Barkarole! ナイトスカー15

 誰もいない。助かった。
 添乗員たちはまださらに後ろの車両にいるはずだ。きっとこの列車が走り始めてそれほど時間は経っていない。
 食堂車内はオレンジ色の光に包まれていた。
 時刻は夕方。やはり出発してまだそれほど時間は経過していないようだ。日没まであと少しというところだろう。
 サリーはすぐに追いついてきた。
 ハルが驚愕したのは、彼女がトリシアを抱えずに、髪を引っ張って引きずっていたことだ。
 あれほど綺麗に結われていた髪がばらばらにほどけ、無残な状態になっている。
「…………」
 呆然とした後、沸々と怒りがわきあがってくる。
 サリー=ベロニカ。貧しい村。遺跡のそばの村に住んでいた娘だ。
 忘れるはずもない。ハルが最初にトリッパーだと洩らした男の妹だった。
 あの頃は確か同い年くらいだった。成長してはいるが、たいした違いはないのですぐにわかったのだ。
「サリー……」
「ん? あたしのこと知ってるの? トリッパーに知られているなんて、有名になったものねぇ」
 けらけらと笑うサリーは、ローブの下から腕を出す。その手の、指と指の間に幾つものナイフが挟まれていた。
「あたしの相棒を殺したトリッパー。あたしからにいちゃんを奪ったトリッパー。
 にく〜い、憎いトリッパー」
「…………」
 自分のせいでサリーの兄は殺された。だが、だからと言ってサリーに殺されるわけにはいかない。
 サリーはゆらゆらと揺れて、引きずっているトリシアを見遣った。
「トリッパーはバカだからぁ、こうして人質をとるとすぐに動きがにぶるぅ」
 にやにやと笑う彼女は意識のないトリシアの顔を踏みつけた。
「よせ! その女は関係ねぇだろ!」
「じゃあいらない」
 トリシアの体を思い切り蹴飛ばしてハルのほうへ転がすサリーは愉快そうにゲラゲラと笑い声をあげた。
「おもしろ〜い!」
「トリシア! しっかりしろ!」
 声をかけるがトリシアは反応しない。
 ナイフを構えるサリーはゆらゆらと近づいてくる。狂気に満ちた瞳にハルはトリシアを背負って列車内を逃げ出す。
(霧に変化を!)
 ぶわっと身体が黒いものに変質し、列車の天井を抜けて車両の上に立つ。
 足音が近づいてくる。そのまま空中へと飛ぶと、今まで立っていた場所をナイフが下から突き破り、刃がぎらりと光を反射した。
 ゾッとしてハルは冷汗を流した。
(なんだ? 異常すぎるだろ。ラグでもあんなに動けねぇぞ!)
 考えられることは一つだけだ。
(くそったれ! 薬か!)
 パーカーの相棒をしていたというのだから、サリーが薬漬けになっていてもおかしくない。
 ラグ以上の相手を敵にまわすとなると……とてもではないが手加減などできない。
 空中にとどまっていても意味はない。トリシアだけではない。この列車に乗っている全員の命が危険だ。
(どうする……?)
 どうすればいい?
 ハルは戦士ではない。魔術師でもない。剣士でもない。
 彼は地学者。遺跡を探索し、元の世界へ戻る方法を探っている異邦人。
 吸血鬼の能力も、底の浅いものだ。ハルの世界の伝承のように強くもないし、なにができるというわけでもない。
「ふふふ。どこ行ったのかなぁ」
 サリーの声が聞こえる。彼女は列車の中を彷徨い始めた。
 …………虐殺が始まる。
 つぅ、とハルの額から頬にかけて汗が流れた。
 自分には、ルキアやラグのような正義感などない。他人は他人。己の身が一番可愛い。
 だが。
(好きな女一人守れないのに……もっと大勢の人間を守れって!?)
 無理だ……無理だ!
 歯を食いしばる。
 太陽が、落ちる。
 トリシアと共に逃げるという方法もないわけでもない。こうして考えている間にも列車は通過していく、足元を。
 追いつけなくなる前に決断しなければ。
 目が泳いだ。悩んだ。そして。
 決めた。
 ハルは車両の上に着地し、そのまま霧に変化して天井を通り抜け、真下の従業員車両の中に出現した。
 トリシアを廊下に寝転がせ、そして早足で食堂車両へと向かう。
 そう。
 結局は己の身が可愛い。
(ここでサリーを殺す)
 延々と自分を追い掛け回すであろう『敵』を。
 誰かを守るとか、そんなかっこいいことは自分にはできない。そんなものを理由にしたって、結局は自分を助けることになるのだ。
 だったら最初から、割り切るべきだ。
 廊下を駆け抜けるハルは噴き出した汗を拭う。怖くてたまらない。相手は気軽に人を殺せるのだ。
(僕だって人殺しだ……だけど)
 好んで殺したことはない。命を狙われていたから、仕方なく……。けれどそれはしょせんは言い訳だ。
 食堂車両へ通じる引き戸を開けるとナイフを構えたサリーが居た。
「あははぁ。見つけたぁ」
「ゆけ!」
 霧に変化した身体から、コウモリが飛び出す。
 目を丸くしたサリーがそれらを攻撃するが、霧のためにまったく通用しない。
「あははぁ。なにこれ?」
 引きつった笑いを浮かべる彼女の背後に実体化するが、それを見越していたかのようにぐるんとサリーがこちらを向いた。
(速い!)
 身体を咄嗟にその瞬間だけ霧に変化させていなければ、ナイフでズタズタにされていた。
 彼女は再びナイフを構え直し、へらへらとした笑みを浮かべてじりじりと距離を詰めてくる。
 障害物が多いのが幸いした。彼女の動きがそれだけ制限されている。つまり、自由に動ける空間がないからこちらに勝機があるはずだ。
 ふいに、彼女は動きを止めてハルを凝視した。
「…………ハルキ=ミズサワ」
 その名にハルが衝撃を受け、硬直する。
 それは……もう、捨てた名だ。
 ハルの本名、水沢春樹。地球の、日本という国で高校生をしていた。
 不自由な生活はせず、平凡で平坦な生活を送り、そして何事もなく死ぬと思っていた少年の名だ。
 だが彼は突然、別の世界へ『移動』した。
 その『瞬間』というのは呆気なく、本人にも何が起こったのかわからなかったほどだ。
(あ……う…………っ)
 否定しろ! すぐに違うと嘘をつけばいい!
 だが……きっと彼女は兄を失ったのが原因の一つとなって、傭兵になった。あんな辺鄙な村に住んでいた少女が傭兵になるなど……何か過酷な出来事があったからではないのか?
 顔をしかめて視線を逸らしてしまう。いつもの癖が、後ろめたい時などに出てしまう癖が、ここで出てしまった……!
 サリーは笑みを消し、ナイフを慎重に構えた。
「そうかぁ……あんただったんだね。まだ生きてたんだぁ」
「……サリー」
 視線を遣ると、彼女は薄笑いを浮かべていた。思わずハルは青ざめた。
「あたしを知ってて当然かぁ。…………にいちゃんをかえせよぉ!」
 怒号と共にサリーが一足で距離を縮めた。対処ができるほどハルは立ち直ってはいない。
 彼女の動きは「見えて」いる。だから避けられた。だが身体の反応速度はサリーより下回っている。
 左手の指先が、5本とも吹き飛ぶ。焼け付くような痛みが脳に届くまでは時間がかかる。だからハルはすぐに霧に変化して移動しようとした。
 だが。
 サリーがふところから素早く何かを取り出し、床に叩きつけた。
 水を凝縮した珠だった。破裂したそれは車内に飛び散り、ハルの動きを拘束する。
 吸血鬼は『泳げない』。窓も締め切られた車内があっという間に水で埋まり、ハルは実体化して酸素を吐き出さないように口元を手で覆う。
 指先が痛みを苛烈に訴えてきて、ハルは眉をひそめる。
 痛い。とてつもなく痛い。
 だから戦うのは嫌だったんだ。だけど。だけど逃げたってどうしようもないじゃないか!
(うげ……くっ、苦し……!)
 沈むだけの肉体。酸素を求める肉体。
 衣服が水を吸って重くなり、ハルはもがいた。
 水中だというのに、サリーは身軽に泳いでナイフを振り回す。
 切り刻まれるハルだが、次から次へと小さな傷は回復していくので、サリーは不審に思って一度距離をとった。
(いくら吸血鬼でも、ぼ、僕は一般人と……そんなにレベルは変わらな……っ)
 じわじわと左の指先から血が出て行く。
「ごぼっ」
 ハルは強烈な飢餓感に襲われ、衝撃で肺の中に溜め込んでいた空気を吐き出してしまう。
 もう吸い込めない!
(窓を蹴破らないと……!)
 ほぼ密閉された空間なのはよくわかった。隙間から少しずつ水が外に零れ出てはいるが、室内は天井まで水で埋まっている。
 傷が治っていくことに戸惑うサリーとの距離を見ながら、窓へと一瞬視線を遣る。
 確か、学校の授業か、テレビで見た。ただ、見たのは水中で閉じ込められた車からの脱出方法だったのだが。
(一点に集中させて……、この!)
 持っていた小瓶の角で強く、叩く。
 なるべく細く、硬いところを使ったのだが、窓にヒビが入ってあっという間にそれは広がった。
 ガラスが水の力に負けて砕け散る。そこから水が外へと流れていった。
(テレビ、だったか……? あれじゃ、袋に一円玉詰めて振り回してたんだが……)
 とにかく助かった。
 そう思った時、両目に熱いものが走った。
 なにをされたのか気づいた時は遅かった。
(しまった! 両目が……!)
 痛い。完全に目玉を切り裂かれた!
 空気が吸えるほど水位がなくなったと思ったらこれか!
 油断をしているつもりはないが、呼吸ができなくなれば吸血鬼といえど死ぬはずだ。死ぬなど冗談ではない。
(冗談じゃ、ねぇ……!)
 死にたくない。それなのに!
 閉じた瞼の下から血が流れる。
 見えずとも、臭い、音でわかる。――――わかる。
 見えない分だけ神経が研ぎ澄まされ、ハルは攻撃をすぐさま避けた。
「な、なにぃ!」
 サリーが怒りの滲む声を出す。けれども攻撃の手は止めない。
「こ、のぉ!」
 力任せに相手を蹴りつけると、サリーの腹部に命中するのがわかった。
 彼女は吹っ飛び、近くの障害物に当たって床に転倒する。ざまあみろとは思わない。
(い、いてえ! くそ! くそ!)
 意識が錯乱しかける。
 血だ。
 血が欲しい。
(うげぇ……気持ちわり……)
 口元を手でおさえて、自分の血の臭いをなんとか防ごうと試みるが……だめだ。
 同族の、人間の血だけは何がなんでも飲みたくない。もうそれは「人間」じゃない。「化物」という違う生物だ。
 そんなものに、成り下がりたくはない!
 サリーの攻撃がまた当たる。やはり身体能力に差が開きすぎているのだ。
 一撃必殺の瞬間に賭けるしかない。
 右手の指が吹っ飛ぶ。痛い。
 両脚が切り刻まれる。痛い。
 血だ。
 血を飲めば、こんな苦しみから解放される。
(あー……)
 意識が混濁し始め、ハルはぼんやりとする頭でなんとか避けながら考えた。
 目の前に女がいる。
 飲めばいい。
 その首筋に牙を突き立て、思い切りすすればいい。
 相手は吸血鬼など知らない異世界の女だ。何が起こっているかわからない。
 甘い考えが、まるでさざなみのようにハルの意識を侵食していく。
(……こわい)
 怖い。
「とどめぇ……!」
 サリーが手を大きく振り上げた。
 見えない眼でそれを見るように顔をあげる。
 緩慢な動きにしか思えないそれを、よけない。顔を斜めに刃が切り裂いていった。
 そして。
 その渾身の一撃の隙に、腰に隠していたナイフをするりと抜いて、彼女の額に音もなく突き立てた。
 ハルがこんな反撃をするとは思っていなかった様子が、わかった。それはそうだろう。ハルは霧に変化し、コウモリは飛ばしたが……反撃らしい反撃は一度もしていないのだ。
 ハルは容赦なくそのナイフを抜いた。
 血が、降りかかってくる。
 甘露のような匂い。
 けれどハルは笑みを浮かべて言った。
「終わりだ」
 僕は化物なんかに、絶対にならない。なるものか。
 こんな弱い自分の秘密を、根性だけで守ってくれた彼女に、申し訳ない。
「ハル、キ」
 すがりつくように倒れ込んでくるサリーを思い切り突き飛ばし、ハルはその場に座り込んだ。
「それはもう、僕の名前じゃない…………。僕は『ハル』だ……!」


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