根を寄せた。
 しかしシャルルは彼の表情を無視して続けた。
「人払いをせよと命じておる。早くゆけ」
 厳しい一言に、苦渋の色を滲ませて「御意」と呟き、デライエは護衛兵を連れて部屋を去った。残されたのは亜子と、シャルル、そして得体の知れない青年だ。
 丸眼鏡をかけた彼は糸目で、そうしているとまるで害がなさそうにみえる。髪はぼさぼさで、シャルルと比べるとどうしても見劣りのする外見だ。
「おやおや。厳しい御方だなぁ」
「フン。皇族に礼儀もないやつに言われたくはないな」
「うわっと、そ、そうでしたね」
 困ったように後頭部を掻く青年は椅子から立ち上がった。背がかなり高い。
「マーテット=アスラーダだな? ヤト唯一の軍医」
「ご存知とは、光栄至極」
 かしこまったように頭をさげる青年は、目的のマーテットだという。
(この人が、あたしのことを色々教えてくれるの? でも軍医だって……)
 疑問符を頭の上に乱舞させている亜子を放置し、シャルルはすすめられた椅子にどっかりと座った。亜子もマーテットも座ることは許されていないので、突っ立っているしかない。
「慣れない丁寧語は使わずとも良い。不気味に思える」
「そ、そうは言われましてもねぇ〜……」
「おまえ、トリッパーに詳しいのだろ?」
「いや……専門家じゃないんで」
 ぶんぶん、と右手を左右に振るマーテットは心底迷惑そうだった。どうやら彼は表情にかなり感情が出るようだ。
(お医者さんには見えないなぁ、とてもじゃないけど)
 白衣はよれよれだし、彼自身も医者と名乗っているような雰囲気ではない。どちらかというと……。
 部屋を見回し、気づく。そうだ。彼は「研究者」に近い。
 手枷をしたままの亜子に気づいたマーテットは眼鏡を押し上げる。
「トリッパー?」
「そうだ」
 シャルルが即答したものだから、マーテットはぽかんと口を開け、こちらを指差してくる。
「マジ……?」
 どう反応すればいいのかわからずに困惑していると、マーテットは近寄ってこようとする。それを遮ったのは、シャルルの腰に下げられていた飾りのような美しい装飾をした剣の鞘だった。
 阻むようになんでもない動作で差し出された剣に、マーテットはすぐさま動きを止める。そして苦笑した。
「意地の悪い殿下だなぁ〜」
「近寄るな。余のものだ」
「トリッパーは希少種。しかもこれほど完全に人間に見えるのは珍しい! なあ!」
 突然マーテットはこちらに輝くような笑顔を向けた。好きにはなれない笑顔だ。明らかに獲物を狙うような瞳をしている。
「おれっちの実験体にならねーか?」
(……ちょ、ちょっとなにそれ……)
 シャルルの言った「悪癖」が露骨に出ているではないか。
「お断りします」
 亜子がむすっとして応えると、マーテットはますます喜んだ。
「言葉もきちんと喋ってる! 殿下! ここに連れてきたのはおれっちに研究させてくれるためなんだろ? なあなあ」
 馴れ馴れしい言葉遣いになってしまうほど、興奮しているということだ。マーテットは亜子を凝視し、上から下まで眺める。恥ずかしくて亜子は少し肩をすくめた。
 剣をおさめないシャルルのせいで、マーテットは亜子に近づくことができない。
「名前は? おじょーさん」
「え……?」
「アガットだ。アガット=コナー」
 シャルルが先に答えてしまったので、亜子は口を噤むしかない。そういえば、トリッパーは身を守るためにも元の世界の名前を名乗ってはいけないのだ。忘れていた。
「アガット……? へぇ。短縮しにくい名前だなぁ」
 うんうんと唸るマーテットは、ぽん、と掌を打った。
「そうだ。アトにしよう!」
「……おまえは勝手に他人の名を改ざんする趣味もあるのか?」
 シャルルが冷ややかに問うと、マーテットは「まあね」と頷く。
「そのほうがぐっと親しみが増えるっしょ。殿下もやってみたらいかがっスか?」
「悪いがそういう趣味はない」
(……なんか、殿下はあまり機嫌が良くない……?)
 さっきから少しも笑わないし、表情が冷たいままだ。不穏な空気を感じる。
 亜子はマーテットを不安そうに見た。彼はこちらの戸惑いに気づいたのか、シャルルを見下ろす。
「そういえば……じゃあ殿下はなにしにここに?」
「トリッパーのことを知りに来た」
「こんな夜更けに!? いくらなんでも無茶っスね!」
「余は即断即決派なのでな」
「…………オッスの旦那が困るわけだ……」
 ぼそりと洩らしたマーテットの言葉がはっきりと耳に入る。亜子は今度こそ目を見開いて顔を強張らせた。これは明らかに肉体変化が起こっている……!
(二人に隠し通せる……?)
 ごくりと喉を鳴らす。それでも二人に気づかれないように、だ。
 やれやれとマーテットは肩をすくめた。
「賢い皇子殿下。それがどういうことを意味しているのか、わかっていらっしゃってるので?」
「わかっている」
「あなたは自分の命をさらに危険にさらすと?」
 え? 危険?
 亜子は仰天してシャルルを見つめた。彼は剣をさげ、小さく笑う。
「元々、王宮内とはそういうものだ。馬鹿なふりをするのも疲れるものだぞ、アスラーダ」
「…………」
 マーテットは眼鏡の奥の瞳を細めた。
「あー、やだやだ。……殿下ぁ、隠し事をするのはやめてくださいよぉ」
「余は秘密主義である」
 尊大に言い放つシャルルは不敵な笑みを浮かべる。どきりとする亜子は、もやもやしたものも同時に感じてしまう。
(あたし……そういえば王子様のこと、なにも知らない……)
 この世界のことも。この人のことも。
 まずはそこから学ばなければならない。悲嘆に暮れることはいつでもできるのではないか? そう思ってしまう。
 ぴくん、と亜子の耳が物音をとらえた。
「殿下!」
 鋭く言い放った次の瞬間、亜子は彼に体当たりをしていた。腕に自由がきかないため、それくらいしかできなかったのだ。
 椅子ごと倒れかけたシャルルを支えたのはマーテットだ。彼ら二人は驚いていた。
 亜子が倒れた場所は今までシャルルが座っていたところだ。そこに鋭いナイフが突き刺さっていた。つまり、亜子の左腕に。
 焼け付くような痛みに亜子は「うぅ」と洩らし、体が震えた。
「アスラーダ! デライエ!」
 シャルルの号令でマーテットがドアを開け放つ。ドアの外では戦いになっていた。ドアの前に居た男が穴を空け、そこからナイフを放ったらしい。
 小柄な男は悲鳴をあげてマーテットを見上げた。眼鏡を押し上げる彼は非情な顔で告げた。
「死ね」
 刹那、ぐずり、と男の身体が崩れ落ちる。まるで土くれのようにぐちゃぁ、と崩れていった。
 デライエは交戦中だった。彼は身をかわし、なにやら魔法らしきもので相手を圧倒しているが、すでに護衛兵たちも地に伏しているため一人では不利だったのだろう。
「チッ。防音にしていたのが仇になったか」
 マーテットの舌打ち混じりの声に、亜子は現状を悟った。
 シャルルが亜子に寄り、屈んで様子を見てくる。
「大丈夫か、アガット」
「…………」
 痛い。痛くて、声が……だせない。
 苦痛に眉をひそめていると、シャルルがふいに目元を和らげる。
「治癒の魔術は少しは使える」
 そっとナイフを抜いた彼は、手をかざしてなにかぶつぶつと唱え始めた。痛みが和らぎ、亜子はホッと安堵した。
 傷はすっかり塞がったが、亜子は沸々とこみあがってくる怒りに立ち上がった。
「アガット……?」
 亜子の髪は燃えるような赤髪へと変質し、その耳が尖っている。茶色の瞳は金色に鈍く輝き、患者服の足元からは尻尾が覗いていた。
 トリッパーの「異能」が完全に表面に出てしまった姿だった。
 しかし今の亜子は気づく余裕がない。
 とにかく怒りで気が狂いそうだったのだ。
 誰を狙って来たのか知らないが…………イタカッタ。
 月のもののような鈍痛ではない。パッと目の前が閃くような痛みだった。
 頭に血ののぼった亜子はドア目掛けてあっという間に跳躍し、外に躍り出た。広間で戦っている剣を持った者たちを勢いをつけて蹴り倒す。
 体中に力が満ちていた。
 普段の亜子にはこんな動きはできない。
 まるで雑技団の団員にでもなったようにしなやかな動きで攻撃をかわし、亜子は素早く移動しては男たちを昏倒させていく。
 すべてテレビで観た、映画で観た格闘を真似ていた動きだが、それが「できる」ことに亜子は驚かなかった。
 デライエが魔法で数人を吹き飛ばしてことが終わったあと、マーテットがずんずんと近寄ってきて亜子の肩に両手を置いた。
 ハッとして我に返った亜子は急に怖くなって「ひっ」と悲鳴をあげる。
「アト! おれっちのじっけ……へぶっ」
 後方から鞘でゴン、と叩かれてマーテットは潰れたカエルのような声を出す。驚く亜子は、彼の背後にシャルルが立っていたのに気づいて「あ」と小さく洩らした。
「アガット……」
「殿下……」
 まるで気持ちをあらわすように亜子の尻尾が垂れる。その尻尾は明らかに獣のものだ。
 亜子は自分をぺたぺたと触り、変化のある部分を確かめるように確認する。だらんとした尻尾を掴んで持ち上げ、乾いた笑みが出た。
「あは……猫の尻尾?」
 シャルルは頭をおさえているマーテットを押し退け、自分の身につけているマントを脱ぐと亜子に頭からかぶせた。
 彼は亜子より身長がかなり高いので、すっぽりと足元までマントで隠れてしまう。
「殿下、こやつらは……」
「殿下、おれっちの実験に使ってもいいよな?」
 デライエの言葉を遮り、マーテットが進言した。彼ら二人を冷たく見て、シャルルは口を開く。
「アスラーダ、話はまだ終わっていない。後日、我が屋敷に参じよ。こやつらはデライエに任せる。どうせ吐かぬとは思うが、尋問して、雇い主を見つけろ」
 げっ、と呻いたのはマーテットで、「はっ」と短く頷いたのはデライエだった。
 シャルルは亜子のほうを見てふいに微笑んだ。
「命の恩人だな、アガットは」
「……殿下」
 そのあまりにも優しい微笑みに胸がどくんどくんと音をたてる。こんな綺麗な男の人に微笑まれてときめかない女の子はいないだろう。
 恥ずかしくて亜子はマントの裾で顔を隠した。
「デライエ。アガットは余の屋敷に連れ帰る。よいな?」
「…………」
 シャルルの言葉にデライエが葛藤の色を見せた。マントの端から亜子は固唾を飲んで様子を見守る。
 あの白い部屋に戻されるものと思っていたが……亜子は王子の命を救った。だが肉体が変化しているトリッパーを簡単に王宮には入れられない。たとえ、王子の個人的な離宮だとしても。
「あ、あの、デライエさん……あたし」
「アガット」
 叱咤するようなシャルルの声に亜子はびくっとする。彼はさっさときびすを返して階段をあがり始めている。ついて行くべきかと逡巡していると、デライエが嘆息した。
「馬車の護衛兵のところまで、殿下を頼む」
「は、はい……」
 慌てて頷いてシャルルのあとに続く。
 黙って歩いているシャルルをうかがいながら歩く亜子は、自分がこのあとどうなるのかと必死に考えた。
 この真っ赤な髪はどうなるのか……尖った耳。それに、尻尾……。
(あたし……なんだろう。バケネコ?)
 亜子の国には「妖怪」というものが存在するとされている。とはいえ、誰も姿を見たことはない。
 その中に、化け猫というものが存在している。三叉にわかれた尻尾を持つ、主人の仇を討った、など……猫に関しての怪談話は尽きない。
 背後を振り返る。マーテットにはトリッパーの話をほとんど聞けなかった。
(あたし……もう人間じゃないの……?)
 恐怖と不安に心を支配されながら、亜子は前を向いて歩き出した。
 嫌な気分だった。運命は、自分にさらなる過酷な風を吹かせようとしているのではないかと思えてならなかったからだ。



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